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篠原一男

朝竹橋の美術館に寄って、奥山研に行く、鹿島出版会の川島さん、松口さんとお会いする。本の打ち合わせ。品格のある本にしようということになる。長い期間価値の薄れない本。定本と言ってもいいのかもしれない。論文に引用されるような本。それは内容だけではなく、構成やデザインにも関わることである。年内にまた打ち合わせをすることにして、篠原先生の偲ぶ会に移動する。100周年記念館で先生にゆかりのある人たちだけの集まりであった。しかし150人ほど集まった。篠原研obは日本人はほとんどやってきた。アメリカからもキース、香港からレスリー、ウィーンからヴェネーダが来た。篠原研以外でも建築家は富永さん、長谷川さん、妹島さん。編集者も石堂さん、小巻さん、豊田さん。クライアントも浅倉さん、篠さん。そして評論家の多木さん。多木さんが改めて篠原一男は再度誰かがきちんと日本のどのような文脈に載せるのかを分析しなければいけないとおっしゃっていた。そうだろう。そのとおりである。

僕は今思うと篠原先生がいなければきっと東工大に入学していなかった。高校時代に富田さんという高校の先輩がいたために象設計に大学進学の相談に行き、今はなき象のボス大竹さんや富田さんに、現役建築家のいる大学に行きなさいと言われ名前の挙がった東工大に進学した。そしてこれはその当時よく分からなかったけれど、篠原先生のエキスを充分に体に染み込ませていたように思う。先生が私の卒業設計をレモンの展覧会に選んでくれたのも、あのデザインが、先生と通じるものがあったからだと今にして思う。大学時代は会話さえあまりしていただけなかったのだが、結婚式への出席をお願いするために配偶者とハウスイン横浜を訪れた時、延々とリールの計画の話を始めたのが印象的だった。そしてそれから10年後くらいから先生との付き合いが本格的になった。先生の鼎談に呼ばれ、その後建築技術での都市論の連載、先生との往復書簡、そんなやりとりのために月に2回くらいずつ自由が丘のワインバーで昼からワインを何本もあけたのを覚えている。
哲学的な引用だらけの文章を書くと、そんなものは建築家の文章ではないと怒られた、徹底して一人称に拘る先生であった。その後くらいから先生の体調は悪くなった。九段の病院に入院したとき、僕はいてもたってもいられなくなって、先生の了解もとらず、突然先生の病室を訪れた。風呂付の個室に入院されていた先生の部屋に入ると先生は寝ていた。しばらく声もかけずにドアのところからベッドの上の先生の顔をみていると目が開いた。僕のことに気がつくと、少し戸惑いを見せ、ちょっと部屋の外にいてくれと言う。5分くらいたつと入りなさいと言われた。ローブを着ていた。髪に櫛をいれたようである。ソファに座っていた。努めて元気そうにおしゃべりになっているのが少し痛々しかった。
そしてその後衰弱が激しくなった。横浜の自邸に3度訪れた。最後の本の打ち合わせである。そして、その本を出せずに逝かれた。
僕が建築を始めるきっかけであった。そして先生に心酔し、そして今でも先生の建築は美しいと思う。そして多分死ぬまで美しいと思い続けると思う。これは例えばコルビュジェのサボイに行くたびに感動するのと同じである。同じことはできないけれど、ああいうものは普遍的なんだと思う。同じことはしないけれど、ああいう人が建築家なんだと思う。

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