逐語訳
昨日の続きを帰りのバスで読んでいた。何故旧制高校が逐語訳を生む文化的基盤を作ったかという話。答えはその受験戦争にあるというものだった???本当かい?と思わないでもない。しかし確かに我々の受験の時でも、その採点の客観性を高めるために、やはり意訳には限度あったことを思い出す。旧制高校の語学力とは確かに高い。旧制高校出の親父に聞くとあれは語学学校だと言う。そして彼の語学力は兄に言わせれば私より高いという。えーーー?。親父は別に語学を生活の糧にしているのでもなけれ日常生活で使っているわけでもない。80近くまで、多分大学を出てから外国語を使う必要にせまられたことは無いと思われる。その人間をして留学して翻訳書まで出している人間より語学力があると第三者に言わせしめるというのはどういうことかと驚かざるを得ない。辞書を食っていたのかもしれない?ことほど作用に旧制高校の語学教育はすさまじいものだったのだろうと想像する。そしてその世界のエリート意識が翻訳書が一部の人間にしか理解されぬことを不思議と思わぬ土壌を生み、エリートの厳密性が逐語訳を生む土壌となったということは親父を見ているとなるほどと理解しうるものである。