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付―2お題

言語学には語用論という分野がある。それは言葉の意味が話者のおかれている状況や文脈、あるいは誰が話しているか、誰に話しているかでその意味が変わるというようなことを分析する学問である。つまり僕が学生に「あほ」というのと学生が僕に「あほ」というのではその意味内容はかなり違うでしょう?僕が言う時は「おいおい」くらいの意味だけれど、学生が僕に言う時はかなり憎しみがこもっているだろうねえ。というように同じ「あ」と「ほ」で構成された音声がこれだけ意味の差を生む。同じようなことを立体物で考えて欲しい。同じ材料を使った二つの違うものが全然違うように見えるとか感じられるとか意味を持つ。そういう例を探してきて説明して欲しい。さてよく考えてくれよな。さあコメントが9回に満たない人は今日が最後のチャンスだよ?9回に満たないとは8回だと不合格という意味だからね。さて今日のお題の講評は、坂牛研究室m1の田中君にやってもらおう。お題を出すのが遅れたので締め切りは来週の月曜日とする。

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同じ材料であるのに全然違ったものになる例として、私はドアを挙げたい。
木製のまったく同じドアがあるとする。それが押して入るのか引いて入るのかによってその空間は全く違うものとなる。おして入る部屋だと、入る動作がスムーズに行えるが、ドアの向こうに人がいると驚かせてしまう。反対に引き戸だと開ける時に体の重心を後ろにしなければならずスムーズに行える動作とはいえない。それぞれの利点や欠点を考えながらどちらかに選択しなければならない。
このように、同じ色、同じ形、同じ配置でもドアひとつでこんなに性質や機能が異なるということは、ひとつの選択が本当に重要なものとなるのではないか。
何回も行われていく取捨選択により、最終的に建築はつくりあげられる。そのひとつひとつが重要な要素になっているのだと認識せざるを得ない。建築というスケールを改めて大きいなと感じた。

同じ材料であるのに全く異なるものになる例として、グラスウールを挙げる。
グラスウールは断熱性能に優れ、切断や曲げなど自由に加工することができる。また、耐火性能も高い。そのため、建築において断熱材として広く用いられている。一方で、吸音効果もあるため住宅の天井裏に用いられたり、病院やホテルの個室、放送室やスタジオに用いられたりもしている。
このように同じグラスウールでも異なる性質を持つため、建築において使用される場面も変わってくる。今回グラスウールを調べて、初めは異なるもので作られていると思っていた断熱材と吸音材が実は同じ材料からできていることに驚いた。今後、今ある材料から、また新たな材料からこのように同じ材料から異なる用途で使用することができる物が生まれていけば、建築の幅が無限に広がていくのではないかと思う。

 私は今回の題の例として本とノートを取り上げる。
 当然だが、本もノートも表紙になる厚紙で薄い紙を閉じただけの同じ素材から成るものである。ただ、違う点は、本には既に絵や文字が書かれているのに対し、ノートには何も書かれていないということである。(物によってはグリッドがあるが今回は重要ではないので考えない。)
 この差異はとても大きい。そこに文字(文章)があるだけで、それは情報の発信源となり、著作権等も発生してくる。一方そこに文字がない場合、情報の発信源とはなり得ないが、メモをとる道具となる。そしてそこには、いずれ情報源になりえるという可能性もある。
 このように説明すると、「ノートは本の前段階であるだけで本に劣る。結局は同じもの。」ととらえられてしまうかもしれない。しかし一概にそうとは言えない。ノートには自分の考えを書く十分なスペースがあるのに対し、本にほない。ノートは決して本で代用できるものではないのである。ゆえに、違う別のものと言える。
 このように同じ材料・素材から構成されているモノであっても、絵や文字があるかないかという違いだけで、そのものの持つ用途・意味が変わり、別のものになるのである。

