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第12講お題

今日の話は構造。建築の構造には大別すると二つの意味がある。ひとつは建物を支持する意味での構造。二つ目は主として言語学をベースとする図式としての構造である。
さて今日のお題だがここでの構造はこの最初の建物を支持する意味での構造とする。その上で次の問いに答えて欲しい「あなたにとって建築の構造はどのような意味をもつものか?」起承転結の明快な文章800字で答えよ。

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07TA312H 金坂直美:

 構造とは建築を三次元にするための手段である。

 設計製図で図面を描く時、構造を意識することはほとんどなく、清書するにあたり、柱や梁の位置を考えたり描いたりすることを煩わしいなと思いながら描いていた気がする。デザインだけなら二次元の世界にも存在させることができる。しかし、実際には空間をもった建築として現実の世界に存在させるためには材料や施工技術といった「構造」は無視することはできないから図面の中にも建つ(ようにみせる)ために何となく描いていたのだろう。
 昔の住宅には大黒柱があり、天井を見上げると、柱に接続された梁がみえた。構造材が目にみえてわかり、小さい子供でもなんとなく家を支えている構造材について感覚的に把握していただろう。しかし、現代の家では柱の露出した家はめっきり少なくなり、梁は天井の上に隠されてしまった。
 では、構造はみせたくないもの…隠してしまいたいものでしかないのだろうか。研究室で実測をしていると構造の美しさにはっとさせられることがある。屋根を支えるということに対して、虹梁をかけ斗をのせた挿肘木を幾段も重ねる。手間をかけたこの構造の美しさを板を貼って隠してしまいたいなんて誰が考えるだろう。
 現在の技術をもってすればとりあえず柱を立てただけの私の拙い図面でさえ三次元に存在させることはそんなに難しいものではないのかもしれない。しかし、本当に美しい建築における「構造」の役割は三次元にするための単なるツールではなく、空間に存在したときに感動を与える「真の美」の役割を果たしているのかもしれない。

07TA348J 山内一矢:

意匠設計とは理想主義。
構造設計とは現実主義。

建築には2種類の設計がある。一つは意匠設計であり、もう一つは構造設計である。前者は建物の主旨(建物を何に使うのか)・デザイン・人の流れ(動線)・利便性などを主体として考え、建物の形状を決めることを命題としているのに対し、後者は建物が自立していられるのかという点に主体を置き、柱や梁の大きさや床の厚さ等を決定することを命題としている。

建築は理想だけでは建たず、存在するためには必ず構造が関わる。意匠設計は机上での設計であり、それを現実に落とし込むための「フィルター」を構造と考えることもできる。理想と現実をつなぎつつも、同時に選別も行う。構造的に成り立つものはそのフィルターを通過することができるだろうし、そうでないものは倒壊の危険が高く、使用者の生命に関わるということである。そのため、フィルターの前にはじき返されてしまうだろう。建築において生命を守るということでこのフィルターは大変重要な役割を果たしている。

現代において、技術の発展、材質の向上によってそのフィルターの目は粗くなっている。昔では考えられないような大きな無柱空間や、地上数百メートルの超高層ビルを作り出すことも可能である。だからといって、構造がないがしろにされていいわけではない。我々学生の設計製図について考えたとき、現実に建つわけでもなく、構造は二の次であり、ましてや構造計算なんてこれっぽっちも考えていない。現実がすっぽり抜け落ちている。

しかし、それをはき違えて構造計算を偽造したり、手抜き工事を行っているのが現状である。世間はそういった建築の現実を見ようとせず、外観にだまされ、後々、手抜き工事と騒ぐ。これはいくら法改正を行おうと、解決はしないのではないか。建築の現実に目を向け、建築物において意匠の前提に構造的に成り立っていると理解することが重要である。

つまり、構造とは建築における現実である。

07TA342K 萬成恵佐:

 意匠よりも優先される構造は確かに存在するが、意匠としての構造は存在しない。

 建物を支える意味での構造は、近年の計算ソフトの発達に伴い、非常に洗練され、そこに美しさまで見出せるほどとなった。近年、TOD’S、オアシス21など構造を意匠として見せる建築がいくつか見られ、これらの建築はその構造美から評価されている。

 構造美とは、装飾によってではなく、構造を支える部材が美しさをつくり出している様をいう。無駄なものを排除し、理に適った形をした構造物に対しては、多くの人が美を認めている。伊藤豊雄も自身の設計した「ぐりんぐりん」のコンクリートを打つ前の配筋を見た際、その美しさからコンクリートを打たずに、このまま残したいと思ったそうである。

 では、建築を支えるものとしての構造、そこに現れる美しさにはどのような意味があるのだろうか。例えば大規模な橋梁において「大自然との調和」を図るには、装飾を付加するよりも、フォルムの基本となる橋梁形式を洗練させることがポイントとなる。“構造美”をできるだけシンプルにみせること、つまり「骨格の明快なフォルム」の表現が、調和性とシンボル性を共存させるのである。逆に豊田大橋に見られるように装飾を付加した結果、すなわち建築家の“意匠美”で橋が設計された結果、この橋には多くの死角や暗所が出来、近隣住民から多くの批判的な意見が集まることとなる。

 美しさとは目に見えなければならないのだろうか。意匠美は目に見える形にしなければならない。だが、構造美は目に見えることもあれば、全く目に付くことが無い、もしくは目に見えていても全く意識されることの無い美である。目に見える美を重視し、ついには本来目に見えることの無かった構造美を表層に現してきた現代建築。私はこの表層に現れた構造美が、本来の構造美と違うものに思えてならない。つまり構造を意匠として見せようとする「建築家の意志」が装飾されているように思えてならないのだ。(この意見は、構造美に対する言葉遊びのようなものかもしれない。)構造美は目に見えなければならないのだろうか。まして、私はそれが意匠として用いられることで本来の構造美が失われている気がしてならない。

小森裕介:

構造とは収束である

 デザインには多くの考え方がある。土地に根ざした建築。土地との関係を断ち切った建築。周りの環境に透けるような建築。強い印象を与える建築。その他にもいろいろあるだろう。さらに、それらを実現するための手段として素材、色、形、ボリュームなど、さまざま選択肢がある。本来、デザインとは拡がっていく行為である。
 一方、構造にはいかに合理的であるか、という一つのはっきりとした目標がある。建物を支持する柱や梁などは、出来る限り少なく、細く、それでいてしっかりとした強度を持っていなければならない。すなわち、一つの目標に向かって収束する行為である。
 建築基準法の中でも、構造に関しては柱のスパンはどれだけ以下、梁せいはどれだけ以上、筋交いは、接合部は、基礎は云々。など事細かに規定されているが、デザインに関しての明確な記述は見られない。このことは、まさに構造の収束性とデザインの拡大性を示している。
 ここで、構造を人や動物の中におきかえて見るのであれば、それは間違いなく骨であろう。鉄骨や木骨という言葉からもそれが読み取れる。
 化石とは元々動物の骨であったものであり、すなわち動物の純粋な構造である。その構造から動物を復元する際、骨格を組み合わせたのち、肉の付き方、皮膚の質や色など様々な事が考えられる。これは拡がっていく行為、すなわちデザインと言うことができる。もっとも、化石から動物の復元は奇抜な事は考えられず、合理的な方法が採られるであろう。
 これはモダニズムの考え方に似ていないだろうか。まず柱やスラブがあり、そこにカーテンウォ−ルやガラス窓などの肉付けをできる限り合理的に行うといったように。インターナショナルスタイルという言葉どおり、どこの国でも同じように構造ありきの合理的な建築が作られた。建築が白骨化したとはいえないか。

 現在、コンピュータの発達でより複雑な構造計算が可能になったことによって、一見構造が多様化してきたようにも思われる。しかし、構造の目標はあくまで合理性である。合理性を重視する構造に付加したデザインを続けるのであれば建築は再び収束し、白骨化してしまうのではないか。

07TA343H 三浦明日香:

私にとって建築の構造は、柱とか梁、それらの組み方であって、ただ支持するものを意味している。イメージとしては、(ありがちだが…)骨とか骨格である。しかし、ただの支持物ではあるが、それ自体が合理的で美しいと思う。

人や他のどんな生物も、誰かが造ったわけではなく、ごく自然に、いちばん最適な形に出来ている。それぞれの生き物の持つ骨格もその中でできた。それは一見複雑だが、余計なものが付いているのではなく、足りていないのでもなく、シンプルで合理的である。骨格はその生き物にとって最も良い形で組まれ、体を芯で支え、生き物自体をかたち取っている。建築物やその構造は人間が考えて創りだしたものであるが、長い年月をかけて、工夫を繰り返し、最適な形に近づけていった。建築物構造は、あるべき場所にあるべき部材が、過不足無く、最適な方法で最適な位置に組み立てられている。そうして出来た建築構造、つまり建築物の骨格は、建築として建った時点で成立しているのである。

建築を建てるときに、意匠的なデザインは欠かせない。外観や空間的デザインの良いものに魅力を感じるし、最初に目がいくポイントでもある。そうすると、どうしても構造は建築意匠の裏側に隠れてしまいがちである。生物の骨格もそうだ。きれいな人を見ていても、皮膚や肉に覆われた内側にある骨格まで気にする人はそんなにいないだろう。それでも、骨格も構造もそこにあり、人や建築物を成り立たせているのだ。

構造を意匠として見せてその美しさを生かすのか、骨の部分は隠してしまうのか、ということを問題として取り上げることがある。しかし、それは意匠としてだけの問題であって、構造という意味では全く関係のない話である。構造は見えていても壁などに隠れていても、建築物を成立させている。構造体の姿はそれで完成なのであって、シンプルで合理的なはずで、それだけで美しい形になっているはずなのだと思う。

玉川 幹夫:

建築の構造は、建築をとりまくさまざまな要素と対話するための文法のような機能をもっている。建築に関わる、ひと・もの・ことから発せられるさまざまな要素は、膨大かつ錯綜しており、まるで複雑に絡み合った糸の束のようである。設計とは、その糸をひとつひとつ解きほぐして行き、混沌としたカオスの状態から、合理的で整理されたコスモスの世界をつくりだす作業に他ならない。このとき、強大な力を発揮するのが構造である。建築に形式や秩序を与え、さまざまな要素が構造形式の中に収斂する姿は、ランダムに発せられたことばが、一定のルール、文法により、意味を伝える文章に生成して行く姿に似ている。
 建築の形態を決定して行く際に、構造はそのプロセスにいかに関わって行くのだろうか。設計の初期段階において、さまざまな条件を整理しプランを作成する。そしてそれらがある程度固まってきたところで、構造の検討を開始するというのが一般的な方法である。ここでは、構造はあくまで、プランを立体に展開させるための手段として用いられるため、建築における従属的な関係にある。この場合、構造が形態に対して、理論的な裏付けを行うために用いられるために、構造からの発想に乏しく、固定的で発展性のない建築に陥りやすい傾向にある。
 構造設計者の佐々木睦朗氏はある対談の中で、「普通は形が与えられて、構造物がもつかもたないか調べて、もつように断面を設計していくやり方です。「形態デザイン」は形を決めていくやり方で、もつような形になるように形を決めていくわけです。」と述べている。ここでは、建築おける構造の関係が前述と逆転した考え方を示している。
 最近はこうした方法論からなる建築も数多く見られるようなってきた。しかし、あまりに構造が優先されすぎると、単に建築と構造の主従関係が逆転しただけで終わってしまい可能性がある。私は建築における構造の役割を、目的と手段という二項対立ではなく、両義的なものとしてとらえ発展させて行くことが重要であると考えている。

奥村絵美:

 私たちの学んでいる建築は、大きく分けて環境、構造、意匠の3分野から成っている。これらのうち建築の土台は構造であると思う。そこへ宗教の思想や富の象徴等を表すために意匠が、何か行うために快適な環境を作りだすために環境という分野が出来たのだと思う。
 当たり前だが柱が無ければ壁は建たず、梁が無ければ屋根もかからない。建築物は構造があるからこそそこに建っているのだ。構造が重要なものであるのは建築だけではない。イスや机、食器等、物が存在するためには必ず力が存在し、それを支える構造が存在しているのだ。建築の意匠や環境は構造があることが前提で存在でき、本来の目的を成している。
 構造はその意味のままのように、建築を支えている重要な存在である。しかし、構造だけで出来た建築は何の意味も持たない。建築物を建設するにあたり、私たちは何か目的を持っている。住宅であれば快適な空間、工場であれば物を作るための環境を作り出すことが目的である。その目的のために意匠、もしくは設備が絶対必要となる。例えば半導体工場ではクリーンルームが必ず必要でありそこには多くの設備が設置されている。この設備が無ければこの建築の目的である半導体の生産は出来ない。また、教会や寺院等の宗教建築にはその配置や形式、壁画に至るまでに意味があり、その意味を示し伝えることも宗教建築の目的なのであると思う。もしもっと違う用途を取り付けるのなら、それに伴って構造も増やさなくてはならないはずである。
 このように考えると、構造は目的を果たすための重要な道具なのだと考える。ジュースを飲むときのコップのようなものである。構造があるからこそ、意匠、設備は本来の目的を果たすことが出来る。また、意匠、設備があるからこそ、構造が必要なのである。目的を増やせば構造も増やさなくてはいけなくなることも考えられる。構造のみを成すために意匠や設備は必要ないがその建築には目的がないのである。

