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グローバルローカリティ

アサマの中でバウマン『コミュニティ』の続きを読む。本書は90年代に本格化するグローバリズムによってもたらされるコミュニティの変容を記している。権利上誰でもがこのグローバルという波に乗ることが可能ではあっても、事実上乗ることができるのは一部の人間であることがこの20年間くらいに明らかになった。そしてこの波に乗れた社会の勝者はコスモポリタンとなり世界を闊歩する。そして彼等にとってはある特定の場所に特定のつながりを持つことが出来ない。あるいは特定のつながりを持つことは精神的にも物理的にも面倒なこととなるのである(彼等の持つ性質をバウマンはextraterritorialityという治外法権を意味する言葉で表現している)。つまりグローバリズムという世界を流動化させる社会、経済、政治的な潮流はこうしてコミュニティをも溶解させているというわけである。もちろん、このことが直接グローバリズムの否定にはつながらない。しかし少なくともコミュニティを崩壊させることによって素晴らしい社会が開けているわけではないのだから、この部分はグローバリズムの弊害といわざるを得ない。そして本書の訳者奥井智之氏もあとがきに記しているように、グローバル化と言えば、馬鹿の一つ覚えのように登場する大学のグローバル化という標語が頭に浮かぶ。大学のグローバル化は常に国が提示するお題目である。それは総論としては賛成である。しかし、本書が明示するとおり、ヨーロッパ人でさえ乗り切れないグローバル化に日本人がそう簡単に乗れるものではない。そもそも日本の大学で外国語をまともに扱える学生(教員も含めて)などそうたくさんはいない。それが日本という国なのである。そういう初等教育をしてきたのである。そういう国において、大学にはいっていきなりグローバルだとかかけ声をかけていることが大きな矛盾である。その上大学の個別性も考えず、猫も杓子もグローバルというのはいただけない。ローカルズが集まる地方大学でグローバルって何だ??と逡巡してしまう。
そこで僕は一年前にある研究費を取得するために「グローバル・ローカリティ」という標語を考えてみた。つまり世界の田舎よ手を結ぼうぜという考え方である。つまりコスモポリタンを育てるのではなく国際的視野を持つローカルズを育てようという考え方である。
自分も根無し草のような生活をしながらこう言うことを言うのも矛盾しているかもしれないし、苦し紛れかもしれない。しかしバウマンの言うように世界がコスモポリタンで埋め尽くされる先に豊かさが生まれるとはとても思えないのである。

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