同じ材料を使った二つの違うものが全然違うように見えるとか感じられる例として私は窓を挙げる。外部に面した窓と部屋同士をつなぐ窓である。同じガラスでできた外窓と内窓があるとする。正確にはガラスの厚さとか、重ねてあるガラスの枚数とかの違いはあるかもしれないが、基本的には同じ素材のものである。
まず視界について考えてみる。外窓を通して見える景色は外の広い景色がたいていであろう。その地域の環境によって海や山が見えるとか、隣のうちの壁しか見えないとかいろいろだとは思うが。それに対し内窓は、隣の部屋の様子が見える。景色というよりは隣で誰が何をしているかが見える。
次にそれぞれの役割について考えてみる。外窓の役割は、先ほど挙げた景観、あと換気や採光、防音などがあげられる。どれも建築にはなくてはならない役割である。それに対し内窓の役割は、先ほど挙げた隣の様子を感じられる。それぐらいだろうか。採光や防音が少しはあるかもしれないが外窓ほど大きな役割を果たしてはいないと感じる。
以上のように同じ素材でできた窓でもその内側と外側が何に面しているかによってその性質が変わってくる。特に建築にとっての重要度が大きく変わってくる。今回このテーマで書いていて内窓はこんなに重要じゃないのか?と不思議に思いながら書いていた。単に私が知らないだけかもしれないが、内窓をもっと工夫することにより新しい建築の形ができるのかもしれないと感じた。

 今回のお題に適切かどうかわかりませんが、私はガラス張りの建物を例に挙げたいと思います。
 過去に私が見たことのある建物ですが、汐留の電通本社ビルのような無機質なガラス張りと、名古屋のモード学園のようなデザイン性の高いガラス張りを思い浮かべてください。どちらも全面的にガラスを使用したファサードですが、受ける印象は全く違うと思います。
 前者は規則正しくガラスが並び、とても堅苦しい感じがしました。その印象をオフィスビルという役割の表現に利用し、見事に特性を生かしています。後者はひとつひとつ形の違うトラスが不規則さを生み出していて、自由でおしゃれな印象を受けました。こちらもその特性を専門学校というクリエイティブな場を表すことに利用しています。
 このように同じ材質のファサードをもつ建物でも、その材料の形を変えることで違った顔を持たせることができます。これを利用すれば無限の表現方法があるのではないかと思いました。

私は直接目に入る建物の化粧材のサイズについて考えたいと思います。
青木淳さんの作品の中に「GO-SEES HIROO」という写真スタジオがあります。この建物の化粧材はどれも巨大でしかし小口が通常でスケール感がなくなる。エレベーターの内部の壁、ボタンまで通常の4倍はあろうかという、非日常感であふれているまるで不思議の国のアリスの世界のような建物。
 では私たちが持つスケール感とは何が基準となってそれの大小を認識するのだろうか?私たちがいつも建物の大きさを正確に比較できるのは化粧材のサイズがある程度限られているという前提があるからであって、もしなければ感覚では建物をうまく比較できなかったのではないだろうか?
コストがかさんで現実的ではないが、その制限から私たちが解放されたらより細かに表現したい空間を造ることができるだろう。しかしこれも比較する対象(中心)がだれでも共通のものであるという絶対的な前提があるからこそできることだと思います。
 

 ヒトというのは卑怯だろうか。ヒトはヒト科・ヒト属・ヒト種に属する同じ生物の一種であり、客観的にみれば見た目は同じである。本来ならば一人一人は区別されないし、できないものであると考えられる。
 しかしながら、ヒト同士では見慣れた「型」に近いヒトは区別することができる。それは一種のプロトタイプのようなものを知っていて、無意識にそれとの特徴の違いを感知するからではないだろうか。日本人で言えば、鼻はこう低くて、目がこう茶色くて、髪がこうで……、というイメージで区別しているのではないかということである。
 では、全てのヒトを区別できるのかというとそうではない。よくみる型から離れると全く同じ顔に見えてしまい、わかるのは背の高さの違いといったことだけである。だからこそ人種や国といった大まかな概念をつくり、ヒトを区別・分類しているのである。
 だがたしかに同じヒトである二人は違う人間である。それは上記のような例があるため、特に身近な人間で考えることしかできないのだが、たしかに違って感じる。人柄といった中身の部分が入ってくると、それは特に違って感じるし、外見も詳細に比較すれば大きく異なっている。ヒトを建築に置き換えても同じことが言えるのではないか。「人種」もあれば、「型」もある。

 今回私は階段を例としてあげる。階段は使われる材料を同じものとして考えても、角度や段数、幅、階段下があるかないか、などによって異なる姿を見せる。
 階段が印象的な建物がある。藤本壮介によって設計されたHouse Hである。もちろんどこの住宅にもありそうな階段もあるのだが、私がとても印象に残った階段はどこにもつながらない階段があるということだ。実際何のためあるのか理解しきれていないのだが、昇降するだけでない、他の階段とは違った意味を持つ特別な階段のように感じる。同じような階段が同じ建物の中に幾つか存在しているにも関わらず、ただどこにもつながっていないということだけで、こんなにも感じ方、見え方が変わるのかと思った。
 日常の中に何気なく存在するものは沢山あるが、それらは見方、意味の与え方、使い方によって全く違ったものに見える。これは私の平凡な日常生活を楽しいものにしてくれるかもしれない。建築においても空間にどのような意味を与えるによって見え方は全く変わってくると思う。

