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第十講お題

いやいや申し訳ない。今週中にコメントしてくださいと言っておいて、お題を出すのが遅くなった。ということでコメントは今年中ということにする。
さて最後のお話は建築はしゃべるかというものだった。そしてそれは抽象性、具象性という概念に結びつき建築の方法へと繋がる。というものだった。さてそこで今日のお題はあなたに最も語りかけてくれた建築は何か?そしてその建築の姿を抽象、具象という概念を使い説明して欲しい。それでは今年最後のコメントを待っている。

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僕が最も語りかけられたと感じる建築物は横浜のみなとみらいにあるランドマークタワーです。ランドマークタワーは日本一高いタワー棟を中心とするオフィス、ホテル、ショッピングモールを核に、多彩な施設を併設し、魅力ある一つの街を作り出しています。僕はあの建築物を初めて見たとき、「こんな高い建物どうやってつくるのかな」と感じました。たぶん、この時が初めて僕が建築物について考えた時だったと思います。だから、ランドマークタワーは僕に初めて建築というものを教え、語りかけてくれた建築物だと考えます。また、その存在感や雰囲気は、まさに名前の通り、みなとみらい(広く見れば横浜全体)を象徴する建築物であることを語っている気がします。そして、中に入り展望フロアに行った時には、一面さまざまな建築物に埋め尽くされた景色で、僕に建築の幅広さというものを一部ではあったけれど語りかけてくれたと思います。

オアシス21が印象に残っています。まず始めに、噴水が一番上にあることに驚きました。噴水は地上、しかも、公園や庭園の中にあるものだと思っていたからです。しかし実際は、一番てっぺんにあった。さらに、地下か一階か忘れてしまいましたが、水面の影が映る場所、まるで海の中もしくはプールの中の一部を切り取ってきたみたいに、影がゆらゆら揺れる場所は、私を水の中にいるようにさせました。水族館みたいに。水がきれいだなぁと思いました。オアシスという名前のように水を身近に感じることができたし、堪能できる場所でした。
よいお年を。

 僕に最も語りかけてくれたのは、表参道ヒルズです。

表参道というケヤキ並木の自然美を壊さず、高級ブランド店の建物に押し殺されない建物であり、数多の人を引き付け、そして流し留めるということを実現している建物であります。
竣工されてまもなく行ったとき、いつも通りの人の雑踏と話題性の相乗効果でとてつもなく混んでいました。しかし、緩やかな螺旋のスロープと階高6階に相当するアトリウムのおかげで、止まることなく中を見ることができ、人でごった返しているものの、圧迫感を感じさせないことに気付きました。
スロープとアトリウム。オフィスや商業施設においてしばしば用いられていますが、これほどまでにその長所を感じた建築は自分の人生においてなかったです。感銘を受けたことを言葉に表すと


大規模建築物は、大きいであるがゆえに秘めた可能性を持っている


といった類です。高校のときからいつも同潤会アパートを見てきた自分にとって、表参道という場所で受けたそのインパクトは特別なものを感じました。
よいお年を。

自分に最も語りかけてくれた建築は、構造露呈でも挙げたが、実家の事務所部分である。事務所はログハウス風の構造になっており、装飾的なものはないので抽象的であると言えるが、仕上げ材がなく、木材が1つずつ積み重なっている様子が目に見えるので具象的でもあると感じた。抽象的な要素が語ってくれたのは魅せる建築があるということ。建築に興味をもつ前では、住むためのものという程度で見ていたが、友達が事務所部分を見て、かっこいいと言っていたのをきっかけに、魅せる建築もあることに気付き、建築に興味を持ち始めた。具象的な要素が語ってくれたのは、木のもつ温もりのようなものである。自分が小学生の頃から事務所に遊びに行くのが好きで、それは今思うと、木がもつ温もりのようなものが好きだったからだと思う。そういったことも建築に興味をもったきっかけとなっている。そうして実家は自分にいろいろ語ってくれ、自分の建築のルーツとなっている。

自分に最も語りかけてきた建築物は自分の実家です。僕が小学4年生になり、引越するときに実家が建てられました。そのとき僕は家が建てられていくほとんどの工程を見ました。基礎が作られ、柱が立っていき、家の形になっていく。家が出来上がったとき、本当に人の力で家が建つんだなと感動しました。そのときの印象は今でも残っています。僕はその前からじいちゃんの影響で建築が好きだったけど、このとき建築が好きの大きさがドンと増えました。そのときの感動があって僕は今こういう勉強をしているのだと思います。だから自分の実家が一番僕にしゃべりかけていると思います。

前回にも出しましたが、僕は今回の答えにも東京タワーをあげます。
僕は東京タワーを実際に1度しか見たことはありませんが、その1度みただけなのにかなり感動をうけました。どうやってあんなに大きくて高いタワーがたっているのかと。
今回の課題である抽象、具象的概念から説明すると、とても高くそびえる東京タワーそのもの(具象的)をみて、感動した事。これは僕以外にもいろんな人が東京タワーを見て感じた事だと思います。
また、その東京タワーが東京にあるという存在感(抽象的)は、これが東京のシンボルだ、と訴えかけているように思えます。

僕が建築という分野に進んでいなければ、あの東京タワーというものをみてこのように大きな感動を受ける事はなかったと思います。

建築には語りかける事のできる建築、またはそれができない建築があります。前者は自ら主張し、語りかけ答えを教えてくれる建築、そして後者はそれができない建築。つまり、それ自身が自分の意思のようなものを持ち、なおかつそれを伝える手段を持った建物が具象。それとは逆に伝えるのが下手な、または意思そのものを持たず、受け取る側に想像させる建築が抽象であると考えました。
そこで最も語りかけてきた建築として、広島の原爆ドームをあげようと思います。原爆ドームへは高校の修学旅行で初めて行きました。その時すごい衝撃を受けたのを覚えています。戦争はとっくに終わっているのに、その場所だけは時間が止まっているような…。しかしそれを拒むように、平和公園や原爆資料館が立ち並んでいました。原爆ドームは戦争の悲惨さ、つらさ、悲しさなどを強烈にアピールすると同時に、平和に対する強い願いも発しています。その原爆ドームの一番の願いは、現実の悲惨さを伝えることにあります。そのためには抽象化しそれぞれの想像力に任せるよりも、具象化し圧倒的な事実を示すことで、強烈に、そして正確にそれを伝えようとしているのだと思います。

