計画書作成失敗
月末締め切りの科研費の申込書と計画書の作成をこの連休中にやろうと思いたつ。意匠系の科研費は取得がかなり困難なようだが研究テーマをじっくり考えるのにはいい機会である。
ここ数年のテーマはメディアか風景か装飾と決めてある。なんとなくそれぞれのテーマはそれなりに研究室で誰かが取り組んでいる。それをもう少しつっこむためにここ1ヶ月くらい関係書籍を読んではきっかけを探している。そろそろそのきっかけをもとに方向を出したいところだがつい書籍渉猟にはしり、写真系の本をぺらぺらとめくる。photo graphicaの最新号が届いている。蜷川特集である。相変わらず鮮烈な色の組み合わせである。ヴィレム・フルッサー『写真の哲学のために』勁草書房1999を読む。フルッサーの文化コード論によれば、我々は世界や経験を理解可能な記号に変換する。この変換システムへの組織化への規則をフルッサーはコードと呼ぶ。そして人間社会のコードは紀元前1500年までが画像コードでそこから文字コートとなりその後写真以降テクノコードが位置づけられる。そして後から出てきたコードはそれまでのコードの説明に使われる。つまりメタ言語になる。例えばあるときまではテキストは絵を説明するキャプションだったが、現在写真はテキストを説明する何かになっているのだという。それってどういうこと?まだよく分からないが、、、なかなか疲れる本だったので少しリラックスして『森山大道とその時代』青弓社2007を読む。60年代から現在まで森山について語られた言説集である。鈴木了二の「都市の質感」という論考が面白い。写真は絵画と同様二次元芸術だが写真と異なり同じ二次元芸術でも完全に質感の表現を原理的に放棄しているという。そしてそれにもかかわらず、森山の写真は質感があるという。物質試行の建築家ならでなの論考である。写真の本ばかりで飽きてしまった。風呂でドナルド・キーン『私と20世紀クロニクル』角地幸男訳、中央公論新社2007を読む。読売新聞の土日版に去年連載されたもののまとめである。簡単な言葉で驚くほどの事実が並べられている。読み応えがある。
というあたりで世もふけ計画書はできなかった。明日また頑張ろう。