高久洋介:

柳瀬研究室 高久洋介

構造は遊びである。

建築を評価するとき、使い手も作り手も内部の空間を評価する。建築とは骨組みや壁、ガラスなどに囲まれた空間を使用するものであり、単純に言えばコップのようなものである。牛乳を飲むためにはパックからそのまま飲むか、コップに注いでから飲むだろう。コップは「飲む」という目的を果たすための道具である。建築は住むための機械である、とどこかの有名な建築家が言っていたが、それに近い。私が彼より先に生まれていても似たようなことを言っていたに違いない。
さて、道具を作るために人はどのようなことを考えるだろうか。人は1回にどれだけの牛乳を飲むだろうか、という世の中の「平均値」を考えれば、コップの中の容積は決まってくる。牛乳の保温、保冷のためにはコップの材料も工夫しなければならない。持ちやすいように取っ手をつけようか。使った後に洗いやすいようにコップの底が深すぎてもいけない。このようにして牛乳を飲むのに最適なコップが設計されていくはずである。
しかし、建築はこのように一筋縄では作れない。コップに入る牛乳よりも建築の中にいる人間は多様で複雑な動きをするからである。牛乳のようにただ黙ってそこに収まってくれないから、作り手は空間以外の部分を工夫することを余儀なくされた。平均値で建築は作れない。作り手は人間の行動の多様性にあわせて、建築を作ろうとし、その結果構造も多様になったのである。
正直、この世の中、余剰な建築があふれていると私は思う。余剰なのは建築の用途ではなく、構造である。大昔、家が建つのか壊れるのか、という瀬戸際で構造はほぼ生命線であったろう。しかし、現代建築を見る限りでは建築における構造は、人々の個性やエゴを反映させるための遊びでしかないと思う。建築でどれだけ遊べるか、どれだけ個性を出せるかというところが建築家腕の見せ所なのだろう。

07TA306C 岡悠志:


いつ、どこで、どのような形で知ったのかは忘れたが、「構造美には2種類ある」という言葉を聞いたことがある。それは「見える」構造美、「見えない」構造美である。しかし、私の頭の中からこの言葉の意味や内容はすっかり忘れ去られている。ちょうどいい機会なので、この言葉を元にし、自分なりの「2種類の構造美」を考えていきたいと思う。

構造というのは物理的な制約によるところが大きい。そのため、私のような構造ワカランチンでも構造部材の果たす役目を感覚的に理解することが出来る(例えば、柱は上の水平材を支えているんだなぁとか)。「見える構造美」とは一般的にいわれる構造美と同じような意味で、建築の構造となる部材が美しさを持つということだ。理にかなったカタチでありながら、その禁欲的な姿が美を生む様なものを「見える構造美」であると考える。

一方、「見えない構造美」とは何だろう。
今回の講義で坂牛先生が自分のことを「構造を邪魔だと考える建築家」とおっしゃっていた。しかしながら、坂牛先生が建築に対してインチキをするような建築家でないことは知っている。
では「構造が邪魔」な建築家がたてる建築の意味するところとは何であろう。それがまさに「見えない構造美」ではないだろうか。建築の造形美に顔を出すことの無い構造が「見えない構造美」ではないであろうか。凝ったデザインを考えれば考えるほど、デザインを錬る以上に構造を考えなければそのデザインは実現されないであろう。役割を果たしつつも隠された構造を持つ建築に「見えない構造美」を感じるのではないだろうか。

ただここで疑問が生じる。「せんだいメディアテーク」は「見える構造美」であるのか。また、「TOD'S 表参道ビル」は「見えない構造美」であるのか。
「見える構造美」は理にかなった禁欲的な姿に美をみるものである、といった。また「見えない構造美」は隠され表出しないことで建築に美をもたらす、と述べた。上記した2つの建築は、2つの構造美の中間的な意味合いが強く、「見せる構造美」とでもいうべき構造美なのではないだろうか。構造をデザインの一部とし、またデザインの中に混ざるように構造を考える。そうして作り出されたものに「見せる構造美」を感じるのである。

三森翔:

07TA344F 三森 翔

構造とは言葉や創造を超えた建築の可能性をかたち創るもの

 今回私は現代の建築においての構造について述べていきたいと思う。
 ここ数年間でつくられてきた多くの建築に見られる傾向として、一昔前まででは考えられなかった形態を持つようになった。現代の建築に見られる形態として自由、複雑、不定形、流動的、有機的といったような特徴をもち日々進化している。

 この様な特徴を携えた建築を創る建築家として伊東豊雄氏が挙げられると思う。伊東氏は「せんだいメディアテーク」を設計して以来不定形・流動的・有機的な多種多様な建築を生み出している。「せんだいメディアテーク」の特徴の一つとして、象徴的な緩やかにうねるチューブが見られる。また「ぐりんぐりん」では山を彷彿させるような流動的な形態のランドスケープが広がっている。

 それを合理的に実現させたのは、従来の経験的な構造デザイン手法に替わって、力学(理性)と美学(感性)を統合した数理的な形態デザイン手法でっあた。つまり構造計算の進歩がきっかけとなり、複雑な形態をした建築の構造計算を煩雑さを解消した。それにより多様な建築の可能性を見いだし、さらには合理的作り上げることを可能にしまた美的な要素を包括することも可能とした。

 現在日々生まれてくる建築は、力学的根拠を求めるだけの構造力学の領域をはるかに越え、哲学的あるいは美学的な領域に達している。これまで述べてきた建築の形態が評価されているのは、構造が建築家が表現するイメージに倫理とシステムを付加させているためではないだろうか。構造は建築で表現したい形態を形作る役割を担っているものである。

07TA347A 望月翔太:

構造は空間を自由にする

構造は一般的に空間を規定するものである。建築を作るとき、柱や壁といった構造体を作っていくことで、空間を作り上げていく。設計者は作りたい空間を実現するためにさまざまな構造を利用し試みる。