同じ材料を見たり聞いたりでも、その材料が自分の中でどのランク、意味になるかはひとによります。今回私はそのギャップを感じた場面を例にしたいと思います。工学部キャンパスと長野駅の距離についてを考えます。距離というものは数値で表されます。キャンパスから駅までだいたい1キロメートル、といったところでしょうか。この1キロメートルというのはだれにとっても1キロメートルであるというのは当然のことです。これが同じ材料に当てはまります。これがどう違ったものになるかというのは1キロメートルが人によって長く感じる距離なのか、短く感じる距離なのか、です。つまり工学部キャンパスを、駅からすぐ、と説明する人も存在し、一方で、駅からだいぶ歩く、と説明する人もいるということです。また距離の問題だけでなく温度、時間などでも同じことがいえます。これらの共通点はやはり同じ材料というのが、数値化されてはいて、そこからその数値を自分の中で長い、短い、暑い、寒いと評価して人により意味が違ってくるという点です。
今回の私のあげた例は具体的な物ではないので少しお題とずれてしまいました。この例で挙がっている違いというのは個々の習慣、経験、性格から来るものです。数値の段階では同じ材料ですが、人は無意識に評価をします。そう考えるとそもそも「同じ材料」は存在しないのではないでしょうか。

同じ材料でありながら、二つのものが全然違うものに見えたり感じたりするもの。違いをもたらす要因は様々ではあるが、まず一番は見た目の違いが挙げられるのではないか。私は眼で見た情報ほど印象に残るものはないと思う。そのような例として、建物の屋根を挙げたいと思う。
二つの建物があり、ともに瓦葺きの屋根だとする。ただ、切妻の屋根かそれとも入母屋なのかという違いだけあるとする。このような状況でまず間違いなく皆さんは異なった印象を受けるに違いない。
形が異なるだけで随分と受ける印象が違ってくる。それは、建築においてとても重要な要素になってくる。やはり、見た目が美しかったり、かっこいいものに人はどうしても惹かれる。
「人は見た目が9割」という本があるが、人は別としても、「見た目が9割」というのはあながち間違いではないのかなと感じた。テーマに合っていないかもしれませんが、お許しを。

(同じ材料を使った2つの物の違い、ではなく、同じ物に対する受け取り方の違いを述べてしまって済みません。)

例えば電話。 電話は、掛かって来る相手によっては嬉しい媒体であったり、恐怖の媒体であったりする。
愛する人がいて、会えない時、つい携帯電話に目をやるという経験はないだろうか。 あるいは家に居て、固定電話にかかってくる押し売り電話に腹を立て、投げつけるように受話器を置いたことはないだろうか。 電話はただの電話なのに、撫でられたり、投げられたり。

例えば「6畳一間の小さな下宿」。 裕福な人から見たら窮屈で侘しい庵だが、ここで希望の日々を営む者にとっては、壁は必ずしも6畳で仕切られてはおらず、どこまでも広がる空間と感じられる。 「2畳の茶室」と同等化するのはおこがましいが、近いものがある。

このように同じものが、人によって異なって感じたり、同じ人でも状況によって異なった印象を持つということは往々にしてある。 というか、この世の中の全てが、そうなのではないか。 それは見たり感じたりする対象物よりも、それを見る者、受け取る者が主役となっているからではないだろうか。

このコメントコーナーも最後となると一抹の寂しさがよぎる。 時間の無い中、かなり大変な作業ではあったが、取り組むだけの価値はあった。 設計製図で50数名分のアイデアが出るように、このコーナーでも全く違った考え方があったりして面白かった。 また、課題は出しっぱなしという授業も多い中、先生やTAの方々が、学生のコメントをきちんと読み批評して下さったことが続けられた要因ではないかと感謝したい。

高橋さんがおっしゃる通り。このブログ的コメントを発明した(大袈裟な!)時は、一方通行レポートではなく、先ずは同じ知能を持った同じくらいの年の人間が何を考えているのか?何を考えられるのか?先ずはそれを知ることが重要であると思ったのです。つまり自分の考えを相対化することの重要性を知って欲しい思いました。皆さんが建築の別の講義で書いている殆どのレポートやテストは多分正解というものがあるはずで、そういう分野においては自分の考えを相対化する必要は少ないのです。でも建築のデザインは違うのです。正解なんてありゃしない、何をするべきかなんて言うこともひとそれぞれ。でもそこにはある妥当性みたいなものがあり、それを知るには自分の考えが世の中のどの辺に位置づけられるのかを知らないといけないわけです。そのためには先ず人がどういう考えを持っているのかを知ることが重要なのです。

