spectacle
切通利作の『情緒論』の中で岡崎京子が語られている。懐かしくなり本棚の奥の方から数冊出してきてぺらぺらめくる。「岡崎京子の漫画は情景を人物の感情のクライマックスに対応させない」と書かれている。そう言えばそうかもしれない。登場人物の語りはあくまで単なる一つのストーリー。それとは違う何万通りもの世界がそこにはあるということがビジュアルで並行して表現されているようにも見えてくる。。それが――世界をそのまま見るということ――というこの本の副題にもつながっているのだろうか?
午後事務所で来週の建築ラジオで語る内容を考える。以前買って積んでおいたAnthony Vidler ed. `Architecture between spectacle and use` Clark Art Institute 2008 に目を通した。ラジオのテーマはコールハースだが、コールハースの何を語ってももう語り尽くされている感がある。こうなったら正攻法である。コールハースのスペクタクルをどう考えるか?この本の序文でヴィドラーはギードボールによるスペクタクルの定義‘capital accumulated to the point where it becomes image`を反転し、‘image accumulated to the point where it becomes capital`とし、今や多くの建築家にこの言葉があてはまると言うわけである。もちろんその中にコールハースもいる。さて金融資本が世界を瞬時に駆け巡る21世紀のグローバル資本主義が躓きを見せた昨今、世界のスペクタクル建築はどうなるのだろうか?資本主義シニシズムと言われるコールハースの建築あるいはもっと一般的にスペクタクル建築家は何を求めてさまようのか考えてみるのも悪くない。因みにこんなテーマの本が出たのは、ハル・フォスターがビルバオを批判したことに端を発しているそうだ。
一段落して甲府プロジェクトの打ち合わせ。先に模型でイメージを作りそれを図面化。当然だが模型はいい加減に作っているから面積が合わない。2割オーバー。棟数が多いので担当者も悪戦苦闘である。