そしてもっともっと自由な空間が作りたい、と言ったときその空間を実現するための構造というものが、より顕著に意識され、現れてくる。つまり、その自由な空間を理解しようとするとき、まず意識するのが構造なのである。ここで構造の意識レベルと空間の自由度との関係を考えてみる。これら2つの関係は、空間の自由度が低いうちは比例関係にあると考えられる。自由度が増すにつれ、構造も意識されていく。そして空間の自由度が、ある大きさを超えると構造の意識レベルは、たちまち姿を消す。なんとかドームのような大空間の中に入ると、空間が自由すぎて、その空間の構造を捉えられなくなるため、構造の意識レベルは消えてしまう。構造の意識レベルが低いということは、構造を気にしなくていいので、空間の自由度が極度に高いと言うとわかりやすいかもしれない。
2つの関係が比例関係から崩れる境目は、日常にありふれた経済スパンよりも少し大きな値を示すだろう。比例関係の状態を日常と言えるとするなら、意識レベルが0になる空間というのは非日常と言えるかもしれない。

構造の意識レベルが極度に低い自由な空間を考えると、「改めて考えると、この構造がこの自由な空間を作ってくれていたのか」と、構造は後天的に意識されるため、あたかも構造が自由な空間を与えてくれるかのような錯覚に陥る。つまり2つの関係が崩れると、それまで捉えられていた空間を作るための構造という、「空間の自由度を規定する構造」という意識が逆転し、「空間を自由にする構造」という意識に変化する。構造というものは建築を自由なものへ導いてくれるという魅力があるのではないだろうか。

武智靖博:

07TA321G 武智靖博 

 坂牛研究室に在籍しているために、設計をする機会がたびたびあります。そのときは、まず始めに構造を考えるということはしません。先に自分のイメージがあり、そのイメージ上の空間を成り立たせるために、その空間を成り立たせるための構造を考えます。
 
 例えば、浮遊するような印象を与える建築をつくりたいと考えたとします。となると、ほぼ同時に構造は決定します。より宙に浮いた印象にしたいなら、きっと柱と梁を使って、ピロティのような場所をつくっていくはずです。このような場合、どう考えても壁式は選択しないはずです。つまり、自分のイメージする建築にふさわしい構造が存在し、それを選択していく道程をたどるわけです。それが単純な構造でない場合は、スタディ繰り返し、単に柱梁、壁式というようなものではなくて、複合された構造になる場合もありますでしょうし、複雑な構造になることもあります。
 
 しかし、自分のイメージ上の空間というものは、ただ構造によって支持されて、成り立てばよいとうものではありません。例え構造的に如何に合理的で、建築が成り立っていたとしても、その構造を含めた目に見える建築物の内観や外観は、自分のイメージと照らし合わされて、判断されるのです。そこには、その構造から自分が受け取る印象があります。例えば、構造のある場所またはその配置(スパンやプランにおけるその他の要素との関係)、その大きさ、見えている場合のその質料、それをトータルに判断する空間としての質といったいくつかの要素から、構造を評価するのです。
 
 記述したように、自分のイメージを成り立たせるために、お題そのままの意味の建物を支持する意味での構造を必要とします。その次の段階として、構造によって構成された空間をイメージ上の空間に近づけるための構造を考慮しなければなりません。つまり、建物を支持する意味での構造の中にも二つの意味が存在し、一つが既述の意味であり、二つ目に意匠的な意味を帯びている構造という意味が存在するのです。

07ta336e 平岩宏樹:

 建築の構造とは建築のスパイスみたいなものである。
 構造が主張するというよりもその空間なり、そこにあるモノなり、そこで起るコトなどが建築の豊かさにつながっていくものになるだろう。
 さて、私は卒業論文で建築専門誌と建築一般誌の表現に見られる差異について作品写真を題材に研究した。専門誌はその空間、つまり建築自身を見せようとするため、そこに人の使用風景などはあまり写らない。その写真を見るとき、目線は自然と建築自身に向く。そのため、空間を構成する構造なり、ディテールなり、空間の繋がりが意識される。その意味で、専門誌には結構的な特性が強く感じられると言えよう。一方、一般誌は空間の設えよりも、建築の使用されている姿や、実際にその建築に訪れている人に焦点を当てている。つまり、一般誌で重視されているのは生き生きとした情景を描き出すことであり、専門誌のような結構性はあまり意識されることは無い。今日の一般誌隆盛の状況を考えたとき上記のような結構的な表現から生き生きとした場の表現への移り変わりの一端が見られるように思う。
 構造とは建築の空間を構成するものである。当然、構造が無ければ建築はなりたたない。しかし、建築を構成するときの構造はその見せ方において、あくまで脇役であるべきであると思う。建築を外形として成り立たせているものは構造かもしれないが、その建築を本当の意味で形作っているのはそこを利用する人であり、その場の使用風景になっていくはずであるからだ。
 しかし、その使用の場をよりよく見せるのも構造の役割である。古民家にしても、あの大きな梁に圧倒されるのはそこに過ごしてきた人たちの息遣いが見えるからであるが、逆を言えば、その構造があるがゆえにそのような場の息遣いが感じられるのである。先に出した一般誌においても、写される場所はあくまで対象の建築であるため、人や使用風景が写っていようが建築にも目が行く。その建築が豊かなものであろうという情景が感じ取られるためには、その建築自身の結構的な要素もはずしては語ることはできない。
 つまり、こうした建築自身を構成する構造(ないし設備なども)の結構的な部分はあくまでスパイスであって、それが作る料理は生き生きとした情景である。しかし、スパイスを欠くことはできないし、スパイスが無かったらどんな味気ない料理になるだろう。構造は気づかれないように脇に凛と佇んで、そこで営まれる情景をゆっくり眺めていてくれればいい。

07TA333A 野崎慎吾:

この世に存在するものの多くはすべて骨組みがある。
建築において構造というものは意図、デザイン、などを考える以前になくてはならないものであり、その結果様々な構造形態が生まれてきた。その構造の中には主に見える、見えないで二つに分類され、評価されている。
まず、見えるという構造であるが、民家建築で言うと柱、梁などであろうか。その民家を支えている力強さの奥に洗練されたデザインがとって見える。木のまがりを考えてどのように部材を積み重ね、それを構造として完成されたものにするか。職人が試行錯誤によって完成されたこれらの構造を「見せる」ことによって、いやおうなしにそれを意識することとなる。次に見えない構造である。前掲のみえる構造を天井板、また材質によって隠されている。その構造より内観を重視した際に多くみられるものであろうか。(いい例が思い浮かばずすみません。)
 さて、近年では一般的にほとんどが見える構造である。言い方をかえると構造を見せるように設計されているのではないだろうか。近代建築には様々な見せる構造が生まれてきている。しかし、それに多種多様性が生まれてきたことによってそれを構造として意識されておらず、デザインの中の一部と捉えられているのが現状であろう。
 このように見せる構造の中にも民家建築の柱、梁のような「見せる」ものと、近代建築のような「魅せる」ものに二分されてきているのではないだろうか。私は後者はあまり増えてほしくはない、構造はデザインされるものではなく、構造が建築をデザインするのである。民家の柱、梁は強度を高めた結果、あのような洗練されたデザインが自発的に生まれたわけであり、東京タワーのように構造の塊が最終的にオブジェのようになったというのが本来の構造のあり方である。構造をデザインすることによって、本来の構造の意味をわすれていってほしくはない。

