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教育のナショナライズ

5月6日
グローバリゼーションと呼ばれる世界的な社会変動の構図は国内においても起きている。グローバリゼーションが引き起こす流れの一つは国家を超えるシステムの統御による国家のコスモポリタナイズであるが、この構図を例えば国内大学教育現場で見るならば次のようになる。大学を国家と見立てるならば、大学を超えるシステムの統御による大学のナショナライズ(右翼化という意味ではない)である。これまで大学はひとつの自治体としての確固たるまとまりを持っていたのだが、現在はその殻が解体され、学部や学科が日本中に横並びにされていると言っていい。そして国家が国家的に行なってきた公共の整備を民間に委譲し市場化するように、国は大学の整備を外郭団体に委譲しさらに研究、教育を市場化し始めたと言える。例えば、セキュリティという問題は既に警察だけが行なえなくなっている(きめ細かなサービスを求める社会のニーズや予算の制限などにより)現状、国はセキュリティという市場を社会に埋め込んでいく。結果多くの警備会社が登場しサービスを競うことになる。同様に、教育という問題も国が一律に規定できなくなっている現状(教育の多様化などにより)教育市場は社会に埋め込まれていく。塾が多発している程度のことは当たり前であったが、いまや大学教育も同等であり、いい教育提案に予算がつく。つまり学部や学科は全国レベルでサービスを競う時代になったのである。日本は語学の問題で早々にこのナショナライズがグローバライズには繋がらないだろうが、世界的に見れば教育はグローバル化しているし、していく可能性は高い。つまりは世界的に意味の無いことは価値が無いということがおこり得る。その中でローカルというものの優位性はいかに保たれるのだろうか?あるいは保つ必要があるのだろうか?

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