次に、そうやって相対化された意見がどんな風に受け取られるかを知る必要があります。だからなるべく書いたことに反応しようと思っています。なかなかできず、院生に応援頼んだりしていますが、彼らは大学院でこう言うブログの更に高級版で鍛えられた人間たちです。よって僕の評価と大きくずれることなく正確な評を書いてくれました。人間成長するものです。

最後の評は田中君が書いてくれるでしょう。これでこのブログ批評も終りですが、皆かなり実力が付いたと思います。因みにこのブログやらホームページのメンテナンスは僕の教え子に頼んでいます。その費用は僕が持ち出しでやっています。大学の公金は一切使っていません。だからこそ、君たちが成長しないならこんなことはさっさとやめようと思っているのですが、未だ続ける価値はありそうです。

御苦労さま。

まだ時間はありますから、書いていない人は書き込んでくださいね。待ってます。

同じ材料を使った2つの違うものが全く違う意味を持つという例としては木材もそうだと思う。木材は様々なものを作るとき使われる。木造住宅の柱などの材料になったり、机や棚などの家具、木のおもちゃなど様々なものなったりする。木造住宅の柱は家を支えるという役割を持ち、机や棚などの家具は人の生活を助け便利にして、木のおもちゃは子供を楽しませる。このように、木という材料からできたものは多くの違う意味を持っていると思う。同じ材料から生まれた2つの違うものというのは、そういう役割を果たせるように人間がひとつの材料から様々なものを作り出すという知恵からできていると思う。年月がたてば、同じ材料から2つ3つと違う意味を持つものが増えていき、その数こそが人間の進歩のひとつの見方だと思う。だから、1つの材料からできた2つの違うものがあるのは当然で世の中には数多くあると思う。逆に、1つの材料から1つのものしか作られていないような場合は、そこにまだまだ進歩する可能性があると思う。

同じ材料を使いまったく別のものに見えるものは、たくさんあると思う。それはたとえ同一人物が見ても感じることだと思う。その時の気分や体調によって同じものを見ても全く違ったものに感じるかもしれない。私は同じ材料を使っているのに違ったものに見えるものとして、料理をあげたい。

料理はたとえ同じ材料を使ったとしても味も見た目も全く同じようになることはほとんど有り得ない。なぜなら作り手が違えば確実にならないし、同じ人が作ってもそのときの感覚や気分で味や見た目は大幅に違ったものとなるだろう。

これは建物にもいえると思う。同じ材料を使おうとも作り手が違えば出来上がったものも全く違ったものになるのだから。

ガラスとうものは私たちの生活の中で必要不可欠であり多種多様につかわれているがそのなかでも水族館などの水槽に使われているガラスとプライバシーの確保などにつかわられている曇りガラスを今回同じ材料を使った全然違う意味をもつものとして例にあげたいと思う。
前者の水槽などに使われているガラスというのは、そのガラスを通して中のものを観賞するために使われるものであり本来は目前にすることができない水の中や土の中などを「見せる」ことができるものであり、その一方で後者は、もともとそこになかったところに曇りガラスというものを置くことによって光などはとりいれながらも視線を「遮る」ことができるものである。
このように同じ材料を使ってはいるが用途としては「見せる」ためと「遮る」ためという全く正反対ものとして使われている。
普段は何気なしにみていたものだがこうやって考えてみると奥が深くおもしろさを感じた。

私は、石というどこにでもある身近な材料を例に挙げて考えてみたいと思う。

石が使われてるものとして、例えば庭園がある。中学の修学旅行で龍安寺に行ったが、そこにとても素晴らしい庭園があった。15個の石が配置されていてそのすべてが見える場所は一つしかないという面白い並びだ。そこの石には庭園ならではの落ち着きがあると思う。

また、他にも石像などがある。石像で自分が一番最初に思いつくものはイースター島のモアイ像だ。これは大きいものとなると高さ20m質量90tにもなるらしい。私はこれが何のために存在しているのかよく知らない。しかしとても神秘的で人をひきつけるような印象を受ける。

