それでは始めよう。本年度も皆さんの素敵なコメントを期待する。
では今日の話「性格」について。
人間の性格はどうしたら分かるだろうか?その人に会って顔を見ただけでは性格は分かるまい。やはり少し話をしてみるとか、あるいは数回食事をしてとか、とにかく何らかの形で相手とやりとり(コミュニケーション)しなければならないだろう。
では建築はどうか?建築は生きていないのだが、やはり人間同様、建物にであって一目見て性格は分かるまい。少しコミュニケーションをしてみないといけないのではなかろうか?
そこで、君がある建物の性格を知るという使命を課された時、①君はどの様にして建物とコミュニケーションを図るか?②その結果その建物のどの様な性格を感受することができるか?二つの点から答えてほしい。
評者は新井君。優秀賞1点、佳作2点位を選んで欲しい。
コメント (17)
建物の性格を知る時、その建物の経験の“しかた”が大きく影響するのではないだろうか。それは、その“しかた”よって受ける印象が大きく異なるからである。また、ここでいう経験には、大きく二つの前提が挙げられるだろう。
一つめは、その建物の予備知識が無い状態という前提である。これはその建物の用途や、その場所の雰囲気を知らない時の経験であり、近代以前と近代以降の思考や経験の構造の違いによるようなものである。そのため、建築で言えばテクノロジーの発展に伴う新しい建築タイプ(駅、工場、オフィスetc.)が現れた19世紀〜20世紀初頭のような時代へ行かなければ、その経験は難しいように思われる。
二つめは、その建物の予備知識が有る状態という前提である。これは、常套的な建築タイプを何度か経験しているということを前提にした時の経験であり、この前提の場合ある程度「この建築タイプはこうだろう・・・」とか、「〜さんの〜っぽいね・・・」という固定概念に蝕まれる。そのため、この前提ではある種の“裏切り”が重要になってくると考えられる(例えば、形・素材・使われ方etc.)。すなわち、日々の慣習から部分的にどこかが外れた時、「おっ」とその建物の特徴的な性格が(バルトのプンクトゥムの概念で言えば、)それを経験する主体に突き刺さってくると考えられる。
以上のような経験の前提から、私も後者の前提で建物を経験することが多い。その中で私が実践する建物とのコミュニケーションの図り方は、受動することと能動することの両方で意識的に対峙するという方法である。その方法とは、先ず受動的にその印象を受け、その後、能動的にその建物に対して自分なりに何かを足してみたり、引いてみたりする。これを意識的に行うことによって、その建物とのコミュニケーションが成立するのではないかと考えている。これは、人間のコミュニケーションにおいてもごく当たり前に行われていることである。ただその建物を受動的に経験するだけでは、その場の雰囲気やスケール感、質感は分かるが、それは人間で言うただの“見た目”で判断したに過ぎないと考えるからである。
普段の自分の方法(設計)を用いてその建物と対峙することで、その建物の骨(本質)に迫ることができるのではないか、更に言えば設計者の意図までも汲み取ることができるのではないかと考える。つまり、その建物が建てられた当時の設計者の意図と、その後の建物が歩んできた歴史が生んだ、二つの性格を得ることができるのではないかと考えられる。
投稿者: 10TA302C 朝日大和 | 2010年04月14日 23:35
日時: 2010年04月14日 23:35
坂牛研究室 10TA310D 加藤伸康
僕がある建物の性格を知るという使命を課されたことをリアルに考えると、先ず、何らかのメディア(雑誌、インターネット)を通してみると思います。パラパラ―っと写真を見るだけで、先ず、第一印象として雰囲気や機能を感じ取ります(かわいい、怖い、~っぽい)。次に、添えられている文章に目を通して、その建築の内面に迫ります。ここで、ある程度イメージが形成される。メディアの発達した現代においては、建物そのものを見る前にメディアとしての建物をみることが多いと思います(それだけの建物も多く存在すると思います)。つまり、間接的なコミュニケーションが先行して行われていると思います。しかし、ここで記されていることは、設計者の意図や批評者の意見であって、人間で言うと、親の子供にこうあってほしいというような願望や、世間の評判であって、現実に存在する建物や人間の本質であるとは限りません。