03TA327F 戸成一平 :

07TA327F  戸成一平

建築と構造は親子のような関係にある

子供が育っていくためには親の存在は絶対不可欠であるのと同様に、建築にとって構造は必要不可欠な物といえるのではないだろうか。
建築が地球上にある以上、重力からは逃れることができない。建築を構成する要素は、設備、素材、色等様々であるが、他のどの要素わ抜きにしても、建築は建築であることができるが、構造を抜きに建築を建てることはできないのだ。建築が空間を構成する上で、見えていようが、たとえ隠されていようが、構造は確かにそこに存在する。人は自然から身を守る手段として建築をつくった。建築を建てる最低限の手段として、構造は存在するのだ。そう、建築は構造によってつくられているといえる。
しかし、子供は親の思った通りに育つわけではない。時に反発し、親の思いとは全く違った道を歩むこともしばしばある。建築を建てるためには構造による規制を逃れることはできない。が、現代では人は設計をする際どのようにすれば構造による規制を逃れ、自由な空間を設計することが可能となるかを考えている。もしくは、どのような空間を構成するかを考えた上で、その空間を持たすための構造を考える。これは、構造に対する建築の反発であるもとれる。しかしこの反発があったからこそ、構造は進歩し、人はより自由な設計が可能となった。反発は子供が成長していく上で重要なことである。
構造の存在をいかにみせないようにするかを工夫した建築もあれば、逆に構造をデザインの一部、または主体として取り込んだけんちくもある。子供には常に親の面影が残る物だ。どんなに親に反抗した子供にもそれはいえる。構造が隠れていようがいまいが、建築が建っている以上構造はそこに存在するのだ。

07TA318G 新宮 敬章:

 余談ですが、外部から入ってくる情報に私が無抵抗だと仮定すれば、『構造』と聞けば人の命を守るもの、建物を堅牢であることといった事をイメージします。まあ、でもこれは当たり前の話でここでは議論の対象とはならいでしょう。
 ここで私は構造を「支え」と「囲う」という点で捉えていきます。それは何かというと、例えば「支え」の例として柱を挙げます。柱を一本建てる事により、寄っかかったりすることや、何となくその柱が作りだす空間内に居たりするという行為を誘い込みます。これは柱が空間を作っていると言えますし、普段人が意識しないような要素を教えてくれるとも言えそうです。つまり普通に見れば、表層的に垂直に伸びる柱と認識するだけなのですが、実はそこに生まれている空間の影響下にいるということです。また、「囲う」の例として屋根を挙げます。今度の場合は先に挙げた例と反対で、普段意識しにくいのですが同じようにその空間の影響下に居るのです。
 このように構造は、空間を視覚的に示す指標だと考えます。ただし、見えやすい・見えにくいはあると思いますが。ここで私は、その構造を読む事で人の行為を強制している様子を知る事が出来ます。そして「支え」と「囲い」はますます絡み合い細かく分断され、支えと囲いという前提は変わらないし変えなくても、少しの操作で劇的に空間は変わってくれます。オーソドックスですが、私にとってはこう意味です。

07TA314D 神山義浩:

風の定点。

構造とはとても自由なものである。自然の摂理に則していればどんな状態であっても構造はその合理性を発揮する。意匠から建築を考えると、構造というものはデザインという括りの中で完全に足枷を作られてしまうが、本来、建築における構造とは自由なものなのである。

以前、アラップ代表のセシルバルモンドが書いた「number9」という本を読んだことがあった。構造設計において常に時代の先頭を行くセシルの本なので構造についての難しい本なのかと思っていたが、中身は、絵本のように情景豊かな本だった。この物語は小さな村の話で、小さな子供が主人公である。

本の簡単な説明をすると、この物語は小さな村の小さな子供が風の定点を見つけるという話である。
我々は、常に風を感じているが、風というものがどこから吹いてきているのかは知らないし、そもそも風の出発点など絶対に分からない。風は感じることはできるが、決して見ることはできないからである。しかし、この小さな子供は風の定点を数学的に解いてみせる。詳細は本を読んでもらいたい。

建築という物理的合理性を持った存在は、地球のようなものである。そこにあるあらゆる物質を統括している意味で地球である。そして、構造とは建築の抱えるあらゆる物質の一つであるという意味で風である。我々が建築空間の中で構造、つまり力の流れを見ることはできない。しかし、そこに自然摂理的な力の流れを感じることはできる。そして、それは風が地球における摂理の重要な一部を担っているように常に無くてはならないものである。

風はどこから吹いてきていてもそれほど大きな問題ではない。そして、どこからでも吹いてくるような印象を持っている点で自由な存在である。しかし、風は常に摂理に沿っているのだ。

構造も一緒である。どこにあっても良い。建築が建っていればそれは自然の摂理に正しく存在しているのである。だから、建築における構造とは自由なものなのだ。

強い風を邪魔に思うことはある。
でも、草原で吹くような心地良い風は好きである。

それは、緩やかな風のせいかもしれないが、草原という景色のきれいなところで吹く緩やかな風だから心地良いのである。

だから、私は常に草原のような建築を造りたいと思っている。

兼子晋:

07TA311K 兼子晋

構造とは二重人格をである。
そしてそれが入れ替わるのは水中と外気を分ける水面のように紙一重であると考える。

まず一般的に構造は建築には欠かせないものです。そしてそれは建物を支えるという意味でなくてはならない存在です。そうした中で、構造は建築を安定させ、空間を規定したり、逆に作ったり、もっと言えば構造だけを見せたりもするでしょう。

さて現代を見てみましょう。構造は技術が発展してきたことよって、ある意味どのようにも建築的形態を自由にすることが可能になってきた。言い換えれば自由に構造を操作することが可能になったのである。つまり構造を操作可能なものとすれば、多様に存在する構造(例えば柱や壁、天井など)の中には建物を支持する構造ではない構造も現れてくるはずなのです。