自分に語りかけてくれた建築は、名古屋駅セントラルタワーズ前にあるトヨタ・毎日ビル(ミッドランドスクエア)である。この高層ビルは、建設途中のときからたびたび見る機会があり、いつも見上げていた。
そこでまず抽象とは、不要なものはすべてそぎ落として捨てる。これは、即座に意図を理解することはほぼ不可能なので、他者からの説明か自己解決での理解が必要となり間接的であると考える。それとは逆に、具象とは、捨てることなく像を加えて覆う。これは、見て意図を直接理解しやすいため、直接的であると考える。
この建築について考えると、具象とは建築物の大きさから考える。この建築はセントラルタワーズと同様に超高層ビルである。この大きさというスケールの概念でこの建築を覆うことにより、直接的に、直感的にこの建築がランドマークとしての建築であると感じる。次に、抽象とはこの建築が四角い単純な箱であることから考える。セントラルタワーズに比べても、装飾的なものはないに等しい。のっつるである。しかし、これでは具象で感じたランドマークとしての建築とは結びつかない。そこでこの建築の建つ“場所”についても触れる。先ほども述べたが、この建築はセントラルタワーズの前に立っている。この地区は名古屋の中心地であり、このほかにも数多くのビルが立ち並んでいる。そうすると、具象で感じたランドマークという考えにあいまいさを覚える。この建築一つだけが際立って大きければ、確実にランドマークとしての意図は伝わるのだが、周りに同じくらいのスケールの、しかも以前から既にランドマークとして理解されている建築がある場合、その意図はあいまいとなり、また他の意図が見えてくると考える。そしてその意図とは、人の多い名古屋の中心地にあることによる商業施設の集客力のメリットと駅前にあることによるオフィス施設のメリット、また超高層ビルであるが周辺のビルに比べて装飾がなく単純な箱型であることにより、逆に人々の目を引きランドマークとしての役割も果たすという意図を感じた。
この意図は、直感でもなく、理解しにくくもなく、考えたらなんとなく想像できるものであった。そして、考えているときに建築は語りかけてくれているのだと感じる。したがって、しゃべる建築とは、この建築のように抽象と具象のどちらも持ち合わせた建築であると思う。

法隆寺
小学校の修学旅行で奈良に行ったとき初めて法隆寺を見たのですが、まず法隆寺の大きさ(具象)、そして法隆寺に使われている木から伝わってきた歴史の重みようなもの(抽象)に感動しました。

小学生でそのときバスガイドの人が話していたことはあまり憶えていないのですが、それを見たときの衝撃は今でも憶えています。

僕に最も語りかけてくれたのはスケルトンの講義でも挙げた旧横田家です。二年生になって製図の授業やそのほかの専門の授業を習い始めて建築のことをいろいろと考えるようになりました。一気に建築だらけの生活になったためか、建築のことをあまり考えたくなかったし、少し建築のことが嫌いになったりしました。でもこの建築物と出会ってそういった考えが一気に消えました。決して有名な建築物ではないけれど今尚昔のままの姿で建っていて建築のすごさや力強さ、緻密さといったものを感じ取ることができました。柱や梁、天井裏など一部分を見ると具体的に長さや厚さ、他の構造とのつながり方など建築の細かい部分がどうなっているかを語りかけてくるし、視点を離して建物全体を把握して見るとその迫力や存在感で漠然と建築の魅力が伝わってきました。抽象的なものが細部のことを語りかけて、具象的なものが漠然と建築が何たるかを語ってきたように思いました。抽象と具象についてうまく言葉にできないけれど僕はこの建築物に確かに語りかけられ励まされました。

今日(正確には昨日ですが)京都に行ってきました。伏見稲荷、北野天満宮、清水寺を回ってきたわけですが、建築的視点からみて印象的だったのは清水寺の『清水の舞台』を支える土台(?)部分です。ほぼ毎年京都に行っているのですが、建築的視点を意識して見るのはこれが初めてでした。
そこで気付いたのは清水寺が具象的であるということ。
清水の舞台は有名だが、見物人にはこの土台も印象的だと思う。やはりあれだけの構造体が露呈していると嫌でも目につくだろう。なのでこの土台は清水寺の象徴的装飾の一つと考えられると思う。
このように構造体というエッセンスなものが同時にその建築の装飾となる場合もあるということを発見できました。

私に語りかけてきたと思う建築は、お台場にあるフジテレビです。
フジテレビは、箱型のビルの中央に球体を持つ建築です。この建築は、一度見たら忘れられない、記憶に残る形をしています。また、この形を見れば、一目でフジテレビであることが分かります。これは、この特殊な形がフジテレビを表している、と言えると思います。
また、中央にある球は、単なる球ではなく、例えば地球であったり、何か別の物を表現しているのではないか、と連想させる力を持っています。
この印象的な形の建築は"ビル=四角い箱"ではない、ということを自分に教えてくれた気がします。この建築は、使う人だけでなく、見る人に対しても何かを伝える建築なのではないかと思いました。

自分に語りかけてくれた建築は「住吉の長屋」である。
実際に、この家を見てはいないけれど、一番初めにしたトレースが、この建物だった。漠然としていた“建築”が、2年になり設計製図を通して、構造、設備、計画・・・さまざまなことを向きあうようになった。そういう意味で、私の中での建築が、抽象から具象へと変化した。
「住吉の長屋」は、もちろん普通の住宅だけど、私にとって、建築とは何かという観点において、語りかけてくれた建物であると思う。

