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言葉と建築

信州大学工学部社会開発工学科:大学院修士課程 2006年冬

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第14講-2 使用者 - user

1、Lefebvre、H

使用者の空間は_生きられている_のである──表象化されるものではないのだ彼の考えによれば、「使用者」というカテゴリーは、構成員から空間の生きられた経験を奪いとってきた現代社会が、その空間の居住者たちをも抽象概念に転換することで、彼らを自己認識さえできなくさせるという更なる皮肉を成し遂げた仕掛けであった。ルフェーヴルの見解は、「使用者」に対する攻撃としてもっとも早いもののひとつである。とは言っても、ルフェーヴルにとって、「使用」と「使用者」は決して完全に否定的な概念ではなかった──実際、彼が最終的に願っていたことは、使用者が空間を専有し我が物にするための手段を回復するのを目にすることだった。

 

2、Hertzberger, H

機能的な決定論に抗う「使用」の解放力に関する類似した見解は、ヘルツベルハーが一九六〇年代初期以降に著したものの中に見ることができる。「使用者」は、ヘルツベルハーの論説の中で繰り返し用いられる用語である。建築のそもそもの目的とは、使用者に居住者となることを可能にさせること。つまり「使用者のために……各部分、各空間をどのように使いたいかということを自ら決定することができる自由」を作り出すことだと彼が考えていることは明らかである。

しかしながら、この極めて特殊で肯定的な意味での使用者が、広く通用するようになるのは一九九〇年代に入ってからであった。それまでは、「使用者」に関心が集まる最も一般的な理由は、設計を進める上で頼ることができる情報供給源としてであった。

 

3、スウェインの三つの目的 ?設計の情報源としての使用者

第一に、スウェインは他の多くの建築家と同じように、使用者の要望を分析することが新しい建築的解法──慣習的な建築計画あるいは建築公式から解放された真に「モダン」な建築の一事例を導くと信じていた。

第二に、「使用者」という用語を選ぶことは、機能主義パラダイムの延長上で理解されうるということがある──もしある関係性が建物と社会的振る舞いの間に存在すると言われるのなら、建物によって影響を受けるとされる人々を表す言葉が必要になる。「使用者」という言葉はこの必要性を満たし、いわば機能主義の方程式における第二の変数を提供する。そのために「使用者」は機能主義的規範の結果として見られることがあるのだ──その「使用者」に対する不満の中にはこの規範が孕む欠点から生じるものも存在するのである。

第三の目的は、建築家という職業にとって驚くほど有利で幸運な時代における彼らの一連の信念体系を維持することにあった。第二次世界大戦後の二十年間は、西欧諸国では福祉国家が発展し、アメリカでも史上もっとも福祉国家的な政策が発展した時期であった。富の所有権を大々的に再分配することなしに資本と労働の関係を安定化させるよう意図された政策の内部で、建築は西欧諸国の政府による戦略の重要な一部分として広く採用された。それは単に新しい学校、住宅、病院を提供すればよいという問題ではなく、これらの建物を占有する人々が社会の他のメンバー全員と「同等の社会的価値」これらの建物を占有する人々が社会の他のメンバー全員と「同等の社会的価値」をもっていると確信できるようなやり方で供給することが必要であった。実行においては異常なほどの自由を与えられながらも、建築家に課せられた使命とは──どうしても避けることのできない社会的な差異に直面しながら──平等社会に参画している感覚を促す建物を創り上げることであった。

 

4、公共建築と使用者

一九五〇年代と六〇年代に「使用者」という言葉が用いられた理由は、部分的には以下の二点だったと指摘できよう。ひとつは、建築家自身の信念体系を満足させること、つまり実際は国家のために働いていた一方で、恵まれない階級のために働いているという彼らの主張を正当化することであった。もう一つは、福祉国家的な民主主義の中で社会的、経済的平等へと邁進する社会の出現を提供する手段として、建築が特別で独特な地位を占めることを可能にすることであった。しかし、現実には社会的、経済的格差は存在し続けたのである。 「使用者」と「使用者の要望」に対する関心が薄れていったのは、一九八〇年代に公共受注が減少したのと軌を一にする。「使用者」という言葉がもはや建築家にとって価値あるものではなくなっただけでなく、建築家の社会的な権威が減退するにつれて、「使用者」は現実的な脅威、つまり、建築家の意図を挫く管理不可能な無秩序を擬人化したものとなったのである。

 おそらく、「使用者」という言葉に対する不満のもう一つの理由は、それが人々の建築作品への関係を性格づける上で不十分なやり方だったことにあるのだろう。例えば誰も彫刻作品を「使う」と語る者はいない。しかし建築では、いまだにそれを用いる人々との関係を語るよりよい表現がないのだ。ある最近の本では、「使用者」という言葉を「積極的な行為や、意図とずれた使用の可能性をも示唆するので、占有者、占拠者、居住者といった言葉に比べると……より適切的な用語である」(Hill, 1998, p.3)として再評価した。一九九〇年代末までには、「使用者」は恵まれない人々や抑圧された人々という含意をもはや失ってしまい、建築家たちが自らの仕事を批評する手段となったようである