よって、このような、前提を経て直接的なコミュニケーションに移ります。直接的なコミュニケーションを行う時点で、すでにイメージを持っているため、そのイメージに則してコミュニケーションを始めます。その結果、そのイメージとぴったり重なり合うものと、全く重ならないもの(または、イメージにないもの)が、その建物の性格を強くあらわすものだと思います。つまり、一度確立されたイメージとぴったり重なり合う、全く重ならないといった両極端な印象が、その建物の性格として感受できると思います。このような具体的な前提のイメージがない場合でも(雑誌、インターネットに載っていない建物)ある種の比較対象を頭にイメージしながら(周辺の建物など)、同様にコミュニケーションします。
したがって、意識的であれ無意識的であれ、自分の中のイメージとの比較という操作によってコミュニケーションを図り、浮き彫りになるものがその建物の性格として感受することができると思います。逆に、自分が建物に性格をもたせるときには、人のイメージのド真ん中あるいは真逆、範囲外にあるものが、強い性格として印象付けることができるのではないかと考えます。個人的にはド真ん中と範囲外の両者が存在する建物に魅力を感じます。
投稿者: 加藤伸康 | 2010年04月14日 23:36
日時: 2010年04月14日 23:36
私が、ある建築の「性格」を知る為に、まずその建物の一定の情報を集めるであろう。これは人間でいう履歴書のような役目を果たしているのではないだろうか。履歴書には主に学歴、取得資格などが書かれるが、人が社会に出るときまず提示するものがこの履歴書であり、その人間の「性格」の一部を表しているものと考えられる。これは人が行う最初のコミュニケーションと言え、建物の情報を集め一定の知識を得ることは同様なことと言える。しかし、その一定の情報だけで、すべてを把握することができない為、そこから実際に現地に赴くことにより、次のコミュニケーションに続いていくのだと考える。そしてこの実際に見る行為がその建物の性格を知るにあたり、個人差が最も出るものだと思う。課題にあるとおり、建築も人間も一目見るだけではその性格は判断できない。だが、そのファーストインプレッションというのは建物にとって、重要な判断材料となってしまうと考える。人は道をすれ違うとき、人は外見でその人の性格を決めつける。これは、今まで自分が生きてきた上での「経験」がそうさせているのであろう。それはある種の偏見であり、そのものの本質ではない。人がコミュニケーションにおいて性格を知る為に、私が最も大事だと考えるものは「会話」である。人間は喋ることができることにより、「自分」を主張することができるが、建物はそれができない。よって建物の本質を見抜くことは難く、人が受ける印象には個人差が生まれる。そこで、その建物の性格を判断する為に、人の方から建物に積極的にコミュニケーションを図る必要がある。人が人を判断するように、人が建物を判断するにはこれまでの「経験」を基に、その建物を捉えることにより、その建物を見抜けるのだと思う。
以上から、人は「経験」がなくては、性格の判断をすることが困難であると考える為、様々な建物を知る必要があり、「経験」から他の建物との違いを明確にすることにより、その建物の性格や、秀でたところや悪いところなどを判断すると考える。
投稿者: 井本守佑人 | 2010年04月15日 12:33
日時: 2010年04月15日 12:33