このように石は使い方によって人にさまざまな印象を与えると思った。

僕は段ボールと障子紙について書きます。これら2つはどちらも紙(元をたどると木ですが)からできています。しかし段ボールというと無骨な感じがしますが一方障子紙は繊細な感じがします。これには切り口の精度や色、薄さなどから来るものかと思います。建築物でいえば壁紙なども紙でできていますが、段ボールと障子紙程ではないですがベージュよりの壁紙と明るい白とではだいぶ感じが違うと思うし同じ色でも模様の大きさや形などによって部屋の感じは変わってくると思います。
そう考えると部屋のイメージはフローリングやドアなどそれ自体は少しの明るさや色の違いかもしれないけれどそういったものが集まって決められているわけで、部屋の間取りや大きさも大事だけどそういった細かい設定も同じくらい重要だと思いました。

 同じ材料から、全然違う意味を持つものが生まれる例として、動物の毛皮を思いついた。人はウサギの毛やらトラの毛やらを、おしゃれとして嬉しそうに身にまとっていたりするが、動物たちにとって毛皮は、持って生まれた自分のからだの一部に過ぎない。生きていく上で必要な機能に他ならない。人はそんな動物たちから毛皮を剥ぎ取って、着飾ってみたり、ちょっと自慢したりしているが、別にウサギになりたいわけでもトラになりたいわけでもない。つまり、動物たちとは完全に違う意味で毛皮を身にまとっているのだ。
 そうなると、毛皮を身にまとった人間を見て、おしゃれだと思っているのは人間だけで、動物たちはいかにも滑稽だと笑っているかもしれない。つまり、伝えたいことを理解してもらうには、ある程度同じ価値観を共有している必要があるということである。とはいうものの、人間と動物が価値観を共有するのはかなり難しい。動物は話せないからである。(話ができたとしても、毛皮を剥ぎ取ろうとした時点でもう嫌われそうである。)じゃあ話のできる人間同士はどうか。同じ言語をしゃべる日本人同士でさえ、完璧に価値観を共有することなどできていないではないか。
 毛皮を身にまとうことがおしゃれだという人もいれば、どこが?という人もいる。それは、各々のなかにある感覚がものを言っていて、どうしようもないと言えばどうしようもない。ただ、その感覚というものが、決して持って生まれたものではなく、人生における様々な場面を経験してきたことによって作られたものであるということに、大きな希望を感じるのだ。これから先、もっといろんな場面に出くわすことで、その感覚は変化し、広がり、研ぎ澄まされていくのだ。
 伝えることの中核にはいつもその感覚がある。だからそれは自分の中で大切にされなくてはいけない。自分の感覚を大切にするということは、自分の感覚だけを強く信じることではない。新たな感覚に出会ったとき、それときちんと向き合って、自分のものにしていくことだ。

私は共通の材料として「お米」を例に挙げる。

まず私たち日本人の主食として毎日のように食べられているごはん、ごはんが食卓にあがるのは自然なことであり、ごはんが炊けるときのいいにおい、白い湯気は食欲をそそる。

一方、食用にできないお米などは、のり(接着剤)として加工されるものもある。
もし、こののりが、食事の席でテーブルに乗っていたらあまりいい気持がしないし、これを食べるという発想をする人はまずいないだろう。
しかしそのかわり、のりにはごはんにはない機能を持っている。

このように、同じ材料からなるこの2つは、感じ方も、機能も全く異なり、一見同じ材料からできていることもわからない。
工夫次第では、1つのものからいくつもの機能を生み出すことができるのではないか。これは様々なことに応用することができると感じた。

08T7019B:近藤隆太

 建築家が設計するという作業は無数に存在する選択を迫られることといえる。大きさ、素材、色などをその時々に適切と思うものを選び出す作業の積み重ねによって、ようやく一つの建物が建つ。その選択肢としてよく用いられるコンクリートについて取り上げたい。
 個人的な意見ではあるがコンクリートに対して荒々しく粗雑なイメージがあります。それは主にコンクリートブロックなど外にある状態を思い浮かべたものです。そんなコンクリートを内装材に用いたコンクリートの打ちっぱなしではシャープなイメージへと変貌します。
 このようにまったく同じ素材でも場所を選択することによってまったく違った用いられ方をされ。そして、選択とは大切であり、また責任をともなうことを頭に入れて今後の製図の授業も取り組みたいと思いました。