かつてお世話になった中学校は、私に語りかけてくれていたと思います。古すぎて、県の危険建築物に認定されていたボロボロの校舎でしたが、壁や床に残っている落書きや傷、使われなくなった教室、水漏れのやまないトイレ、全体的に薄暗く冷たい空気は、何人もの生徒を送り出してきたことを物語っていたように思えます。他にも、職員室の前に展示されている数々のトロフィーや賞状も、卒業して行った生徒や先生の変わりに私達に語りかけていました。で、外から見た校舎の形。これは、もう典型的な学校の形をしてました。北校舎と南校舎を渡り廊下が繋いでいて、明らかに北側に校舎を増築しましたと言っています。土地が東西に長いにもかかわらず、光の入らない北側に校舎が建っていて、校舎は南北に伸びている。そして、あの無機質な外観は、余分なことをせず勉強しなさいと言っているようにもみえるし、生徒に自由な発想を持たせようと言っているようにも思えます。ちなみに、その中学校は今はもう取り壊され、その場所にはきれいな校舎が建っています。

僕に語りかけてくれた建築は、前回のスケルトンの時と同様名古屋のセントラルタワーズをあげます。
僕は、セントラルタワーズをはじめて見たときすごく高い建物が二つ並んでおり、また、全面ガラス張りで何か吸い込まれるような感じがありました。これは具象的と言えるかもしれません。また、一度見ただけでとても印象に残るような存在感のある建物でした。セントラルタワーズは駅と一体にもなっており、また建物の中には雑貨屋や服屋、本屋、デパートなどさまざまなものが入っており、今では名古屋のシンボル的なものになっているようになっています。
このセントラルタワーズはその壮大さ、スケールさを僕に語りかけているように思えました。

森獏郎さんの版画館について述べたいと思います。千曲市の山の麓にあります。民家再生した建物で、外観は昔のままです。庭にある木をも家の一部としているように周りに溶け込んでいます。中に入ると一変して白い壁の明るい空間があります。しかし、柱には元の家の面影を残そうとしているかのように組み跡が残っています。
この建物は、今ここにある形の歴史だけでなく、その前の歴史も語りかけてきました。木の強さというものも感じられました。私にとって心に残る建築です。

 私に最も語りかけてくれた建築は、私の実家です。
 前にも書きましたが、私の実家は増築というような形で、隣の家とつなげました。私が中学のときだったと思います。もともとあった家をつなげただけなので、基礎からつくるという工程をすべて見たわけではありません。家族が、建築・建設の仕事をしているので、建築というものは漠然とは知っていましたが、それ以上でもそれ以下でもありませんでした。しかし、内装などが出来上がっていくのをみて、少し建築というものを身近に感じました。最も、というか1番最初に私に語りかけてくれたのは、実家だったと思います。

プランは壁からできているという概念を振り払ってくれたのがファンズワース邸である。その頃の僕は、住宅は壁という具象でできていて何をさせるかは設計者が決めているようなものだと思っていた。(もちろん平皿と重箱の講義を受けて考え方が変わったが)が、ファンズワース邸は違った。ミースは空間を提供するだけでその空間の使用方法は住人の自由としている。つまり壁という具象を取り除いてプランを抽象化させているのだ。このことにより住人はその空間の利用方法に想像をかきたてられるし、使い方次第では時間の経過や環境の変化にも対応できる可能性を秘めていると感じた。また、ファンズワース邸の周辺環境は森であるが、森はその存在感を僕たちに訴えかけてくる具象であると僕は思う。しかし、ファンズワース邸の周辺の森は違う。その森は控えめな態度をとっている、大げさに言ってみれば存在しないかのように存在しているのだ。建物が周りを抽象化しているように感じる。
このような住宅のあり方が一番すばらしいとは思わないが、宇宙がなんの差異もないだだっ広い空間で未知の可能性にあふれているように、住宅にもこの要素を取り込めていけたら面白いものになるのではないかと思うようになった。

高校の時に東京に遊びに行き、原宿でふらっと立ち寄った家具屋さんがある。
三階建てで通り沿いはすべてガラス張り。中は落ち着いた茶色のタイル張りに真っ白な壁と部屋の中央部にある真っ白な大きなスロープ。そこにはまるでギャラリーのようにデザイナーズ家具がディスプレイされおり、理想的なかっこいい空間をいくつも提案してくれていた。とにかく中も外もかっこいい。雑誌などでよく目にする有名家具が並んでいて興奮したが、それ以上にその建物自体に感動した。数々の有名デザイナーたちの家具に全く見劣りせず、しかもそれらを引き立たせている。その建物自体で通りを歩く人の目を引き、かっこいい家具をよりかっこよく見せている。最高の広告媒体と言えると思う。僕は今までこんなにも建物にしゃべり(宣伝)かけられたことはなかった。
それから東京に遊びに行くといつもそこに立ち寄ってしまう。
恥ずかしながら大学二年になってそのお店hhstyle.com原宿本店はあの有名な妹島和世さんが手がけたものだと気づいた。

 私がこれまで出会ってきた建築の中で最も語りかけてきてくれた建築は、姫路城です。城という建築をはじめてみたのが姫路城で、すごく感動した記憶があります。姿が美しいだけでなく、その存在感もすごく、偉大さが伝わってきました。私にとって姫路城は今見ても、いつ見ても息を呑むすばらしさを持っている建築です。
 また、姫路城のその姿を見るや否や、昔の栄えていたころの情景を思い浮かべたり、姫路のシンボルとしての様々な表情を思い浮かべてみたりと、気がつけば、色んなことを想像させてくれています。こういうことから考えると、姫路城は私に語りかけてくれているようでした。 

