やっぱりダメだな
先日みかんぐみの竹内さんに進められた宇沢弘文、内橋克人『始まっている未来-新しい経済学は可能か』岩波書店2009を風呂で読みながら驚いた。それはローマ法王が100年に一回出す「レールム・ノヴァルム」というお言葉の20世紀版を作ったのが宇沢氏だったという事実が書かれていたからである。僕はこの言葉を数年前に知ってとても感動した。レールム・ノヴァルムの19世紀版は1891年レオ13世が出されそれは「資本主義の弊害と社会主義の幻想」というもので20世紀版はそれから100年たちヨハネ・パウロ2世が出し「社会主義の弊害と資本主義の幻想」というものだったのである。なんとタイムリーなことを言うものだと感心していたのだが、それを考えたのがキリスト教徒でもない宇沢氏だったと本人自ら本書に書いていた。改めて宇沢氏の世界的な評価の高さを感じるものである。
そしてこれを読みながら宇沢氏がシカゴ大学で同僚としてのミルトン・フリードマンを学者の風上にも置けず尚且つ人間的にも品格を欠きその教え子であるシカゴボーイズの先頭にいるのが竹中平蔵でありその取り巻きたちが政府に媚びて経済学を社会のための何の力にもできなかった経過がよくわかった(オヤジが会うたびに徹底して批判していた竹中平蔵のダメさがよくわかる)。
ところで僕は現在のネオ・リベラリズムに反対する書も賛成する書も読んでみたし、賛成する人間とも話をする(私の研究室にはニューヨーク大学の経済学部出身でハイエク、フリードマンをよく知る学生がいたりする)のだが、その結果私の今の気持ちはこうなってきた。ネオリベラリズムの中心的コンセプトである競争原理であるが、これはマクロに見たら反対、ミクロに見たら賛成である。競争原理を原理的にすべてに応用する、しないと決めることが原理的なのである。
私は昔からリバタリアンである。しかしこれはとても私的な感情として生かしておけばいいと思っている。例えばすでに戦う同じ土俵に乗っかれた人間同士は戦えばいい。その範囲では競争原理でいい。しかし視点をもう少しマクロにとったときは様々な別な条件があるのでありそれを知らずに一律に競争原理を持ち込むことは想像力の欠如としか言いようがないだろう。私の知るリバタリアンはどうしてああも原理的なのだろうか?競争原理と心中したいような人間に限って所属社会における評価が低い。きっとそれにたいするルサンチマンがそう言わせているのであろう。競争原理を徹底してくれれば俺はもっと評価されるはずだというよな、、、我が国の首相も世界での評価が低いことへのルサンチマンがそう言わせているような気さえする。弱い犬ほどよく吠える。