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伊勢再考

伊勢神宮から帰ってきて、石本泰博の『伊勢神宮』を再度眺める。そしてここに撮られているような伊勢の姿は、実際にはほとんど見ることができなかったことに気づく。4重に塀で囲われた本殿の中にはまったく足を踏み入れることはできないのである。我々は伊勢に行って何を見てきたのだろうか?見られないという事実を見てきたのだろうか?しかし、見られないことが不愉快だったかというとそうでもない。ある種の空気を感じて帰ってきた。一昨日届いた『建築と日常』という雑誌に香山さんのインタビュー記事が載っていた。曰く「伊勢神宮・・・あれはすごい。なぜすごいかと言うと、言葉が一切ない」言葉はないが思想はある。そしてそれは行為に置き換えられる思想だというようなことを書いていらっしゃった。伊勢では年間に何百という神事が行われている。香山さんはその日常的な行為のことを言っている。つまり伊勢のすごいのはそのモノではなくそこで行われているコトだというわけである。そう考えるとそこに見えているものはまあどうでもいいということになる(と言えば言い過ぎなのだが)。むしろ肝要なのは人の作法が毎日毎日延々と繰り返されているというその事実ということになる。確かにその指摘に共感する部分もある。言葉の無い建築と言えば日本の建築はほとんど言葉がない。その中でも神道には何も無い。西洋の建物はある程度全て理屈である。言葉がある。そして言葉とは形なのだと思う。周到な理屈はそれだけである表象を生み出す。アリストテレス以来の「形相」とはよく言ったものだ。概念は形に直結してきたのである。そして西欧においては形相は常にもっとも重要なものであり、形こそが建築なのである。しかるに日本では、言葉がない。言葉が無いとはすなわち形がないということに等しいのだと思う。
伊勢に行く前になんだかんだと10冊近い関係書を読んでみたが、形のことを丹念に書いてある本は少なかった。井上さんのものでも千木だ勝男木だと飾りのようなものの話。そこに紹介される伊東忠太の神社論でさえ①切妻②板壁③草葺④非装飾の四つしか特徴はあげられていない。つまり神社とはほとんどその形(言葉)にアピールするものがあるわけではなく、それ以外を作ろうとしたものなのである。そう考えなければあの無骨で平坦な伊勢を見てパルテノンだなどと言った西欧の有名な建築家の心情は計り知れない。
伊勢で特徴的な構築物に平入りの建物の前に切妻の建物を置く形式がある。この配置はデザイン的に考えると全く理解不能である。平入りの水平線の軒の美しさをわざわざ切妻で見せないようにしているのである。それなら出雲のように最初から切妻にすればよいではないか?と思いたくなる。しかしそうつぶやくと誰かにそれは違うと諌められた。伊勢をデザインなんていう近代的色眼鏡で見るお前が間違っていると言うわけだ。そうかもしれない。伊勢には言葉とか形とかデザインとかは存在しない。そういうものがあの場所を作っているのではないのだろう。そこにあるのはとても原始的なものである。これを建築と呼ぶべきかどうか迷うほどの無骨な構築物である。しかしだからこそ現代の建築の常識を超えた面白さがそこにはあるのだと思われる。

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