僕に最も語りかけてくれる建築物は、部活でよく使った地域の体育館です。僕の中学時代は部活で成長したような気がします。そのささえとなってくれた体育館はぼろくてそれほど大きくもないのですが、思い出が強い成果とても偉大な建物に見えます。僕は今でも部活の練習を思い出しあの体育館を思い出して懐かしみます。僕の成長の糧になってくれた体育館が僕に最も語りかけてくれる建築物です。

私に最も語りかけてくれた建築は、沖縄にある中村家という建物です。中村家と言ってもただの一般人の家というわけではありません。中村家住宅は、戦前の沖縄の住宅建築の特色をすべて備えている建物として国の重要文化財に指定されている建物です。500年前前から、沖縄が琉球王国であった時代から存在するこの建物を訪れたとき、その時代の雰囲気、その時暮らしていた人々のことを自然に想像していました。建物の形、トゥングワ(台所)やウフヤ(母屋)など中の様子から、そこに住んでいた人の行動が見えるということに、古い建物をのこしていく意味を感じました。だから、中村家は最も私に語りかけた建物です。

自分にとって最も語りかけてくれた建築物は、栃木県日光にある東照宮陽明門です。
初めて見たのは小学生のときだったのですが、見た瞬間に鳥肌がたつほどの衝撃を受けました。あの装飾による存在感は、自分の視覚にどんどん訴えかけてくるような感じでいまも忘れられません。またこの門は装飾が太陽のように明るく、さらに祀られた土地も日光であることから太陽のイメージでこの名がつけられたということです。
東照宮陽明門は視覚的に訴えかけてきただけでなく、名前がその姿を表しているということからも一番深く印象に残っている建築だと思いました。

M2というたてもの。これはバベルをもじってバブルの塔といわれているらしい。東京え行ったときに見た建物で、ぱっとみたときロボットのようなイメージがした。きっとそんなことは意図されていないが。。膨れ上がったイオニア式の円柱は文化的なものとは無関係で意味をもっていない。その巨大な建物はからっぽでビルの残骸のようなかんじがする。古典的なシンボルを破壊したように感じたが、このM2が建てられたときと違いいまはこれはバブルの象徴をしてしまっている。当時しゃべっていたことが時代が変わり歴史を語っているように感じた。今を生きるバブルの時代を語っているようだった。

私に最も語りかけてくれた建築は小倉駅です。駅ビルの4階にモノレールのホームがあり駅に線路が突っ込んでいくような外観になっていて、とてもかわっています。よくこの駅は「銀河鉄道999」に例えられたりしていて、未来的な建築だと思います。駅の真ん中には円形の広場のようなものがあるのですが、すごく天井が高くて大きな空間です。地元から近いということもあって、小倉にはよく遊びに行っていました。そして小倉に着いて最初に迎えてくれるのが小倉駅です。私の地元からすると小倉はすごく都会なのでとてもわくわくする場所です。地元にある小さな古い駅と違って空間の大きさと迫力を私に語りかけてくれました。

僕が語りかけられたものは、沖縄の米軍基地とガマです。
 米軍基地は、日本でありながら日本ではない場所、という印象を強くもちました。米軍基地から感じたもは、日米の協力というよりも、戦争や力を抽象したイメージだった。道沿いに続く長いフェンスや戦闘機のエンジン音は近寄りがたい恐怖感のようなものを与えているように思えた。
 ガマについては、事前にある程度調べていたというのもあるが、悲しみとか恐怖といったものがあの暗闇によって語りかけていたように思う。ガマには必然的なものかもしれないが、あの闇が装飾なのではないだろうか。それが語りかけるのは負の感情と生きようとする必死さのようなものを語りかけてくる。感情のようなものを語る建築としては、広島原爆ドーム同様とても強く語りかけてくるものだと思う。
 

最も語りかけてくれた建築・・・・。あるだろうか??語りかけられた事がないような気がするし、どれも語りかけてくれているような気もする。
最もと言われるとどれがそうなのかわからないが、今年大学の生協でたまたま開いた新建築の4月号。新建築に掲載されている建築にはよく驚かされ、すごいなぁと思う事もよくあるが、その4月号に掲載されていた 中華人民共和国北京市朝陽区の児童書店の KID'S REPUBLIC蒲蒲蘭(ププラン)絵本館には、ただすごいと思っただけでなくて多くを語られた気がする。
真っ白な建物に立体的に1本のカラフルな線がひかれている。とてもかわいくて、綺麗で、美しい。建築の形もこれまたすごい。子供の絵本館ということで子供が対象になっているのだが、子供がすっぽり入れるような隙間や、絵本を広げられる机、座るいす、ありとあらゆるところに様々な形をした子供が入れるようになっている。1階の平面図がどーの、2階の平面図がこーのといつも考えている私にとって、1階と2階をわけないような、つなぎめの構想、立体性を語られた。そしてすべてがつながることの大切さを語られた。色彩というものに大きな力があること、白がいかに色に意味をもたせるか、また家具に頼らない建築構造物の必要性、たくさん語ってくれた。30分ぐらいはそのページのとりこになっていただろう。
抽象的には一連性、色彩、そして具象的に機能や様々な神秘的な力があげられる。
死ぬまでにここに一度足を運びたい。
それではよいお年を♪来年もどうぞよろしくお願いします♪

勝利へはばたけ!
未来へと突き進め!
待っている!!
そう語りかけてくる。
自分が1番あこがれていた場所だからかもしれない。でも1度としてそのグラウンドに選手として立つことはできなかった。
松本にある「アルウィン」というサッカー場だ。
県大会の上位まで行かないとそのピッチには立てない。そこでプレーをするには努力が必要だ。アルウィンという目標があったからこそ(これだけじゃないけど。)高校の3年間、厳しい練習にも耐えることができた。
メイングラウンドにかかる屋根は、まるで今、とびたたんとする羽根だ。
アルウィンはアルプスの「アル」、ウィングの「ウィン」を足しあわせたものらしい。まさにその特徴が出ているサッカー場であると思う。