まず、人間の性格を知ろうとするとき、どうしているかを考えてみた。直接、相手(以下、Aさんとする)と話したり、いろんな時間を一緒に過ごしたり、また他の人からAさんについて聞いたりすることによって、Aさんがどのような人かを知っていく。この行為の中には、情報と体感という要素があると思う。Aさんや他の人との会話から、Aさんの年齢、血液型、出身地、好きなこと・嫌いなことなど、いろんな情報を得る。Aさんと一緒に過ごすことで、かわいらしい、男らしい、落ち着く、癖などを体感により得る。
私は、建物の性格を知ろうとする場合も同様のことをするだろう。会話の代わりにネットや本を用いたり、建物関係者や周辺住民に聞き、建物の建築年代、構造、建てられた経緯などの情報を得る。また、建物に住んでみたり、利用してみたりと多くの時間をそこで過ごすことで、寒い・暑い、きれい、開放的、注意箇所、癖などを体感する。
この情報と体感の両方により、自分の中に人や建物の性格を確立していく。どのような性格かは、得られる情報や体感する人・建物によるので何ともいえないが、情報と体感のどちらか片方だけでは、その人・建物の性格を深く知ることはできないと思う。情報があるから、体感したことに強く確信をもてたり、ギャップを感じることで、その部分がより際立つ。また、逆も同様のことがいえると思う。
投稿者: 10TA331G 長濵好美 | 2010年04月15日 15:11
日時: 2010年04月15日 15:11
私は以前、「休日は友達と一緒に住宅展示場へ訪れ、友達と共にあれやこれやとその住宅に住んだ様子を想像して時間を過ごすのがすき」という、やや風変わりな子に出逢ったことがある。しかしなるほど、ただ単に展示場を訪れて間取りや通風,採光などを見るよりも、実際にその家に住んだ自分の姿を想像し、どういう家族と共に住み、自分はその家族の中でどういう立場なのか(母親か父親か子供か)を想定し、この住宅でどういう生活が送れるのか、などと妄想を膨らませていく方が、その住宅のことをより良く知ることができるだろう。
ここで、建築とのコミュニケーションをはかるには「妄想力/想像力」が必要なのではないかと考える。建築は人と異なり、話しかけても質問を投げかけても返事はない。ただそこに建っているだけで無言である。いくら問いかけても無言なのであるから、こちらが想像力を働かす他はない。人間に於いても、言葉を発することのできない人がいたら、その表情や行動、その他些細な情報を基にこちらが想像力を働かしてその人の性格を探ろうとするだろう。動物などに於いても同様である。
先ほどの住宅展示場の例と同様、例えばモン・サン=ミッシェルを訪れたら、自分が15世紀の巡礼者や修道士になってそこに立っている様子を想像してみる。すると、その崇高さなどがより際立って感じられるだろう。さらに、普通に訪れた際には感じないような性格まで浮き彫りになってくるかもしれない。
また、突飛な想像をしてみたらどうだろう。仮に、国立新美術館に訪れた際、その大空間を自分の一人暮らし部屋であると想像してみる。あの大空間にぽつりとベッドを置き、あの大空間で寝起きするのだ。そんな、一見バカバカしい想像をしてみると、目の前に広がる国立新美術館が、全く別のものに見えてくるだろう。昼間、人が賑わっている時には全く感じなかったけれど、もしかしたら「怖い」と感じるかもしれない。「偉大だ」と感じるかもしれない。はたまた「優しい」と感じるかもしれない。兎に角、そんな妄想をしてみると、今まで知っていた建築でも全く違って見えたり、今まで薄々気づいていた性格がより強調されたりするのではないかと思う。まるで親しい友人に、今まで投げかけたことのないような質問を投げかけたら、思いもよらぬ一面が垣間みれた、というように。
投稿者: 坂牛研究室 10TA306F 内堀佑紀 | 2010年04月15日 21:37
日時: 2010年04月15日 21:37
坂牛研究室 久保一樹
人間の性格を測るときはやはり直接会ってその人とコミュニケーションをとらないとわからない。というのは、人や生物はこちらに何かを発信してくるからだと思う。しかし、生物ではない建物は何も語ってはくれない。本当か?しかし、何かしらを感じとっていることは間違いない。でもその多くは視覚によるものだと思う。視覚で建築の性格を判断してもいいが、視覚で判断するのは普通すぎる。だから視覚でではなく最近気になっている触覚と素材で書いてみようと思う。