ではなぜ二重人格をもつのか。そしてそれが紙一重なのか。それはこれまで述べてきたように、本来の構造として扱ってきた構造が、現代においてどこかで構造ではない構造もが入り込んできたことによります。もっと言えば建物を支持する構造の中に偽構造が出現してきたということです。それは一見普通の建物を支える構造であると意識されます。しかしその中には偽構造としての構造が混じっているので、それは構造とは呼べない。では何なのか。意識してそれを操作していれば、それは見せる構造として現れてくるでしょう。TOD'S 表参道ビルなんかはそうでしょう。しかしそうでない構造(つまり見せない構造)として現れてくるものがあるのではないかと思うのです。そこが紙一重なのです。
建物を支持しているが、その役割は果たしていない。支持はしていないが、構造としては意識される。

そう考えるとそのような構造は本当の美しさとして意識される構造になりうる。それは下手をすればとても陳腐なものになってしまうかもしれない。しかし建物を支持する意味として構造を捉えるならば、操作可能になってしまった現代ではそのような構造が現れてきてもおかしくない。

07TA341A 松田大作:

 今回は、授業に出席していないので、若干とんちんかんな回答かもしれませんが、答えさせていただきます。

 私にとって、建築の構造とは、時間のズレによって生じる意味認識の差を明快にするもの、である。

 今回のお題に対して、建築の構造とは○○である、という回答をするつもりはございません。そこで、私にとって建築の構造はどのような意味をもつものか、という問いに対して、「建築の構造の言葉の歴史」が、「私の建築の構造という言葉の意味」に対して、どのような意義、意味を持ったか、と捉えて論じていきたいと思います。
 まず、構造という言葉は、言葉と建築の中で「この用語(構造)の目立った特徴は、抽象として始まり、その重要性が不可視性にあったものが、近代の語法で物(thing)に変化したことである」となっている。建築の構造の現代の意味が明確になっていくと、かなりの部分で賛成できるのではないだろうか。たとえそれが、自分の心の中に眠っていて、言葉になっていなくとも。
 そこで、建築の構造の意味は、現代の私たちのなかでは、共有されている。現代の言葉は、現代の社会の価値観という枠組みの中で存在している。その意味の繋ぎ方は、時代によって違うということ、これは、言葉とその意味の繋ぎ方、つまり、構造が時代によって変化していくということである。
 さて、そこで、私は、現代的な「建築の構造」について考えてみた。しかも、みんなの意見を参考にして。そこでは、自由や収束という、相反する言葉が存在した。真逆の言葉が飛び交う現代、本当に多様な状態であると言えよう。しかし、多様である状態を多様だ、といったところで何の伸展もない。建築に、(それは構造を含む)にできることは、多様な広がりがどこまで可能か、そしていかに実現されているのか、ということだと思う。
 以上のことが、私が建築の構造を通じて感じた意味である。

07TA331D 梨本耕平:

大事なのは人間

建築における誠実さとは、建物の目的を忠実に解決することだろう。
構造とは、堅固で丈夫な骨組を作ることで、その目的を忠実に解決することが建築における誠実さだと思う。

構造はただ単純にその目的のためにあればいい。それ以上でもそれ以下でもなく。その中で、出来あがる構造体の寸法、比例、部屋の大きさ、柱の太さ、これらが作り出す空間の造形美によって建築は十分に感動を与えうるものとなるだろう。

近頃、構造は造形のためにあるかのような錯覚が起きているのではないか。ジャーナリズムを通して建築がそのように造られ、建築家は素人に理解しがたい理論を隠れ蓑に自己の主張を展開して行く。骨格の歪みは時間を掛けて生活を蝕んでいくだろう。

構造とは、はじめに造形があるのではなく、はじめに人間の生活があり、それを安全に支えるもので良いと思う。そのため、設計は奇抜なものでなく、単純明快であるべきだろう。それは建築家にしか理解できないものでなく普通の人が見て、素直に良いと感じるものであってほしい。

勝 良介:

建築の構造は、建築の果たす目的をささえ、建築に込めた精神をささえるものである。


 建築の構造は、屋根をささえるためにある。谷崎潤一郎は『陰翳礼讃』の中で、日本の建物で、外から見て最も目立つものは、「大きな屋根と、その庇の下にただよう濃い闇である。」とし、「われわれが、何よりも屋根と云う傘を拡げて、大地に一郭の日かげを落し、その薄暗い陰翳の中に家造りをする」と述べている(註1)。このように、建築の構造は雨風や日差しから人を守るためのものである。

 建築の構造は、まず人を守る役割を果たさなければならない。そして、建築の構造は、建築に込められた精神をささえるものである。法隆寺は、聖徳太子が仏教を基礎にして国を治めるために造られたものである。法隆寺の建物には、その精神を支えるための飛鳥の工人の知恵があふれている。法隆寺大工の西岡常一は『法隆寺を支えた木』の中で、法隆寺の建物が千三百年も持ちこたえた理由を、いくども修復が行われたからではなく、「肝心なところはすべて創建当時のまま」であり、「飛鳥時代の人が、永遠の建物をつくるために、必死の試みをしていた」としている(註2)。

 構造が建築をなりたたせているが、構造は建築の目的のためにあり、構造自体は建築の目的ではない。薬師寺金堂には、軟構造の木造の建物の腹の中に、硬構造の鉄筋コンクリートの収蔵庫が入り込んでいる。これは建築基準法や文化財保護法などの法的な制約に阻まれたからだ(註3)。ここでは、建築の構造を満たすという構造が目的になってしまっている。建築の精神をささえるためには、それにふさわしい構造が必要である。
  
 建築の構造は、建築の目的を果たすために存在しているのは、現代でも変わらない。建築の構造は、建築に込めた精神が表出したものである。どれだけ建築に思いを込めることができるかが、幾年も生き抜く建築の鍵となるのだろう。 790字
 
 
(註1) 谷崎潤一郎『陰翳礼讃』(中央公論新社「中公文庫」7-65,1975)30-31項引用
(註2) 西岡常一・小原二郎『法隆寺を支えた木』(日本放送出版協会,1978)46-47項引用
(註3) 西岡常一・小原二郎『法隆寺を支えた木』(日本放送出版協会,1978)67-68項参照

春本雄一(07TA335G/高木研究室):