僕に語りくれてくれた建築は沖縄の摩文仁の丘慰霊塔です。
それは何も知らない人にとってはただ単に名前の彫られた石です。でも僕ら日本人にとってはただの石ではなく、戦争とは何か?という問を問いかけてくれます。そこに刻まれた名前ひとつひとつを見るたびに胸が熱くなりました。きれいごとですが、戦争がなくなればいいですね。

私に最も語りかけてくれた建築は安楽寺八角三重塔である。この塔は霧に包まれた階段をのぼり、少し山道をのぼらなければ見ることができない。まわりはお墓だらけ。無としか言うことができないくらいの静寂に包まれている。その中でこの塔は私に何かを語りかけているような気がした。歴史を語りかけているのかその建物は古く、近くで見ることができ、見上げるときのこの裏のような三層(庇をいれると四層)の扇垂木が見え、高くにてっぺんが見える。この塔の部分一つ一つが物語っている。ここにいると自分がタイムスリップしたような気持ちになる。また、何もかも忘れたかのようなそんな気持ちになる。

先生の講義で何度かでてきたヨン・ウッツオンのバウスベア教会。外観は白いコンクリートパネルを重ねてあり、はじめは何の変哲もない清楚な教会だと思った。
ただ、内と外との違いに驚かされた。山のような曲面の白い天井からは内部に光を注ぐ。内部空間は外からは想像できない。
しかし、この白い天井から降り注ぐ光は祭壇を照らし、教会という神聖な空間を演出しているかのように感じた。
この天井の光が、抽象的な清楚な教会から具象的な神聖な教会へとかえた。また外観と内部空間との対比が、よりいっそう具象性を強調させたのだろうと考える。
この建築は、外観だけにとらわれなくても、内部空間に何かしらの仕掛けをすることでその建物本来あるべき空間を演出させてあげれるものなんだと学んだ。

私が今までの中で最も語りかけてくれていると感じた建築物は浜松にあるアクトシティの中ホールです。静岡県西部地区のコンクールの時、大ホールが本番の場所、中ホールが楽器の音だしの場所でした。中ホールにはパイプオルガンが設置してあり、大勢の人が思い思いに、客席や舞台で練習をしている中でも、まさに音楽ホールなのだなと思わせてくれます。また、観客席を舞台の上から眺めると演奏していなくても、演奏しているような気分になりました。そして、あのホール独特の厳かな雰囲気が、印象的です。たとえ、演奏会などが行われていなくても、ホール内にいるだけで今から何か始まるのではないかと思ってしまいます。また、今までの演奏会や演奏者の思いなど色々な思い出が詰まっている事を感じさせてくれたり、なんだか励まされているように感じさせてくれたりするホールでした。

語りかけてくれた建築といえばもう仙台メディアテークしかない
抽象か具体かといえば抽象であろう
まず構造となっているチューブ。このチューブは伊東さんが海中に漂う海藻といっていたように海藻を抽象化したものです。このチューブから支えられた床によってできる空間は素晴らしかったです

smtはスケルトンとブラックボックスで述べたように構造自体も具体ながら抽象しています。力の伝わりが想像しにくく、それ自体が必要最低限の装飾として空間を作っています。空間というものは具体的でなく抽象的にカラダ全体を包みこみ語りかけてくれる。

2年の夏にsmtに行けたことは本当によかったです。
建築の空間づくりや構造に対する考え方を考え直す体験となりました。
また機会があれば訪れたいと思います。


みなさん良いお年を☆来年もよろしくお願いします

大変遅くなってすみません。
私に最も語りかけてくれた建築は、実家のすぐ近くにある大鳥居である。下には道路があり高校生のころ家に帰るときはいつもくぐっていた。歩いて鳥居の下を通るとその大きさに圧倒される。また朱色のこの鳥居は昼間は周辺の木々の緑と対比され、夜はライトアップされかなり存在感がある(具象)。鳥居の先には神路坂という名前の坂があり宿坊街もある。さらに登っていくと隨身門がある。この大鳥居は羽黒山の入口を示して観光客を呼びこんでいるような気がする(抽象)。鳥居は神聖な場所の入口を示す目印だということを聞いたことがあるがまさにその通りだと思う。小さい頃はあるのが当たり前だと思っていたが、ただ建っているだけのものはなく、建っていて意味がないものはないとこの鳥居のおかげで考えるようになった。

もうすぐ今年も終わりますね。来年もよろしくお願いします。

僕が一番話しかけてくると思った建築は富山県五箇山の合掌造りです。世界遺産に指定されています。合掌の形をした大きな分厚い茅葺き屋根が特徴です。この地方は大変多くの雪が降ります。合掌造りは「これでもか」と分厚く積み上げられた茅葺き屋根から、雪から身を守ろうとする具体的な目的が感じられます。装飾(抽象)が一切なく「雪に勝つ」という目的を一途に具象している素朴さ力強さが感動的です。

僕にとって最も語りかけてくれた建築は大阪城です。高校の修学旅行で初めて訪れたのですが、この時うけた印象は格別なものでした。実はこの修学旅行で広島の原爆ドーム、倉敷の蔵、京都の歴史ある寺を見て周り、最後に大阪城で締めくくることになっていました。大阪城についてだけではありませんが、建築物そのものや、歴史的背景について、僕には知識がありませんでした。そんな自分にとっては、もちろん大阪城という建築物の外観と内観は、「城」という具象的な形態を備えているものであることには疑いもありませんでした。外観からうけた壮大で繊細なイメージを大きく持ちながらいざ天守閣の内部に入ると、そこは「城」ではなく、大阪城の歴史を一まとめにした博物館として存在していました。僕の「城」という先入観が否定されたことから、少し裏切られた感じを受けた一方、建築にも多様な形態をもち、多様な情報ももち主張していることを知りました。