人は建築を感覚で感じる部分があると思う。つまり、人と同様に建築も何かを発信していると考えている。
そこで最近感じたことを書こうと思う。
人は土というものからどのようなイメージや性格を感じるか?僕は温もりのあるとても健康的な良い素材だと感じている。ましてや土から冷たさのようなものは感じてはいなかった。しかし、それが建築物(土蔵)になると変貌する。つまり夏は涼しく、冬は尋常じゃないくらい寒いのである。これは土壁がつくっている空間で温度なのである。僕が土そのものに感じていたイメージとは大きく異なっていた。
また、ガラス。ガラスは冷たくて、華奢で、繊細で、ものによっては青っぽく見えたり…というイメージがある。先ほどの土よりも冷めたようなイメージがある。でもこれもまた建築になると変わる。それはガラスを使った建築は暑いのだ。原理を考えたら当然なのだが外から見える繊細で透明感があって…などという感覚は中に入るとどうでもよくなるくらい暑いことがある。
つまり、素材そのものから感じる印象とその素材がつくりだす空間は全く異なるということである。よって人と同様、建築を見て、その中に入ってその空間を皮膚感覚で感じることがその建築を知ることになる。
ここに書いたのはあくまで2つの素材についてのことだが経験した事柄は思い起こせばまだまだあるような気がしてきた。
投稿者: 久保一樹 | 2010年04月15日 21:45
日時: 2010年04月15日 21:45
僕が、振り返って、少しでも建築の性格を知りえたかなと考えると、ロンシャン教会に行ったことを思い出した。朝、日の出ないうちから電車に乗り込み、日の出の時刻ほどに駅に着いた。電車の中から遠くに姿が見えたから、その方向に向かって歩く。馬もいた。山道を登るから靴がぐしゃぐしゃになった。教会の門の前に立つと、どうやら開門まで1時間ほどあるらしいから、その時間を使って靴の汚れを落とした。開門すると、その建築と対峙した。昼ご飯には麓まで下りていき、パン屋でフランスパンを買った。そして教会に戻る道でほおばる。1日に何度でも入れる教会。その前の丘では、昼過ぎだからウトウトしながら2時間ほど眺めた。何度も建物の周りを歩いた。やがて電車の時間が来るから閉門の時間ぎりぎりに教会を出て、帰路に立った。あと2、3日はここに来たいと思った。僕のコミュニケーションの仕方は、このように展開する。とにかく時間をかける。
建築は土着物だから、その場所を離れることはできない。だけど、それ故に、建築はその場所に適合していく能力があると思う(それは建築家が吹き込むこともできると思っている)。適合していくということは、その場の1日、1週間、1年間のサイクルする時間軸の中で、その場のもつ流れにノるということだと思う。だから、場-建築-人 がどういった流れでここにあるか、それを読むこと、それが建築の性格を知ることだと思う。
投稿者: 10TA323F 塩入勇生 | 2010年04月15日 21:47
日時: 2010年04月15日 21:47
僕にとって、建築の性格は自分の原風景や固定観念が当てはまらないときに強く意識させられる。これは、自分の知らなかった事柄に対する、憧れや嫉妬のようなもので、このときは、人間であれ建築であっても強く印象づけられる。そこで、性格を知るためには、まず「差異」を探し始めるだろう。そのときに比較する対象は自分であり,世間の、その建物に対する評価ではない。自分と比較するのだから、対象の建物が在れば、その敷地に赴いて、自分の設計を初めて見る。
その建築に介入していくというか、携わってみることで、使用者として受動的な聞く側と、設計者として能動的な語る側を考えてみる。そうすることで、基準となる自分の設計と比較したときに、自分との性格の差に気づかされることになると考える。そのようにコミュニケーションをとってみるのだが、設計する際には、建物だけではなく、その社会的背景や周辺環境、使用者等などにも注意しなければならない。逆に言えば、建物でないこれらの部分も、建物の性格を語っているということだ。人で言えば、Aさんの生い立ちや周りの友達なんかも、現在のAさんの性格を形成する重要な役割を担っているということ。
