作曲家の諦め
今日はゆっくり自宅で読書。読みかけの『斜めにのびる建築』『自民党政治の終わり』を読む。斜めの機能は身体感覚、自然、そして動線建築というところのようだ。昔、修士論文で芦田君が研究していたことを思い出す。午後大澤真幸編『アキハバラ』岩波書店2008を読む。この事件は犯罪の悲惨さを超え、さまざまな問題を提起しているようである。この本ではそうした問題の周縁(あるいは核心)の現れ方を10名くらいの論客が語っている。中でも和田伸一郎の論考は興味深い。人々が被るさまざまな問題はそれが内にこもる場合と外に発散される場合がある。問題が犯罪に向かう筋道は前者の場合が多い。これを後者のルートへ結び付けられないかと著者は問う。つまり一人の問題を人々の間で共有できないかと?そしてその環境として、「道」というものを提起する。既成の概念で言えばデモのようなものなのかもしれないが、違う方法もあるかもしれないとイマジネーションを掻き立てられる。
夕刻事務所に立ち寄り、その後長野へ。車中雑誌『談』#82「音はどこにあるのか」を読む。小沼純一×渋谷慶一郎の対談が面白い。渋谷は電子音楽をやる理由の一つとして演奏家が自分の欲する音を出せないという諦めを語っていた。建築家も施工者が自分の欲しい形を作れないと諦めることがないではない。しかしそういう場合にドローイングアーキテクトになればいいと諦められない。し、もしそういう道が作曲家のように簡単に用意されていたとしてもたぶんこの面倒くさい共同作業を放棄はしないだろうなあと感じた。