僕に最も語りかけてきた建築は岩手県久慈市にある黒川紀章設計のアンバーホールです。43メートルにも及ぶ巨大なガラスの円錐、その後ろにある海のうねりを感じさせる波打つ本体施設、大きさも形状も不規則な窓。そのすべてが自分にとって初めてのものであり、造形の力がもつ可能性というものを感じさせてくれました。

京都造形芸術大学・神山義浩

表現されたものに対する個人的な感触の良し悪しは、コンセプトを出来るだけスマートに表現したものである。抽象より捨象されたものであるように思っている。
自分の設計の際にも出来るだけ一つの解答で建築を解きたいと思っている。
それはただのミニマリズムと片付けられるようなものであってはいけないとも思うし、自身の表現形式を例えば「敷地」といった外的要因のなかで観察し、形態決定が行われることで完成されるものであっても良いのではないか?というもっと形態と形式の間を楽しむことでも模索できると感じている。

さて、こんな建築の世界で一番最初に感動した建物は、丹下健三の「国立代々木競技場(体育館)」である。

建築を学び始めてた頃だったのだけれど、あまりにも有名過ぎるし、テレビなどでよく見るせいもあってなかなか見に行こうとしていなかった。

しかし、初めて見に行った日からヒマを見つけてはバイクで何度も代々木体育館を見に行っていた。

それは、正直よく理解出来なかったからである。

大きな建物で、メインの構造である2本のケーブルの存在感やせり上がったコンクリートの素材感などに圧倒され、内部では日本ではなかなか感じられないような垂直性の強い空間を感じ、内外の持つ二種類の空間をどう感じ取って良いのか解らなかった。

それから何回か通い始めたある日の夕方、第一と第二体育館の間にある石畳の通路の端っこに座って両体育館を眺めていたときにハッとした。それは、通路を軸に展開されている両体育館のバランス、それは遠近感というようなものでは無く、この通路を含めて建築としているような一体的な形態をしており、かなり構図の美しさを感じたということである。更に、この日、スライド用のフィルムを使っていて後で写してみると逆光の中で撮った為、黒くなった棟の写真を見たときに「千木」を見つけた。当時の丹下健三への理解といったらまだまだ乏しいもので代々木体育館に関しては丹下は構造表現主義に括られるようなアプローチだったんだというような意識しか無かったのだが、この時、彼の歴史的建築への意識を発見したのである。今でこそそんな事は当たり前な認識であるのだけれど、当時としてはとても衝撃を受けたし、それまでのモヤモヤが無くなり、この建築を単純にとても好きになったという記憶がある。

抽象と具象という点から見るとこの建築は設計当時の最先端の構造、設備を用いているという建築の持つ技術的な高レベルから可能になった流線的で単純化されたフォルムというモダニズム的意味合いと日本の寺院建築の歴史を踏襲するといった所謂ポストモダン的な意味合いを持ち合わせているという点において抽象と具象の間にあるような建築なのだ。
ポストモダンの要素を寄せ集めただけという煩雑さも削ぎ落としていくときっと良いものもあるのだろうと今は思う。
そういう意味において丹下の代々木体育館は時期的にもモダニズムとポストモダンの間であり、イイ手本となるべき建築だったのだろうと思う。


最後に数回休んでしまいましたが、この「建築モノサシ」に参加させて頂きありがとうございました。
卒業設計にも良いヒントをもらう事ができました。

春からまたよろしくお願いします。

語りかけてくれる建築、いや語りかけられる建築というべきであろう。余計な部分を切り落とし簡潔に表そうとする抽象という言葉にそれはあてはまるのであろうか、それとも対照的な細かく追求しそれをまとめていく具象があてはまるのであろうか。福岡県博多市に位置するキャナルシティ博多をあげてみる。その建築物はショッピングモールや飲食店、映画館など多彩な店が並んでいる。このような建築は地元のさいたま市や軽井沢とかにも存在するのだが、キャナルシティは他と違って語りかけてくるものが多かった。不自然な形に縞模様の様々な色彩が使われている。正面から見ると博多という大規模の都市に巨大なシマウマが歩いているような・・・明らかに周りの高層ビルの環境の関係をたつかのような、そんな印象を持たせる。それは抽象の概念から生まれた発想なのかもしれない。しかし、それだけでは語り掛けてくるものはあっても何を語りたいのかいまいちよくわからない。中に入ると中央にある巨大な吹き抜けや店の数の多さ、人々が異空間にいるかのように思わせるアメニティを感じさせることが強引にキャナルシティという建築というのがどんなものか語ってきた気がする。説得力に欠けるが自分の考えとしては語りかけられる場合、抽象から入り具象へと入るのではないのであろうか。すべての建築がそれを可能とするとは思わない。そのような建築と出会った場合、それはきっと自分たちに自然と語りかけてくれるのではないかと思う。最後に あけましておめでとうございます。今年も宜しくお願いします!

あけましておめでとうございます。遅くなってしまってすみません。
自分に最も語りかけてくる建築は考えてみたがわからない。そこで、かぶってしまうが実家を挙げてみたいと思う。はっきりいって私は自分の家が嫌いだ。昔から自分の家にコンプレックスがあった。数年前まで、私の家は隣の家と全く同じ外観、同じ間取りだった。いくつかのタイプから選んで建てるという、施主を全く無視して設計された家だったのだ。母が26歳のころに建てられた家なのだから、今考えればそれは仕方のないことだし、むしろすごいことだと思う。
私の家はなんの工夫もないごく単純な間取りの家。客間と今は居心地の良い南。寝室もしくは子供部屋用につくられた部屋は北。台所は北西。しかし最低ラインの基準は一応満たし、どのような家庭にも受け入れられるようになっていて、考えようによっては必要最低限の要素を持ち極めてシンプルで各家庭の色がだせる家ともみれる。
とにかくこの家は私を今まで育んでくれた家。文句を言わずに大切にしたい。