結局は、僕にとってその建築の性格を知ろうと思うならば、その敷地で自分なりの設計をして、自分にとってはあり得そうにない、違和感を感じるところがその建物の性格なのだと考える。
投稿者: 坂牛研究室 10TA334A 林和秀 | 2010年04月15日 23:07
日時: 2010年04月15日 23:07
建物の性格には、二つの側面があると考えます。
まず一つ目は“上っ面な性格”です。これは、雑誌・テレビ・インターネットなど様々なメディアから、不特定多数の人が得ることの出来る情報です。二つ目は、“本質的な性格”です。これは、その建物に何度も足を運び何度も目にすることで、特定の人が得ることの出来る情報です。前者は、誰にでも得ることが出来るが、後者は限られた者にしか得ることができないと考えます。
私がこれまでに、後者を感じることの出来たと考える建物の一つに姫路城があります。今までに何度も足を運び、中学・高校時代は毎日のように何気なく目にしていました。幼い頃は、姫路城が見えることで自分の位置が確認でき、その存在に安心し、見えなくなると不安感すら覚えた記憶があります。そして未だに、訪れる度に、天守閣を見上げたり、柱に触れたりすると、その大きさや古さに圧倒され、その存在感に自然と鳥肌が立ちます。このような経験ができる事はごく稀で、このときにはじめてその建物の“本質的な性格”を感じるのではないかと考えます。
以上のように建物の性格には二つの側面があり、一方は誰にでも容易に感じることが出来るが、もう一方は、じっくりと時間をかけて見て、何度も足を運び、その過程の中でなければ感じることが出来ないのではないかと考えます。
投稿者: 10TA333C 西浦皓記 | 2010年04月15日 23:08
日時: 2010年04月15日 23:08
今回のお題は、非常に難しく感じた。久しぶりか、お題のせいかはわからないがなかなか手が進まなかった。
建築とのコミュニケーションの図る方法として、性格を知るという使命は課せられていなかったが、体験をもとに書きたいと思う。対象の建築は「京都駅」である。
私が最初に京都駅に訪れたのは中学生の時であった。改札をくぐったときの感動は今でも忘れない。アトリウムの大きさ、大階段のダイナミックさ、浮かぶような半球、いろいろな場所に目がとまり、建築のすごさをはじめて肌で感じた。このときは、建築のことを何も知らないながらも京都駅とコミュニケーションを交わしていた。それから、大学生になり建築を学ぶようになった。祖母が京都に住んでいるので、大学生になっても京都駅に行く機会が何度もある。建築を学んだ自分は、中学生のころとは違う視点で京都駅を見るようになっていた。構造がこうなっている、動線がこうなっている、素材がこうなっているなど建築的な視点で見るようになっている。それでもやはり京都駅はすごいなと感じる。
京都駅を訪れるたびに、建築が好きになり建築をこれからも続けていきたいなと思う。これは、京都駅が単なる機能としての駅ではなく、私にとって建築に対するモチベーションを上げてくれる場所となっていることは間違いない。
自分自身の建築に対する純粋な反応と、自分自身の建築に対する知識や考えを持ってコミュニケ―ションを図ることで、自分にとってのその建築の役割みたいなものを感じることができると思う。
投稿者: 10TA327J 五十田研究室 辻拓也 | 2010年04月16日 02:49
日時: 2010年04月16日 02:49
10TA307D 榎本昇人:
建築の性格を知る場合は、その建築について何も知らない状態と事前に情報を得ている状態とによって、大きな違いがあると考える。前者は、自分の身体で体感し、性格を知ることになる。後者は、そこに思い込みが加わる。僕が、建築の性格を知ろうとする場合、事前に情報を得るだろう。その情報と照らし合わせて、建築を見る。事前の情報にはない、周辺の様子や人々、実際に体感することで得た情報そして、事前の情報との差異などから、その建築の性格を知る。そこで得た建築の性格は、人それぞれだと考える。
