建築の脱制度化は可能?
『建築ノート』に掲載される公開読書会の連絡を槻橋氏からいただいた。場所は伊東豊雄さんの新作「座・高円寺」。建物を案内していただけるのと、読書会(これは6人の方が6冊の本を読んできてその内容を紹介しディスカッションるというもの)出席者の一人に知人がおり行ってみることにした。鉄板捨て型枠RC構造の曲面の外観が中央線沿線のごみごみごちゃごちゃの中央線高架脇に現れた。色は濃いこげ茶。昔見た文芸春秋(竹中)の外壁を思い出す。その色も材質もなんだかこの高円寺には似つかわしい。内部のコンクリートは珪藻土で仕上げられ赤茶で色づけられている。そして圧巻は直径20センチくらいの丸い窓。ランダムに壁、屋根、手すりとあたりかまわ穿たれて光っている。松本芸文のソラマメのような窓が思い浮かぶ。円くなっているのは高円寺だからか?3つの劇場のうち一つを見せてもらう。縦横高さが同じスケールのキューブである。劇のやり方に沿って自由に内部の形式が変わるようにできている。これはコンペ後早いうちから運営側の芸術監督が決まったからできたことだそうだ。
続いてラウンドリーディング。3時間くらいで演劇、劇場の主要な文献の内容を鋭く深く紹介してもらい勉強になった。中世、劇場は場所とのつながりが深かった。アジールな場に多く生まれたというような意味において。逆に言えば建物という物理的な殻との関連は薄かった。近世、演じられるものの形式と建築があるつながりを持つようになった。歌舞伎でありオペラというような形式が確立され、それに適合した空間が確立する。そして近代、観る者と観られるモノの制度化が進行する。ステージあるいはプロセニアムによって両者が明確に分離されることとなる。これは演劇に限らず、音を標本化したコンサートホール、美の美術館、知の博物館、などにおいて発生した。それに対して現在の我々はそうした標本を再度身近な状況の中に置き直そうとしている。それらは場所とのつながりや身体を契機としてとらえなおされるべきものになってきている。そうなるとおよそ制度の産物である建築に一体何ができるのだろうか、制度から外れようとする、音や美や劇と言うものに対して、建築という制度には何ができるのだろうか?建築を制度から引きずりおろす手段とは何なのだろうか?そんなことを考えさせられた。