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わざ

朝から冷たい雨。事務所の雑用がたまった。午前中は家で、午後は事務所でなんとか終らせ、プロジェクトの打ち合わせ。夜研究室のobと食事。帰宅後生田久美子『「わざ」から知る』東京大学出版会2007を読み始めた。日本の芸、道というものがどの様にして教えられ、そして身につくのか、その過程を分析している。この本は岡田暁生の『音楽の聴き方』に引用されていたものである。そもそも西洋音楽は日本の芸とは違い、楽譜という座標軸の上に一義的に指示されているかのように見えるものの、身体的な言語で語られる場面も多々あるわけで、その説明の為に本書が引用されていた。
著者によれば、日本の芸、道の習得プロセスとは 模倣、繰り返し、習熟という基本のルーティーンがあり、その過程で内面的には師の視線になり替わり自らを見つめ、いつしかそれを好むようになり、師の視線と思っていたものが自分となっていくというものである。また教育プロセスとしては、西洋のそれが難易度の順にあるいは部分から全体へとシステマティックに構成されているのに対して、日本のそれはそうなっていない。いきなりある作品が師によって描かれ(踊られ、奏でられ)それを模倣しろと始まると書かれている。
確かに西洋の芸があるシステムにのっているがゆえに理屈で学ぶ側面はある。とはいえ芸事を学び始めるのは普通極めて幼少でこのような芸の差を知る由もない。やはり西洋の芸も東洋のそれに近く、模倣と、繰り返し、身体化によって学ぶのである。
差が出てくるのはむしろその習得期間ではなく、習熟後である。つまりベテランの域に達してからの発展過程に差が生じる。やや乱暴だが一言でいえば、習熟後においても東洋のそれは個性の発揮が許されず西洋のそれはむしろそれが望まれる。東洋ではベテラン、熟練の域に達してもひたすら身体化に励む。そこには芸の個別性が認められていない。その理由は多分、既述のとおり東洋のそれが師弟関係の中で芸の伝承が行われることに関係する。つまりそこで個性が発揮されると芸事が正確に伝承されなくなってしまうからである。一方西洋のそれは例えば楽譜によってそのオリジナルがある程度保証されている。それゆえ奏者各自の個別性がむしろ望まれるのだと思う。
と書いたものの、推測の域を出ない。日本の芸、道に興味はあれど精通しているわけでもない。その道の人に聞いみたいところである。

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