安曇野ちひろ美術館は語りかけていたと思う。
ちひろ美術館は、駐車場から美術館まで歩く、とても広大な自然が広がる。建物が見える。その外観は切妻が連なったシンプルな形をしている。北アルプスを背景として、それを抽象化している。公園も北アルプスとつながっているような感じで、広い敷地に館、池、木、小道、などが配置されている。中に入ると、切妻屋根がかけられた空間が連続し美術館にいながらまるで家の中にいるように思わせた。安曇野ちひろ美術館は北アルプスの自然を感じさせ、内部は家の中にいるように感じさせた。内部は具象だと思う。美術館建物自体は抽象。でも広大な自然を含めると、建物も具象のように思える。ちひろ美術館は、その周りの自然も一緒に語りかけていた。

実家に帰る前に東京に足を運んで帰りました。エッシャーの展示会を見るためです。エッシャーの作品は僕をその作品ににのめりこませ、まさに語りかけてくる。それはなぜなんだろうか?そこで一つの作品を例にあげて考えてみたい。《カストロヴァルヴァ》という風景画がある。実際は同時に見えない景色をエッシャーは現実(具象された世界)を捨て、エッシャーの作品(抽象された世界)を描いている。このことが自分に、鑑賞者に強く語りかけている要因ではないのだろうか?(このことはいろんな画家の絵でも言えることだと思う。)

そこで今回、実際にあるものを具象された世界とし、設計者の遺伝子で、具象された世界のものを捨象した世界を抽象したものと考える。
作り手の意図によって抽象し非現実的になったとき(程度にもよると思うが)にその建築はしゃべる。
記憶をたどると実際にそのような建物は自分に語りかけてきていたのではないかと思う。そうしたもので思い浮かんだのは授業でもでてきたTOD’Sである。しかし語りかけるというと僕は、大きな声ではきはきとっ、というより近い距離でささやくという感覚がある。
そのことを考えるともっとも語りかけてくれた建物は京都の民家をリノヴェーションしたフランス料理店である。民家という逃れようのない現実がその建物の行き場をなくし、心細くしていたのだと思う。しかしある設計者の遺伝子を組み込むことによってもともとのタテモノという要素を残しつつ民家であるという形作られた世界、つまり具象された世界を捨象した建築物である。このように抽象されたときこの民家はそっと「もう大丈夫だよ」と語りかけてくれたように思う。
あけましておめでとうございますm(__)mそしてコメント遅れてすいません。。。

あけましておめでとうございます。遅くなってしまい申し訳ありません。私に1番語りかけた建築は、伊勢神宮の弓道場です。大学で弓道をやっていれば憧れの道場です。その意味では抽象的だと言えます。また一人一人の思いを胸にこの道場に立つという意味で具象であるとも言えます。私は先日この伊勢の道場で試合をしてきました。普段の試合とはまた違った緊張感と、胸の高鳴りがありました。勝負の世界は厳しいんだぞと、私に語りかけているように思えました。

遅れてしまい申し訳ありません。
私に語りかけてくれたと感じる建築は、国立西洋美術館である。上野駅からでてみつけたときに、そこにありますよというような存在感をあの石の塊かと思わせる箱から感じた。今考えると自分の足を使って建築をみてみようとした最初の建築だったのでよりインパクトが強かったのだと思う。そして、その感情のまま中に入って展示品をみていると、そこは具象的にあるようなイメージを受けた。なんか圧倒さえるものがあり、全体的にその空間をみてしまっていた。しかし、実際はロダンなどの美術品がそうさせたのだった。色々絵画を見ていくうちに、だんだん近代の抽象画へ移行していき、この空間は抽象的なものであると感じていった。そこには、一つ一つの美術品を展示する場所しかないことに気がついたのである。そこで私は、美術館の一つの見方を語られたように感じた。

あけましておめでとうございます。今回批評させていただく中尾友之です。よろしくお願いします。
早速ですが今回の課題は建築を体験する質的な差としての抽象性と具象性という問題であったと思います。私の解釈では抽象的な建築の体験とは意味は良くわからないけど心動かされる建築の体験で、具象的な建築の体験とは意味が良く分かり心動かされる建築の体験であると思っています。例えるなら外国の音楽(洋楽)を聴いて心動かされる体験が抽象的な体験で、演歌を聞いてしみじみとする体験が具象的な体験(しない人もいるかと思いますが)といえるかと思います。ランドマークタワーやせんだいメディアテークや東照宮陽明門を見て心動かされた体験は建築ってすごいなあという、意味は分からないけど心動かされる抽象的な体験であり、また自分の学校に感じる様々な意味に満ちた体験は具象的な体験であり、ある程度みんなで共有できる体験です。
そこで今回建築を体験する質的な差としての抽象性と具象性をうまく取り入れていた原さんと金さんのコメントに着目しました。原さんは構造露呈の魅せる部分を抽象性、また木の温もりを具象性で説明されています。家に来た友達が「かっこいい」と言ったのは、おそらく普段見ることのできないログハウスの構造を間近でみて圧倒されて心動かされたと考えることができます。また日本人にとって木は温かい感触をイメージさせるものです。つぎに金さんはキャナルシティ福岡の外観を、良く分からないけど語りかけてくるとし、この体験の部分を抽象性として説明されています。また中に入ってからの建物の用途を理解できる部分を具象性として説明されています。中に入ってからの具象的な体験は私たちの普段の体験の慣習(ルール)に沿っていたからこの建物がショッピングセンターであるという意味を理解できたことを示すものです。
以上の理由から今回原さんと金さんを中尾賞にしたいと思います。