見た人の経験や感性によって、同じ建築でも、評価されなかったり、評価されたりする。性格も同じだと考える。建築の性格は、人における多重人格と似ている。
投稿者: 10TA307D 榎本昇人 | 2010年04月16日 12:37
日時: 2010年04月16日 12:37
10TA338D 松田航
人の性格は、表面上でのものなら、その人の事を知らない状態でもある程度把握する事ができる。それには、その人が他人とどう接しているかを見ればわかる。これは建物にもいえる事で、見た目であるとか、どのような利用のされ方をしているだとか、実際に利用した人がどのような感想を持ったか等を聞く事によって、ある程度把握する事ができる。
しかし、使命として性格を知ると課せられた場合、それでは、不足である。
やはり建物の性格を知るには、実際に建物に何度も訪れる必要があると考えます。そして、何度も訪れる事によって、自分にとってのその建物の印象が形づくられていくと考えます。それは当然、その建物の外部であるとか内部というものもありますが、家からその建物に向かう途中の景色、空気を経たものも考えられます。そのなかで、自分がその建物に抱く印象が形づくられていくと考えられます。そのなかで、自分の好きな場所、落ち着く場所を見つけていく事がその建物とのコミュニケーションのとり方であると考えます。
投稿者: 10TA338D 松田航 | 2010年04月16日 12:50
日時: 2010年04月16日 12:50
評者として書き込みさせていただきます。僕の独断と偏見により評価させていただきますが、なにゆえ学がないもので、多少俗っぽくなってしまうかと思いますがお許しください。
何人かの人がメディアという言葉を使って説明してくれていますが、僕が思うには、お見合い写真を眺めているだけのようなもので、今回のコメントにはその部分は不必要であって、もう少し建築と直面したときのことを書いてほしかったです。
皆さんのコミュニケーションの方法を挙げると、1.自分の設計との比較 2.関係者からのヒアリング 3.みたり触ったり妄想したりという短期間的な動作 4.そこで暮らしたり何度も訪れるという長期間的な動作 ということでしょうか。 さすがに建物にキスしたり話しかけたりという人はいないんですね。個人的な感想からいえば1はかなり意識的に行うコミュニケーションであり、そういうやり方に親しんでいる坂牛研ならではな感じがします。そして2もかなり面倒なもので、土本研の得意技という感じです。
コミュニケーションの方法という個人のやり方に評価をつけろというのもおかしな話だなあと思いますが、僕が評価するのであれば優秀賞は内堀さんです。コミュニケーションの方法を一番具体的にわかりやすく書いてくれていますし、その妄想/想像を是非とも実践してみたいなあという気になりました。一つ批評すると「15世紀の巡礼者や修道士になってそこに立っている様子を想像してみる」という部分ですが、歴史計画系の観点からいえば、歴史的な建築で行われているいとなみの部分は、時間とともに大きく変化していることが多く、変化は隠蔽され、かなり矛盾に満ちた部分も多いわけです。ですから現在に生きる人間に、先の時代の宗教的いとなみを正しく想像しろというのは少し困難ではないかと思います。それに対して建築はかたちを持つが故に真実性もわかりやすいですし、たとえその建築のもつ歴史を少し知っていたとしても、過去のなかに自分の身を置くのではなく、現在を強く意識して入り込まなくては、建築の性格に正しくふれることはできないのではないかと思います。
今回は「性格」という言葉について「表出する性格」「表出された性格」に関するコメントが多かったという理解ですが、「性格」のより古い概念である建物の用途を表現するものにも言及があるとよかったと思います。
そんなわけで佳作はなしです!