投稿が大幅に遅れましたが、コメントさせて頂きます。申し訳ありません。

建築をある種のアートと捉えた時、構造は建築のアイデンティティーを確保するものである。
 
 建築は工学系の分野として存在する以上に、リアルなモノを創造しそこに作者のコンセプトがあることによって、アート的な価値を持つことになる。これは皆さん想像に難くないであろう。  
 まず、一般的なアートとして絵画に着目してみよう。絵画は自由である。キャンバスの制約もないだろうし、何を使って、どんな色で描いていても、良しとされる。むしろ、常識にとらわれない描写方法が高く評価されたり、今まで対象に入らなかったものをあえて取り上げることで面白みが増し、その作者の価値を高めることもあるかもしれない。
 建築はそうではない。それは建築が本来人々を外界から守るシェルターの役割を果たさなければならないと同時に、地震大国日本では、地震ですぐ倒壊する建物では駄目だからだ。つまり、「構造」を創作段階で常に念頭においてデザインしなければならない。構造が破綻している建築はそもそも建築になれていない。
 自由な建築を語ることはいくらでもできるし、学生の製図では、むしろ構造をあまり考慮に入れないことが多い。実際はそうはいかない。構造があることで建築のアイデンティティーを保っている。
 では、構造が建築の可能性を規定しまうことが良くないことなのか。私はそうではないと思う。例えば、例に挙げている人もいるが伊東豊雄氏の作品などは、あえて構造を見せたり、科学技術の発達によって今までには考えられなかった有機的でダイナミックな造形で見るものを圧倒している。このような「構造美」とも言えるものが、建築だけの良さであると私は思う。

鈴木英水:

お題12:あなたにとって建築の構造はどのような意味をもつか

今回評を書く鈴木です。よろしくお願いします。

今回のお題において多くの人が書いていた文章だったのが、「当然ではあるが、構造は建築には欠かせないもの、必要なもの」というフレーズ。さすがにこれだけで終わっている人はいませんが…。
僕は構造において、「ここに柱がなくてはならない、ここに構造材がなくてはもたない。なんとかもたせよう。」など、建築を自由にデザインする上でマイナスのイメージを少なからず持っている。(見せる、魅せる構造もすばらしいと思うが)
そこで、なくてはならない構造という縛りから逃れている(解き放たれている)意見が展開され、印象に残った物をあげます。

高久君の『構造は遊びである』という表現はなかなか面白い。が、残念ながら賞はあげられない。

神山君の『構造は自由なものである』

上述の通り、僕は構造に対し少なからずマイナスのイメージを持っている。そんなイメージを一掃するかのように、自由な風を例に話を展開している。
神山君の言う草原のような心地よい建築とそこに吹く風のように気持ちよい自由な構造ができるのなら、構造に対するイメージも変わるし、居心地のよい空間ができると思いました。
今回の鈴木賞は神山君に差し上げます。おめでとう。

07ta317j 清水右一朗:

 今回評させていただくことになりました清水です。授業を欠席しているので、評者としては至らないところがありますが、よろしくお願いします。

 さて、今回のお題は「あなたにとって建築の構造はどのような意味をもつか」です。皆さんの回答を見させていただいて、ほとんどの方が構造というものの直接的な意味について語っておられます。この場合ですと、建築にとって構造はプラスの要因となりえるのか否か、という話で終わってしまっているように思えます。見える構造美とか、構造は自由とかそういったものは至極当たり前の考え方であるように思えます。

 私自身も、上記の考え方をしていましたし、小森君の「白骨化」に共感しました。私は構造というのは人間の脂肪みたいなもので、ないことがいいとされているが、全くないと生存に関わる。個人個人の体型や性差によって適切な脂肪量や配置があり、それが人の美しさにつながると考えておりました。しかし、これも上述したような話で終わっているため、しっくりこないというのが現状でした。

 そんな中、構造は自由という前提の中で、自分にとって構造の意味を「風」という、一般の尺度では測れないものに例えた神山君は一枚上手であると言えると思います。
よって神山君に賞をあげたい。おめでとう。

松岡澄生:

今回評価をさせていただく事になった松岡です。よろしくお願いします。

今回のお題は建物を支持する構造はどのような意味を持つのかというお題でした。お題は自分自身の構造に対する意識を示すという意味で非常に難しかったと思います。そして評者の僕にも非常に困難でした。

今回の評者の二人は神山君を選んでいるので僕は違うところから探してみたいと思います。そこで目に留ったのは岡君と小森君でした。
 
まず岡君は理にかなったカタチでありながら、その禁欲的な姿が美を生む様なものを「見える構造美」、役割を果たしつつも隠された構造を持つ建築を「見えない構造美」を説明してくれた。そしてその後に2つの構造美の中間的な意味合いが強い建築を「見せる構造美」の3つの要素について説明がありました。分かりやすく頷けるものであったのですが、3つ目の「見せる構造美」についての展開がもうちょっと欲しかったような気がします。

次に小森君は「構造は収束」という意見でみんなより論点の幅が広く、そしてモダニズム期のデザインの方向性についての論に関しては収束していたと思います。僕の意見として構造は合理的でなくてはならないものだと思いますが、現代に置き換えて考えてみると構造に関してはその拡がりを感じるような気がしますがいつかは小森君が言うようにそれらも白骨化してしまうのかもしれません。

余談ですが、ちなみに僕は究極の合理性を組み合わされて作られた工業地帯の工場建築の構造美が大好きです。そこは白骨化した地帯であるにも関わらず何か不思議な魅力があると思います。

ということで松岡賞は小森君に差し上げたいと思います。

sakaushi:

今回は皆結構面白かった。そこで僕も書いてみた。どうだろうか?

トピックセンテンス:私は力の流れを感じさせない構造を望み、それは坪井善勝がその昔言った「構造は合理の近傍に存在する」という定義の読み替えの内にあると考えている。

起:坪井善勝は「構造は合理の近傍にある」と言ったそうである。この言葉は憎らしいくらい構造の全貌を言い当てている。つまり構造が合理性の追求の上にあることは論を待たないとしてもそれは十分条件ではないということである。

承:十分ではないとはもちろん意匠との葛藤の中で構造の合理性を二の次にせざるを得ない場面もあるということを意味する。そしてそれは坪井の経験がそういわせているのである。丹下健三の代々木体育館の構造設計者であった坪井は丹下の意匠を見ながら構造的合理性だけではあの形にはならないことが分かっていた。しかし丹下の意匠を優先させ、多少の合理との不整合を許容しながら、そして合理から大幅にずれることもなくその近傍をさまよったのである。