同じ材料で作った物なのに違ったものにかんじられる物として照明器具を例にあげようと思います。
同じ照明器具でも直接照明と間接照明では光の感じかたはまったく違ってきます。例えば普段私たちが講義を受けているような教室では広い空間を中の照明によって明るく全体を照らさなくてはなりません。なので白く明るい蛍光灯を設置されています。そのおかげで私たちは黒板がみやすくノートもとりやすい空間になっています。
逆に間接照明の空間の例としてオシャレなBARを想像してください。僕自身あまりBARのようなとこに行ったことがないのですが何となく明るい感じではなく少しうす暗い空間かなっと思いませんか。けっして明るくはないけれどもオレンジ色の間接照明は人に安心感をあたえてくれます。そんな落ち着いた空間で美味しいお酒をのみながらゆっくりできたら・・・オフィスの課題が終わったら呑みに行こきたいです。
少し話がそれてしまいましたがこのように同じ照明器具でも直接照らすのと間接的に照らすのでは人にまったく違った印象を与えます。

 今回のお題の例として適切かは分からないが、水について書いてみる。
 水は世の中でたくさんのことに使われている。例えばペットボトルに入れられた水がコンビニなどに売っている。人はそれを見てその水は飲み物だと思うのが大半だと思う。そしてのどが渇いている時に飲めばおいしいと感じるだろう。
 それとは違い、水は飲み水だけでなく公園などで噴水にも使われている。常に水が流れ続けているものもあり、特定の時間になったら水が噴射し始め芸術的なものを生み出すものもある。それらを見て、美しいとかきれいとか感じる人はいると思う。飲み水と思う人はほぼいないだろう。
 このように水は使い方が違うだけで与える印象は全然変わってくる。水は様々な使い方をされているので他にもたくさんのいろいろな印象があるだろうと思った。

私は共通の材料として「紙」を挙げます。

ひとえに紙と言っても障子や和紙のように見た目を重視した物もありますが、段ボールのように物を入れたり運んだりする機能を持った物もあります。また、同じ箱でも段ボールのように物を運ぶという機能に特化した物もあれば、お菓子の箱のように見た目にもこだわった物もあります。さらに言えば人が触った時の感触などにも違いが生まれてきます。
このように同じ木というものからできたものだとしても、作り方によって様々な機能を生み出すことができるのではないでしょうか。

同じものでありながら状況によって異なる感じ方をするものとして「刃物」がある。

例えば料理屋でアルバイトしているときに店長から「そこの包丁とって」と言われた時、包丁は便利な調理道具であり従来の使われ方をしているため特に何も感じない。
一方で、ラジオのニュースで「容疑者は包丁を持って・・・」と聞いた時には包丁は犯罪という誤った使われ方をしていて包丁に対して恐怖のようなものを感じる。

また包丁を買う時にも普通の格好をしていれば問題はないが、マスクとサングラスをして「いかにも」みたいな格好をして購入しようとするとレジの店員に不信感を与える。

つまり包丁という同じ道具でありながらそれを取り巻くシチュエーションよって見方が大きく変わってくる。
同じ材料であっても違いがあることはいくらでもあり、その違いを際立たせるのが周りの状況である。したがって建築においても、一部だけを見るのではなく周りとの兼ね合いも考えて設計していくべきだと思う。

 僕は「同じ材料を使った二つの違うものが全然違うように見えるとか感じられるとか意味を持つ」ことに関して、1つの材料に注目して考えるのではなく、その差異を与える場・空間について考えてみました。そこで思いついたのが建物の中と外で、同じものの存在に対する感じ方が全然違うという例が多くあるということです。
 僕はゴキブリやハエといった家の中で目にすることがある生物に対して大きな嫌悪感を持っています。授業中に蜂が飛び込んできたりしたら、もうその蜂ばかりが気になってしょうがなくなるものでした。しかしそれらの生物も、外で見かけた際にはそれほど嫌悪感を抱くことはありません。建物の中ではとてつもなく邪悪に感じられる物体が、外ではそれほどには感じられないというように、中から外へ、逆に外から中へ、という場・空間の変化はその物体の感じ方を変換する機能があるわけです。
 同じように建物の中と外で、同じ材料なのに感じられ方が異なるものを挙げてみます。たとえば公園に置いてあるような、木や鉄で作られたベンチやテーブルを部屋の中に持ち入って使おうとしても、なんだか落ち着きがありません。その逆も然り、教室にあるイスと机を運動場に持って出て席に着いてみてもしっくりこないでしょう。
 このように建物の中であるか外であるかは、物体に対して感じ方の変化を与える重要な要素であるといえます。このような考察をしたことで、建物の中と外を繋ぐ玄関や窓という物の重要性が大きく感じられるのではないでしょうか。