投稿者: 新井 | 2010年04月17日 16:08
日時: 2010年04月17日 16:08
全員のコメントが終わって、評者の回答が返ってきたので、これで議論が成立したと思います。なので、ここからもう少し議論を展開できるような気がします。(毎年議論は生まれていないので)
今回のコメントを読んでみると、私もそうですが、性格を知るためのコミュニケーションの方法が多いように感じます。おそらく、お題に対して回答する時に、具体的な体験を語るべきか、方法を語るべきか、皆さん迷ったと思います。(私も相当迷ったので・・・)
そこで、この掲示板を議論の場として盛り上げるために、皆さんがコメントした方法で具代的に建物とコミュニケーションをして、どのような性格を感受したかを書いてみませんか?
ここでの議論には、おそらく正解・不正解はないと思うので、どんどん書いちゃいましょー
できれば評者も、これを見ているOB・OGの方からも実体験をもとにした建物から得られる性格について書き込まれてくると、更に面白くなるように思います。
それでは、生意気発言連発野郎のコメントに賛同してくれた方は、是非、書き込んでください。私ももう少し考えてからですが、書き込みますので。
投稿者: 坂牛研究室 10TA302C 朝日大和 | 2010年04月17日 16:54
日時: 2010年04月17日 16:54
ちょっと時間が空きましたが、再び投稿します。
1回目の投稿では、建物の性格を知るため(感受するため)の方法について書き込んだ。そこでは、建物に対して受動的・能動的にコミュニケーションを図り、建物を経験するという方法であった。今回は具体的な建物を挙げて、そこで感受された性格について書き込む。
今回挙げる建物は、“アイアンブリッジ(コールブルックデール橋)”である。「おいおい、建物とか言っていきなり橋じゃないか。しかも橋梁で聞いたし」とか、「出落ち・・・ですか?」とか突っ込まれそうだが、これを選択したのは実際に経験したものの中で、最も予備知識がない状態で経験した構造物だからである。アイアンブリッジは英国のシュロップシャー州北部にある小さな田舎町の河に1779年に架けられた橋で、ロンドンより少し北に位置する。私が実際に訪れたのは、学部3年の時で、英国の産業革命を確信させる世界最古の鉄橋という程度の予備知識で見に行ったものである。しかし、現地を訪れた瞬間どこか違和感を感じずにはいられなかった(鉄橋であると思って見たため)。
それはどこか?理由を探るべく、様々な角度から観察することにした(受動)。すると、なぜか徐々に懐かしさを感じるようになった。次にこの橋を自分が考えるとしたらどうするか、という視点で観察を始めた(能動)。鉄橋だから引張力を指示するはずだ、でもこれはアーチ構造をしている。圧縮?新技術の誇示のためだけに鉄を使ったのか?合理的に建設するなら石でもいいのでは?また、近づいてよく見てみると、細かく部材が分かれていて、それらには穴があけられ、部材が通されている。木造?じゃあ木造でも作れる?しかし、そこらへんまで考えると、ふと気がついた。周囲にあるもの建物は伝統的な木造家屋や煉瓦の建物ばかりで、森がうっそうと茂っている。そこで感受されたのがこの橋が、周囲と素材的に対比をなして、うっすらと図像的に浮き上がってきている、ということであった。メチャクチャな主張はないが、その線による構成とアーチの形が周囲と調和をなしつつ、うっすらと浮き上がってくる様に、当時においての新しさと、現代に置ける頑固さのような性格を感じ取ったのである。はじめに懐かしさを感じたのは、構造のディティールを木造軸組的に処理しているのと、アーチ構造であることが要因であったこともこの時わかった。近くにある製錬所跡を博物館にコンバージョンしたところがあるが、そこには、この橋の個々の部材の型枠のモックアップが展示されていた。