転:ところで青木淳は私と最も構造への距離のとり方が近い建築家のように思われる。彼はこう言う「力の流れが分かるような建築は作らない」。この言葉は必ずしも「構造を見せる建物を作らない」と言っているのではない。いや私はその真偽を実は知らない。私は青木のこの言葉を飲み会の席でふと耳にしただけだからである。だから青木の真意は置いておいて、この言葉だけを頂戴して自分の解釈を加えてみよう。それはむしろ構造が見えていたとしても、そこに力が流れているように感じられるものは作らないということである。それは言い換えると力の流れていないように感じられる構造を作るということである。それは人間が感情移入できないような構造であろう。人間の建築構造への感情移入はヴェルフリンの『建築心理学』に言われるとおり建築構造と人間の骨格との相同性に端を発するものである。細い柱を見ながら細い脚を想定してそこに乗っかる建築の重さを柱に感じてしまうということである。であるならば感情移入しにくい構造とは人間の骨格とは異なるあり方なのである。それはつまり骨と肉というようなあり方ではない。そういう分離の無い構造である。動物なら脊椎動物ではなくヒトデやイソギンヤク。植物なら木ではなくみかんやキャベツのようなものかもしれない。もちろんこれはリテラルな形を言っているのではなく概念モデルである。

結:さてこうした考え方は果たして構造の合理性とどう調停し得るのであろうか?これらが自然の産物であるが故に合理であるというような言い方は話の核心をうやむやにするだけである。ここで重要なのはこの問いが突きつけている構造における合理とは何かという問題である。実は我々は合理という言葉を極めて曖昧に使い続けいている。経済性なのか?簡明性なのか?部材特性と形式の整合性なのか?実は合理には多くの側面があるはずなのである。そしてその中で我々が現在はずせないのは経済性である。その意味で合理性とは経済性と言い換えたほうが分かりやすい。そして合理を経済性に特化して考えるとき。我々は構造がとても自由になるのを感じる。単一構造にこだわる必要は無い。ハイブリッドでもいい。均等である必要も無い、ランダムでも良い。ただ単に使った材料分だけ力を伝えればいいのである。そう考えるとき我々はイソギンチャクもキャベツもこの合理の近傍に置くことが可能に思われてくるはずである。そしてその日はそう遠くないこともまた思考のうちに垣間見えるのではないだろうか。

sakaushi:

今回は皆結構面白かった。そこで僕も書いてみた。どうだろうか?

トピックセンテンス:私は力の流れを感じさせない構造を望み、それは坪井善勝がその昔言った「構造は合理の近傍に存在する」という定義の読み替えの内にあると考えている。

起:坪井善勝は「構造は合理の近傍にある」と言ったそうである。この言葉は憎らしいくらい構造の全貌を言い当てている。つまり構造が合理性の追求の上にあることは論を待たないとしてもそれは十分条件ではないということである。

承:十分ではないとはもちろん意匠との葛藤の中で構造の合理性を二の次にせざるを得ない場面もあるということを意味する。そしてそれは坪井の経験がそういわせているのである。丹下健三の代々木体育館の構造設計者であった坪井は丹下の意匠を見ながら構造的合理性だけではあの形にはならないことが分かっていた。しかし丹下の意匠を優先させ、多少の合理との不整合を許容しながら、そして合理から大幅にずれることもなくその近傍をさまよったのである。

転:ところで青木淳は私と最も構造への距離のとり方が近い建築家のように思われる。彼はこう言う「力の流れが分かるような建築は作らない」。この言葉は必ずしも「構造を見せる建物を作らない」と言っているのではない。いや私はその真偽を実は知らない。私は青木のこの言葉を飲み会の席でふと耳にしただけだからである。だから青木の真意は置いておいて、この言葉だけを頂戴して自分の解釈を加えてみよう。それはむしろ構造が見えていたとしても、そこに力が流れているように感じられるものは作らないということである。それは言い換えると力の流れていないように感じられる構造を作るということである。それは人間が感情移入できないような構造であろう。人間の建築構造への感情移入はヴェルフリンの『建築心理学』に言われるとおり建築構造と人間の骨格との相同性に端を発するものである。細い柱を見ながら細い脚を想定してそこに乗っかる建築の重さを柱に感じてしまうということである。であるならば感情移入しにくい構造とは人間の骨格とは異なるあり方なのである。それはつまり骨と肉というようなあり方ではない。そういう分離の無い構造である。動物なら脊椎動物ではなくヒトデやイソギンヤク。植物なら木ではなくみかんやキャベツのようなものかもしれない。もちろんこれはリテラルな形を言っているのではなく概念モデルである。

結:さてこうした考え方は果たして構造の合理性とどう調停し得るのであろうか?これらが自然の産物であるが故に合理であるというような言い方は話の核心をうやむやにするだけである。ここで重要なのはこの問いが突きつけている構造における合理とは何かという問題である。実は我々は合理という言葉を極めて曖昧に使い続けいている。経済性なのか?簡明性なのか?部材特性と形式の整合性なのか?実は合理には多くの側面があるはずなのである。そしてその中で我々が現在はずせないのは経済性である。その意味で合理性とは経済性と言い換えたほうが分かりやすい。そして合理を経済性に特化して考えるとき。我々は構造がとても自由になるのを感じる。単一構造にこだわる必要は無い。ハイブリッドでもいい。均等である必要も無い、ランダムでも良い。ただ単に使った材料分だけ力を伝えればいいのである。そう考えるとき我々はイソギンチャクもキャベツもこの合理の近傍に置くことが可能に思われてくるはずである。そしてその日はそう遠くないこともまた思考のうちに垣間見えるのではないだろうか。

波多野貴壽:

波多野貴壽

今回評価させていただくことになりました。よろしくお願いします。

普段見えない場所が見えるようになっている建築(透明感のある建築)を考えていくと、建物の構造が見えるものが多いと感じます。例えば、ガラスの内側にある細い柱や、ガラスの外側に木のような異様な構造体のみえる建物です。建物の外からガラスを通して柱を見るとき、柱は際立って見え透明感は、建物の構造の美しさを際立たせて表現していると考えていました。

「透明建築のもたらすものは建築を体験する側の視点の固定である。」
平岩君の言葉ですが、とても納得させられました。例として上げていた、ポンピドゥーセンターを考えると、たしかに配管にばかり目がいってしまう。平岩君が言うように、見る側の視点を固定して、ここを見なさいと言っているように感じさせられます。

私が考えていたのは、構造を見せたい建物で、構造を見なさいという設計者の考えにまんまとはまっていたのかな、と思います。それに気づかせてくれた平岩君、あなたに波多野賞を差し上げたいと思います。
今回、波多野賞を差し上げるのは平岩宏樹氏です。

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2007年07月09日 17:43に投稿されたエントリーのページです。

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