建築家の職能あるいは教育について
エンリクとのワークショップが終わった。今回は建築家の職能あるいは教育について深く考えさせられた。
神楽でビッグスケールとスモールスケールを一週間考えていたらなぜこの二つがバトルするのだろうかという素朴な疑問にぶち当った。なんでスモールスケールを攻撃するビッグスケールがあるのだろうか?
そこで感じるのは現在の日本にはビッグスケールを経済原理で作るという行為とスモールスケールを経済を二の次にして保護する行為が真っ二つに分かれているということに気づく。これがヨーロッパでは双方建築的行為なのでありそれを調停するのが建築なのである。そこには日本ほどのバトルは無い。日本では二つの行為の間には埋めがたい溝があるのである。どうしてか???その一因はヨーロッパで建築をつくるなら(イギリス以外は)アトリエ事務所しかないのである。ビッグスケールもスモールスケールも同じ人たちが考えているのである。一方日本ではスモールスケールを作るアトリエと、ビッグスケールを作る組織やゼネコンが半世紀前から対立的に存在しているのである。これは藤村龍至さんが言うように、日本では(ビッグスケールを作る)工学鵜呑み建築家と(スモールスケールを作る)反工学建築家に別れているということを例証する現実である。
さて問題はその次である。教育の話である。ヨーロッパではその意味でひとつの価値観で建築が動いているのだから教える方もその価値観で教えればよろしい。一方日本では二つの価値観が蠢いているのだからどっちを教えるべきなのかということになる。藤村さん的に言えば双方をアウフヘーベンさせるのだということになる。そうである双方のいいところを教えてそしてそれを昇華すればいいということになる。理科大でも院ではそれに近い教育を意識的に行っている。しかし本当にアウフヘーベンするのだろうか?と教えながらヒヤヒヤする。それは言うは易し、行うは難しである。いやもちろんアウフヘーベンの方向はないとは思わないのだが、そんな建築的な思考が強烈な経済原理と併存するには強力な意識と人々の民度が必然だろうと思われる。社会全体がそういう意識を持って初めてアウフヘーベンは可能である。前回の選挙のような状態ではとてもそういう社会は覚束無い。