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建築の知情意ってあっただろうか?


モダニズム研究会の最近のテーマは戦前戦後を貫くモダニズム思想。なので調べる対象は、美学、美術史学者、民俗学者、哲学思想家が中心。美学者というと建築に関係した黒田鵬心がいるが、その先生は大塚保次という新カント派の美学の教授だと昨日天内君から聞いた。さてたまさか今日読んでいた吉田亮『美術『新』論―漱石に学ぶ鑑賞入門』平凡社2012によれば、この大塚保次は『吾輩は猫である』に登場する迷亭先生のことだと知り、急に親近感がわいた。ついでに芥川龍之介は教え子だそうだ。
さてそんなことはどうでもよく、漱石には『文芸の哲学的基礎』なる書があり、知、情、意で心は構成され、その心が一体となって美を感ずるものだと説くのだそうだ。そしてもちろんこれは同級生である大塚先生の教えでもあった(当時のmental philosophy の常識なのだそうだ)。
大塚が新カント派だと聞くまでもなく、この知、情、意の理想となるものは認識上の真、倫理上の善、審美上の美でありカントの真善美(3つの批判書)で探求されたものに他ならない。
さておもしろいのはこの漱石の美論の知情意は明治絵画の流れに見事に当てはまっているということ。知は主として、明治10年代まえのリアリズムであり(高橋由一など)、次に正確に描くではなく、何を描くかに夢中になった(つまり意を貫こうとした)のは20年代になってから(横山大観など)、そして正しさや対象に拘りを捨て美に対峙したのが30年代(青木繁など)なのだそうだ。
こんな説明の仕方が日本美術史の常識かどうかなど全く知らないけれど、さてこんな真善美が当時の建築界に意識されていたのだろうかと考えると面白い。ちょっと気になる。

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