アトリエ・ワンの「ふるまい学」を読んで思う
昨日ジムでシャドーボクシングのようなことをやったせいで体中が痛くて動かない。仕方なく家でゆっくりした。昨日RizzoliのAtlier Bow-Wow Behaviologyといっしょにテキストの日本語訳(英語訳の元日本語?)をもらった。その中の最初の論考アトリエ・ワンによる「建築のビヘイビオロロジー」を読んでみた。こういう考え方は今和次郎的だなあと思っていたら次の藤森さんの文章が「アトリエ・ワン的視線の由来」と題してまさに今和次郎のことを書いていた。もちろん藤森さんとしては今和次郎とアトリエ・ワンの間に自らを位置付けているのであるが。
今和次郎的であるからアトリエ・ワンの評価が下がるわけでは全くない。今和次郎の発想はもともと考現学と称し現在を考えることだった。つまり現在を観察することである。僕の本棚にはその昔おばさんからもらった今和次郎全集が並んでいる。時おりどれということもなく抜き出して眺めてみる。今独特のスケッチによる生活風景に目が釘付けになる。そこには生活に対する今の尽きぬ興味(愛情)が溢れている。おそらくアトリエ・ワンも生活、人に対する好奇心に満ちている。しかし注目すべきはそうした好奇を観察から創作のレベルへ昇華させようと考え続けたことであろう。
アトリエ・ワンの文章の冒頭に彼らの素朴な疑問が書かれている「建築家が作る建物はどうして周りから浮いてしまうのか?」この疑問が最初に決定的に建築家に突き付けられたのは多木浩二によってだと思う。そしてそれを真摯に受け止めて建築を作りはじめた最初は伊東や坂本の世代であろう。しかしそれらの建築はその批判に概念的に対応していたように思われる。それを解読するには少々考えないといけない。それに比べるとアトリエ・ワンはこうした批判に対してもっと感覚的なレベルで理解可能な方法を考えた。そのために彼らは再度人に向き合いながらそこでの観察を形に変容させる道しるべを探したのである。それが「ふるまい―behaviorology」というキーワードである。そう、はるかに直接的で形や人間を結びつける匂いで満ちている。使い勝手がよさそうである。分かりやすい。
彼らが世界で受け入れられるのもこうした分かりやすさに起因するのかもしれない。