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インタビューに備えて

来週のインタビューに備えて坂本、多木の対談を読み返してみた。なるほどこの頃からスケールについてはかなりしつこく言及されている。多木さんも初期を幾何学的プロポーションとし、代田の町家あたりから、身体的プロポーションあるいは有機的へと変化してきたと指摘する。家型が有機的とは?と思う人が多いのだが、家型とは別に切妻のことではない。切妻だと思っているひとは家型をフォルマリズムと思い有機的とは考えない。しかし家型とは「住む」ということに人が持つ原初的で本能的なイメージのことなのである。と坂本は言う。しかしてそれは形ではなくて何なのか?
篠原の弟子である坂本の最初の一歩は篠原からの離脱なのだが、その姿勢が最も色濃く現われるのはアンチクライマックスな手法である。篠原がいかに大きな部屋を作ろうかと考えたのに対して、坂本はいかに小さな部屋を作ろうかと考えた、篠原が非日常性を標榜したのに対して、坂本は日常性の中での発見を望んだわけである。そうした坂本と篠原の対比は先日書いたフェルメールとレンブラントの対比によく似ている。違いはフェルメールが誰でも分かるのに対して坂本はなかなか分からない点であろう。両者とも日常を標榜して、物語を嫌い、構成にこだわり、細部のスケールに傾注するのだが、フェルメールは誰でも分かり、坂本は分からない。何故こんなに難しいことになるのだろうか??
午後事務所に行きパースを3つほど描いて山本さんに渡す。広間の天井高、アプローチのサッシュ割、2階広間の家具。帰宅して日本対アルジェリア戦を見ながら夕食。結果は2対1。まあ実力どおり。勝負の世界は正直だ。
夕食後大友良英『musics』岩波書店2008を読む。彼は僕と同い年である。彼のcdは数枚持っている。ライブは一度行ったことがある。別にノイズが好きなわけではないのだが、setenvの入江君オススメということで行ったまでである。この本の中にノイズの定義が書かれている。曰く、ノイズとは自分が聞きたい音を邪魔する音とある。なるほど。つまり大友に言わせればノイズファンにとってノイズはノイズではないのである。つまりノイズとは音自体の属性ではなく音の置かれる文脈によって変化する相対的な属性だということである。大友と言うミュージシャンはこうした音の社会構築性にこだわる。彼の文章を読んでいると、音環境と視環境はよくよく似ていると感ずる。そして坂本を思い出す。つまり坂本の建築へのスタンスは大友の音へのスタンスと相通ずるのである。坂本は大友が音自体に興味がないように建築の物自体に興味はない。そういうフェティシズムを嫌う。そうではなく彼の興味は建築の意味を生み出す社会なのであり、ある文脈におかれた建築の意味なのである。
さて違う分野で同じ興味の持ち方をする大友の音楽と坂本の建築はいずれも難しい。その理由は何故か?それは二人とも物自体にこだわらないからであら。平たく言えばコンセプチャルだからである。つまり作る側が物自体にこだわらない場合、見るほう、聴くほうは見たもの聴いたもの中に作者を見出せないわけである。作者を理解するにはそこから考えなければいけない。見たもの聴いたものを根拠としてそのコンセプトを追いかけなければいけないのである。その分だけ彼等は難しい。
もちろん彼等の音自体、物自体を好きだという人はいる。しかしそういう人は少ない。

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