あけましておめでとうございます。今年もよろしくお願いします。
遅くなってしまいましたがコメントさせていただきます。

今までに自分にもっとも語りかけてきた建築は、浜松にあるイオン浜松志都呂店。
この建物は実家のすぐ近くにあり、よく足を踏み入れるが、よく思うのは十数メートルの吹き抜けが多数見られることだ。吹き抜けに焦点を置いてみるとこれは、何を語りかけるか。それは開放感。これは一見目に見えるものであり、個人としては、具象的なように感じやすいが、広い目で見てみると抽象的とも取れる。自然と客が暗黙の了解かのようにイオン全体に広がるからである。いったいどこまで続くのだろうというような雰囲気が客を引き寄せる。どうしてもこの吹き抜けが何かを呈しているようにしか思えない。個人の目で見るのと広く見渡すのでは具象、抽象の捉え方が変わってくる。最後に、この吹き抜けはどこのイオンにも見られる。

おととしの夏。留学生と行く愛知万博の旅に参加した。万博の会場には、沢山の建築が並んでいた。もちろんどのパビリオンも自己主張が激しい。みなこぞって目立つ工夫を凝らしている。しかし、それらはただの箱に、大きな文字やきれいな写真の看板をつけたり、いかにもというような装飾をつけていた。それは、語るというより言葉にならない叫び声をあげているようであった。
その中でも、語りかけてくるパビリオンがあった。
赤や黄色や茶色の六角形、しかも正六角形ではない六角形が積み重ねられている。それが、建物の外側をすっぽりと覆っていた。それはスペインのパビリオンであった。スペインパビリオンは、言われてみれば「あぁ、スペインっぽい」という感じであった。その建築は一生懸命語りかけてきた。しかし、当時の私には残念ながら「Hola!」(やぁ)と「España」(スペイン)位しか聞き取れなかった。
それは、おそらく色からの印象であると思う。スペインパビリオンの外壁に使用されていたのは、スペインの国旗に使用されている色である。それはそもそも、スペインという国を抽象した色である。
しかし、六角形は良く分からなかった。調べて見るとスペインの伝統的な住宅などに使われるセロシアという格子窓をイメージして作られていて、六角形を沢山つなげてアラベスク模様を作って、イスラムに支配されていたというお国柄を見せるらしい。アラベスクという抽象を格子窓で具象化する。しかし、それは難しくて語りかけてくる言葉を聞き取ることが出来なかった。

遅れてすいません。今回の課題は難しくてなかなか書けませんでした。書いたところで自分でも良く分かりません。今年もよろしくお願いします。

大幅に遅れ、申し訳ありません。
コメントだけでもさせてください。

スペイン・バルセロナにあるサグラダ・ファミリアを挙げます。
日本語にすると「聖家族教会」と言います。
教会建築と言うのは一つ一つ訴えるものがあり、どれも同じかとは思いますが、初めてこの建物を見たときにドンと言うか、言葉ではなかったけど強い印象を覚えました。それは写真越しにしても感じられる、その莫大なスケール…。(具象)それは家族という物の存在の大きさを表しているのではと思いました。また、ガウディ自身も設計図と言うものは残さず、模型のみを残した。それは模型と言う要素によってそれから出来上がる全体、つまり具象は後の建築家に任せると言う、ガウディの残した言葉が建設中のサグラダ・ファミリアからは聞き取ることが出来ると思います。

以上です。遅くなり申し訳ありません。

あけましておめでとうございます。
大変遅くなってすいません。

私は神戸にあるポートタワーを挙げます。
ポートタワーは、私が最初に見たタワーであり、港に面しておりそこにある観覧車とイルミネートされた船と合わせて一つの風景をつくりあげています。ポートタワーでなくても神戸には素晴らしい街並みがたくさんあります。それでも、いつ見てもポートタワーは神戸を代表する場所であることを訴えてきているように感じます。震災を経てもなにも変わらないその風景は私の小さい頃からの思い出でもあり、神戸に行く度に立ち寄りたい場所の一つです。

遅くなってすいません。今ごろになってコメントするのも非常識ですが、僕なりにこのテーマについて考えたことがあるので恐縮です書かせていただきます。                   抽象と具象についてですが、実は僕の中でよく理解できてないところがあるのが正直なところです。そこで、今回の授業で印象に残っている「遠まわしに象徴する。」という坂牛先生の言葉と「語る建築」というのをからめて「桂離宮」のことを書きたいと思います。象徴とはある事や物の核になり得るものだと思いますが、それを遠まわし=目立たなくすることはマイナスなのではないかと思いました。しかし、桂離宮から強く受ける「人を奥へと引き込んでいくような感覚」これは決して直接的なものではないと思います。実際、奥に行くほど小さくなる、飛び石や建物の配置のことを聞いてもそれがそのような効果を持つとはすぐにはわかりません。それにもかかわらず桂離宮は、見る人を引き込むように強く語りかけてきます。つまりこれは遠まわしに語りかけることで聞き手がより自然に素直に聞くことができているのではないでしょうか。そうすると遠まわしに象徴するというのは「分かりにくくする」ことではなく、「目に付かなくする」ことでより自然に象徴されていることを感じることができるようにするというなのかなと思いました。

大変遅くなってしまって申し訳ありません。コメントさせてください。

僕に最も語りかけてくれた建築は建築事務所を開いている伯父がつくった建築です。これはコンクリートの箱のようでまさに抽象と言えます。テナントを備えた賃貸ビルのようなものですが周囲は住宅が多いのでその箱は目が留まるほど語りかけてくれました。いわゆるモダニズム建築で単純にその存在がかっこいいという感想で、僕はこれを見て自分も建築をやってみたいと思うようになりました。講義を受けているときは抽象というものがいったいどんなことを語りかけるかということがちょっとわからずにいたので、この建築を思い出してから建築が語ることは抽象でも具象でもどちらでも可能なのだと考えられました。
ただし抽象は人それぞれ語りかける内容が違うもので、はっきりしていたり、曖昧だったりします。逆に具象ははっきりとみんなに同じように語りかける建築だと考えます。

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