同じ材料だが、違うものになる例として私は木製のスネア(小太鼓)を挙げる。
木胴シェルのスネアには、メイプル、バーチ、マホガニーなど、さまざまな木材で作られたものがあり、それらは当然違う音色を持っている。しかし、たとえ同じ木材を使ったとしても、まったく(完全に)同じ音色を持つスネアを二つ作ることは不可能である。それは、木材そのものが自然の素材だからだ。均一に作れる鉄やアルミなどに対し、木材では、たとえ一本の木から酷似した木目の部分を使ったとしても、同じ性質の音色にはなれど完全に同じものにはならない。
つまり、例えばメイプルのスネアと一区切りに同じ楽器であるとされていても、その中のそれぞれがそれぞれ違うもの、いうならば、すべてがオンリーワンだといえる。
これはスネアなどの楽器に限らず、すべての自然素材でつくられたものにもいえると思う。

建築を考える上で思いつく素材に木材がある。木材は樹木を切り出すことでつくられる。まず樹木と木材について考えたい。樹木と木材は明らかに違う。樹木には枝や葉、皮が付いていて、規則性のない曲線が目につく。木材はそれらがそぎ落とされ直線的だ。それぞれが与える印象はかなり異なる。樹木から見ると木材はシンプルすぎるが使い勝手は良さそうだ。
それを踏まえて今度は角材と丸太を見ていきたい。日本家屋の多くは角材を構造材とした木造だ。つまり角材は日本にはかなり普及していて馴染み深い。丸太材はというと、ログハウスが思い浮かばれる。雨風雪の多い日本ではあまり多くないつくりだ。それぞれ同じ樹木から切り出された材料を使用している。与える印象はどうか。個人的な意見だが、角材を使った家は「生活」を思わせる。一方ログハウスからは、とても野性的で非日常な「自然」を感じる。ログハウスが自然の中にあれば当然だが、住宅地に見られる時も同じ印象を受ける。なぜだろうか。
要因は2つ考えられる。1つは慣れだろう。角材で建てられた家に住み、角材で建てられた家を訪れてきた自分には、「住宅は角材でできている」という考え方がどこかにある。丸太を使った住宅は多くなく、例外として捉えられる。よってログハウスから「生活」というイメージが得られないのだろう。2つ目は素を知っているからである。つまり木材の原料である樹木を連想できるかできないかだ。丸太材は、皮が付いているものやついていないものがあるが、いずれも樹木から枝を落としただけの曲線の多い材料である。使い勝手は悪そうだが、一見複雑な形が樹木を思わせる。これがログハウスから「自然」というイメージを与える要因である。
 考えながら同じ材料でも素をどれだけ残すかによっての印象の違いにかなり影響しているのだと再度強く思わされた。

共通の材料材料として紙をあげたい。
紙で作られた物はたくさんあるが、その中で紙幣を取りあげてみた。
紙幣はもともとただの紙に印刷したものであり、本来ならば何の価値も持たないものである。私たちはそのただの紙を価値のあるものとして持ち歩き、その紙で物を売買しているのである。それは人々の共通の理解と信頼のもとで成り立っていることなのだろう。でなければ、もともと大した額でもない紙が印刷しただけでこんなにも価値が上がるということはないだろう。
このことから、紙という材料1つにしても文字や絵を印刷し、それを共通の通貨として理解してきたことで紙の価値やその紙の持つ意味が変わるのである。

 同じ材料を使った二つのものが違う意味を持つのは珍しいことではありません。要因はその二つのものが使用される場面、(時間、空間)使用する人物との関係、使い方、造り方、形、大きさ等様々です。その例をいくつかあげてみたいと思います。
 まずは雨と雪です。両方とも同じ材料からできていますが、液体と結晶という違いだけで全然違うものになります。雪が降るとき子供やウインタースポーツを楽しむ人が喜びます。雨が降ると農家が喜びます。このように違う価値と意味を持つ同じ材料からできたものは自然の中にあります。
 それに対して人工的なものの例をあげたいと思います。それは陶器です。同じ土からできた陶器ですが様々な種類があります。美術館に置かれているのは美術作品で、台所に置かれているのは食器です。そして庭に置かれている装飾品もあれば植木鉢もあります。二つ以上の違うものになってしまうので、お題と少しずれたと思いますが陶器は形や大きさ、造り方と使い方次第で、違う意味を持つものなのです。
 最後にあげたい例は建築物です。同じ茅葺木造のお寺と民家でも異なるように感じられます。当然ながら人が生活する場所と神がいるとされる場所なので全然違う機能と価値を持っています。このように同じ材料から造られた二つのものには全然違う意味を感じられることがよくあります。建物を設計する側になったときはこのような意味の違いに注意して設計できるよう頑張りたいと思います。


