市原
研究生のT君と新宿で待ち合わせ。総武線を乗り継ぎ千葉に行き、内房線に乗り換え五井、そこから小湊鉄道なるバスのような電車に40分揺られて高滝。久々に乗るディーゼル車である。まるでトラックに乗っているようなエンジン音。新宿を出たのが12時。高滝に着いたのは2時半。新幹線なら京都に着いている。コンペの敷地まで駅からぶらぶら歩いて20分。既存の「水と彫刻の丘」と言う名のギャラリー施設の改修増築コンペである。しかし、、、、こんな地の果てのように遠い場所に人はいったいくるのだろうか?????場所は確かになかなか魅力的なところではあるのだが。寒風吹きすさむ中見学。同業者と思しき人たちも少々。一通り見終わり5時の電車に乗るべく駅に戻る。駅の周りに唯一ある何でも屋で菓子を買って吹きさらしの駅のベンチで空腹を凌いでいたらネコが3匹やって来た。野良猫を見るのも久しぶりである。車中可能な案の形式を話し合うのだが、これはかなり難しそうである。
帰宅して読もう読もうとずっとカバンに入れて持ち歩いていた祐成保志『<住宅>の歴史社会学』新曜社2009を読む。著者は信州大学の人文の先生である。去年成実弘至さんをレクチャーで招いた時「信大に面白い建築の先生がいますね」と言われこの著者の名を告げられ恥ずかしながら存じ上げなかった。読む前はブルデューの『住宅市場の社会経済学』のような本を想像していたのだが、どうも違う。社会経済学と歴史社会学だから力点の置き方が違うのは当然である。ブルデューはどうしても話が階級意識に繋がるのだが、祐成氏は住宅を成立させる広範な基盤を丁寧に掘り起こす。その中で紹介される一つの話は印象深い。それは45枚の位牌を背負って師走半ばの雨中を歩き保護された老人の話。現代の我々は彼をホームレスと呼ぶのだろうが、この老人にとって45枚の位牌は極限まで切り縮められたイエなのである。ホームレスなのにイエがあるというこの逆説は考えさせられる。上野千鶴子『家族を入れるハコ家族を越えるハコ』平凡社2002で山本さんがこう言っている「近代家族の理念が虚構でしかないということが分かっても、それでもなぜ家族というものが崩壊しないでかろうじて残っているかという、住宅と言う擬態があるからなんだと思うんです」つまり家族という概念は国家の秩序を保つ重要なユニットであり、その意味で極めて近代的概念として成立してきたもの。さらに言えば西洋キリスト教的な一夫一婦性の性秩序を守る基盤でもあった。つまり秩序を守る箱として社会(国家)が必要としたそのハコは人々が生き生きと暮らす場ではなく国家秩序のユニットを可視化したものに過ぎないというのがここでの山本さんの言わんとするところであろう。そして本来の人の生きる場としての住宅を山本さんは模索する。それはもしかすれば95歳のこの老人にとっては45枚の位牌なのかもしれない。イエとは生きていく選択肢なのであって固定化され、制度化されたハコではないのだと