この橋が架けられた当時の鉄という素材を使った革新性と、伝統的手法をもとにしたデザインによる土着性が、この橋を230年も当時の姿のまま残そうとする地元の人たちの愛着を生んだのだろう。木造をもとにしたのは、まだ構造設計技術がおいついていなかったことの証でもあるが、それが結果的に良い方にいった偶然性も、この橋の幸福な運命(性格)を醸し出す要因なのかもしれない。
長々と失礼しました。。。
投稿者: 坂牛研究室 10TA302C 朝日大和 | 2010年04月18日 12:26
日時: 2010年04月18日 12:26
こんにちは、香川です。
ヤマトさんが盛り上げようとしているのでコメントを。
にしても、ヤマトのモノローグは少し寂しすぎます。(笑)
まず、受講しているみなさんにお願いがあります。去年の第一講のコメントを読んでください。大作さんが大切なことを書いてくれています。さらに、お題に関して指摘した部分は、今回のみなさんのコメントにも同様のことが言えると思います。少し読んでみてください。
http://ofda.jp/lab/lecture/word2009/bbs/2009/04/post.html
↑URLです。
次に、みなさんのコメントに対しての印象を書きたいと思います。
大きく分けて、
①みなさんが言ってる「性格」って何?
②小さな差異についての言及がなかったこと
③具体例と方法
の3点についてです。
①に関して
みなさんの文章を読んでみると、「性格」というもの自体を考えた人がいなかったように思います。唯一、新井君はそれについてコメントしています。
HPのレジュメを見てもわかるように、色々な人が性格について言及してきています。それを踏まえて、「性格」っていうものをどう捉えるかということが大切だと思います。
②に関して
これは去年、先生に言われたことです。
ギャップといったようなことを書いている人が多かった印象ですが、フっと気づく小さな差異てのもあるんじゃないでしょうか?
③に関して
ヤマトが悩んだように、具体例と方法、どっちを書けば良いのか?という疑問に対して。
方法を書いた時、本当にその方法が全ての建物に適用できるのか?という疑問が湧いてくる。こっちに来て、建物の観察の仕方、接し方、使い方の違いを強く感じます。
逆に具体例を書いた時、それって特殊解なんじゃない?っていう疑問が湧いてくる。
そこは臨機応変に対応すべきなんでしょうが、ヤマトが悩んだのはこういう事なんじゃないか?と予想します。
では、香川はどう考えるのか?とても言いたいのですが、紙面の関係上書くことができません。
忙しいかと思いますが頑張ってください。みなさんのコメント楽しみにしています。
投稿者: 香川翔勲 | 2010年04月18日 14:31
日時: 2010年04月18日 14:31
香川君antipodasからありがとう。他のOB、OGもコメントください。
さて新井君の評を読み賛成である。いつも評が書かれる前に全員のコメントを読み、ああこれが一番いいなあと思って評が出るのを待つ。自分の予想と合うかどうかわくわくする。今回はアタリ。さてでは何故内堀のコメントがよいのか?
性格を感じ取るその方法は色々あると思う。そこに定番はないだろう。ヴェルフリンが『建築心理学』で書いているように、まさに建築に感情移入する方法もあるだろうし、皆が書いているように、予備知識を持っており、その差を確認するということもある。しかしその方法はおそらくどれもがかなり個人の内面で起こることであり、その内面での受容のプロセスを人に伝えるのは難しいことだろう。かと言ってそのプロセスを一言で神がかりに語り終りにしたのではこの授業の意味はない。
ここで重要なのは、誰でもがその方法を使用できると言う簡便さ。10年修行しないと使えないというようなものではいけない。更にそういう方法をとればきっと何か感得できるだろうと思わせる具体性と現実性である。
これらの観点から内堀の発想は秀逸である。僕も国立新美術館の展示ホールが僕の居間だと想像しながら可笑しくなってしまった。
投稿者: 坂牛 | 2010年04月18日 19:07
日時: 2010年04月18日 19:07