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マイクロポップ以降?

携帯にロンドンの親友からメール。出張で東京へ行くので飯を食おうとのこと。先月来る予定が火山の爆発で来られなくなっていた。それにしてもメールは距離感を感じさせない。長野もロンドンも殆ど等価だ。午前中市役所主催の景観賞建築ツアー。作品解説係で同行する。年に三回やるのだが昨今新しい建物があまり建たなくなり見るものが無くなって来た。某建築雑誌も掲載するものが無くなって来たと嘆いていたが、日本は大丈夫だろうか?昼大学にもどりサンドイッチ食べながらひたすらメール。他大学の修士受験希望者のメールが溜まって探すのに時間がかかる。その都度返せばいいのだがある程度溜まったところでと思っているとPC内で紛失する。午後の製図を少し見て学内委員会に出席。あっさり終るかと思ったが2時間もかかった。
夕方のアサマに乗る。車中美術手帳の6月号をめくる。アーニッシュ・カプーアのロンドン五輪のモニュメントに驚愕。なんだろねこの大きさ!福住廉「『芸術は可能か?』はどこまで可能か?」を読む。マイクロポップという言葉が市民権を得ているのに驚きつつも納得。マイクロポップは松井みどりが著書『マイクロポップの時代』parco出版2007の題名として使ったのが最初だと思う。フラット以降の個別化を指した言葉。それが美術批評で既に認知されているようである。最近個がますます個化することを実感しているがアートもそういうことになっている。今月号のBTの特集は「新世代アーティスト宣言」である。全部で70人くらいの作品が並べられている。そのうち14人の比較的長い文章もある。それらをさーっと読むと、殆どの人が自分ワールドにいることを感じるが、その中で一人異質なのは田中功起。彼は自分ワールドのことは書いていない。そうではなくて自分が学んだ世界、あるいは自分が組んだ仲間世界で得られたことを全否定して自分を再構築する必要はないと言う。なぜなら学びつつも、組みつつもそこに自分は少なからずいたからである。だからそうした文脈を正確に解きほぐしつつ自己と他者を見極めようとするのである。これは登場するアーティストの中で田中が比較的上のジェネレーションに属すると言うことに由来するのかもしれない。まあ理由はどうあれ、僕には彼の考えになんとなく賛同できる。マイクロポップ以降の可能性?

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