 とても面白い授業でした。どうもありがとうございます。

同じ材料だが、違うものになる例として私は金属を挙げる。
金属は薄く延ばしてパネル状にすれば仕上げ材になるし、H鋼など特定の形にして建物に使用すれば構造体にもなる。
金属はかたくて重そうなニュアンスを与えるものであるが、加工の仕方によっては建物を軽く見せ、近未来的な印象を与えるようにもなり、人々の目を楽しませ、かつ建物を外気から守る物になりえる。
また構造に組み込めば、軽くて強い、建築を陰から支えるものともなりえる。
このように一つの素材を一つの用途として考えず様々な要素ととして建物に取り入れることは大切だと思う。

 みなさん、半期の授業お疲れ様でした。この授業は自分達の代ぐらいまでは、建築のモノサシと呼ばれていました。自分の言葉に置き換え、文章に仕上げたことは、自分の中の基準を作ることに役立っているはずです。この経験が、後々のコンセプトの文章などにもあらわれてきます。これからも自分の中のモノサシの目盛を増やし、磨いて行ってください。


 さて、本題です。何人かがコメントしているように、事例は星の数ほどあると思います。そんな中からただ単に、事例を紹介するだけでは、意味がありません。なので、今回、その事例の中で、「なぜ違うのか」を自分なりの言葉で表現し、「どのようにその考えを利用していくのか」を主張しているかを評価基準としました。

 それをふまえ、今回の田中賞は、風間さんにあげたいと思います。
 風間さんは、「毛皮」を事例にあげ、価値観の違いによって意味が変化するととらえました。そして、最後に価値観をむやみに固めるのではなく、経験を積み重ね、他人の価値観も取り入れ、磨いていくものであると主張しました。この考えは、今回のお題の回答だけでなく、この授業で先生が目指す「自分の相対化」そのものです。授業の最後のコメントとしても良いので、選びました。
 
 
 
 最後に、結構「意味」について、コメントがあったので補足。
 物に対して、何か意味ラベルを張ることは、とても重要なことです。このラベルをはるということに関して、重要な人物の一人にマルセル・デュシャンがいます。この人は、ある展示会に、ただの便器を「泉」という作品名で出品しました。つまり、芸術品というラベルを張ることが芸術になると主張したのです。松本さんの紙幣や、メイさんの陶器と寺の例はまさに、これです。
 一度、デュシャンについて調べてみると面白いとおもいます。

(今さらですが、最後の挨拶も兼ねて投稿させていただきます)

例として「坂」を挙げる。
坂には「下り坂」と「上り坂」が存在する。一つの坂に注目すればこれら二つの坂は同じ一つの斜面からできていると言える。

私の住んでいるアパートは坂の上にあり、大学までの通学路は下り坂である。朝、起き抜けの頭でも、自転車にまたがっていればほとんどペダルを漕ぐことなく学校に着いてしまう。朝が弱い私にとって下り坂は強い味方である。
この坂が上りだとしたらどうだろうか。私は坂が憎らしくなるだろう。果ては、坂の上にある学校にまでその念が及ぶかもしれない。

対象物と話者の置かれている状況が、対象への印象や評価を変えてしまうのは興味深い。意匠への評価はそれの最もたるものだろう。装飾がよしとされた時代、罪とされた時代など相反する価値項目の間を揺れる意匠への評価。講義を通じて、建築を構成する要素にはそのような二項関係が様々あり、評価も様々あると分かった。建築がおかれているそれらの状況を踏まえ、坂牛先生が狙う中庸・合いの子建築の可能性、私も信じてみたくなった。


建築を専攻とする方達の中に混じって講義に参加させて頂き、機械を専攻する自分がどのような立ち位置にいるのか窺い知ることができたのは大きな収穫でした。提案や主張を求められる本講義は、より最適な解を導くことを第一とする機械系の講義には無い新鮮さがありました。また、建築クラスの皆さんの名前しか知らない私は、皆さんのコメントからその主張をもつに至ったバックグラウンドなどを推察するのが楽しかったです。私が本講義を通して坂牛先生や建築クラスの皆さんから受けた刺激の何%を還元することができたか分かりませんが、このコメントで挨拶とさせていただきます。ありがとうございました。

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