「認知」
あけましておめでとう。9時頃起きて居間に行く。差し込む光が快晴を知らせる。天気の悪い正月は記憶にない。エントランスの集合ポストと事務所のポストから年賀状を回収。送ってくれた方、本当にありがとうございます。年賀状を見ながら雑煮を食べて、浅草に出かける。雷門の前は異常な人出。とても参拝できるような状態ではないので側道を通り本堂の横まで行きそこから拝む。おみくじを買ったら吉。娘は凶。浅草寺は凶が多いらしく、あちこちで「凶だあ!」と嘆きの声が上がっていた。4時頃、恒例のふぐ鍋。親父は相変わらず元気。煩いくらいよくしゃべる。兄貴は新しい一眼デジカメに熱狂。義姉は未だにサッカーをしているそうで素晴らしい。甥っ子は学院から早稲田建築に希望中。拙著を謹呈。食後親父たちを表参道に送りがてらヒルズをぶらつく。1日から開いているとは商売熱心。帰宅後フランシス・フクヤマ『歴史の終わり』下巻三笠書房1992を読む。ヘーゲルとコジェーブを引きながら人類の基本的欲望には「認知」へのそれがあることを力説する。自己保存のみを主張するホッブスに代表される当時のアメリカネオコンに見られるアングロサクソン的思考を批判。他人からの「認知」を得たいという欲望は確か 姜尚中もエッセイのなかで説いていた。そして僕もそう思う。そしてその欲望がある程度の人間同士の調停を生む。