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透明なる社会


今日は長い日だった。朝からあっちこっちで人に会い、途中、青山ブックセンターで多量のアート、グラフィック、写真、ファッションのを購入して研究室に送った。2時間本屋をうろうろしてちょっと厚めの本を物色していたら完全に腰がおかしくなった。その後とある方と裏のギャラリーでゲルンハルト・リヒターの新作を見た。なぜこれを見ることになったかというと、ちょっとした理由がある。その方とある本をお互い読んでその内容ととこの作品の趣旨が共通するなあと感じたからである。その本はジャンニ・ヴァッティモ多賀健太郎訳『透明なる社会』平凡社2012(1989)である。そもそも20年以上前に書かれた本である。ポストモダンの総括のような本であり、決定的に新しいことが書かれているわけではない。内容はメディアの発達が生み出す様々な多様性(価値、場所、生活等)の中でメディアは世界を透明にするように見せて実は不透明なカオスを作っている。しかしではそんなカオスがいけないかというとこのカオスだからこそ我々はある一つのオブセッションにとり憑かれることもなく自由に放たれて生きていけるのだとこの時代の状況を肯定的にとらえた書である。だからこそタイトルも不透明な社会ではなく、逆説的に「透明な社会」としてポジティブな響きを持たせている。
今更もろ手を挙げて著者に賛意を表するまでもないが、ポストモダン的な多様でカオティックな社会を否定するつもりも全くない。明日は今日から始めるのが僕の主義でもある。ただ彼流の弱い思考(複数性と不完全性の肯定)には少々飽き飽きしているところもある。ちっとは頑固な親父みたいにふるまうところも必要だろうと10年くらい前からは思っている。
さて話は長くなった、こんなメディアのつくる透明な世界が実は不透明なカオティックというのがこの写真のリヒターの作品にはよく表れているというのが我々の一致した意見だったのである。

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