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建築のモノサシ

信州大学工学部社会開発工学科:学部2年 2006年冬

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第1講 重箱と平皿 - flatness


Donald Judd "Untitled" 1989.

Donald Judd "Untitled" 1972.
アート界では村上隆が東浩紀の援護射撃のもとスーパフラットを唱え、社会を見渡せば、右へ倣えで、どの会社も明確なヒエラルキーを消しフラットな組織作りを目指している。価値の多様化を尊重すればお山の大将は不要であるどころか悪であり、堅固な真実を歌うほど時代遅れに見えることはない。

だから建築も平らにという理屈は分からないではない。建築は社会の鏡なんだから。

しかし、建築ってそんな簡単に社会の鏡か??会社の組織論と同列の地平で語りうるのか??そうした疑問が実はこの何年か僕の心の奥にあった。

そして最近これは違うと思い始めた。社会やアートが平らだから建築が平らなのではない。建築が平らなのは別の理由からだ。と。

そう思うきっかけを作ってくれたのは、コールハースの"generic"という概念である。つまり普通ということ。あるいは無印ということ匿名的ということ。コールハースのこの概念自体はおそらく10年以上も前に彼が世界の大都市を見ながら唱えていたことであるから別に目新しいものではないし、そうした概念の延長上にミースをおいて、だからミースはかっこいいと言っていた訳だ。

コールハースの言うことがいつも正しいわけではないけれど、ここのところの時代のつかみ方は共感できる。つまり現在の都市の楽しさのひとつには自分を溶解させられ、自らの主体を匿名化できる都市の空気のありようが挙げられる。ネット社会の匿名性にも通ずるのだが、こうした「僕責任とりません」的な安易さにも後押しされながらも、現実と虚構の狭間を浮遊する快感はこの匿名性無しには得難いものである。

そして建築は、この匿名性を求めて動いた。その先にある快感を欲した。それがいつの時代でもそうであるかどうかは分からないが、アフタポストモダニズムの建築界ではその方向に建築は動いたのである。動かした力は繰り返しになるが、地滑り的な快感への希求である。

さてそれでは匿名性の建築とは何なのか?建築でそれを作ろうとしたときに、現代においてそれを求めたときに、それは何であり得るのか?コールハースが言うまでも無く現在の建築で最も匿名的なものはカルテジアングリッドである。近代的合理性という亡霊は未だこの世を跋扈し、否定する素振りの仮面の下に常に見え隠れしているのである。カルテジアンなこと。この普通さが匿名性を求める建築の向こう側に置かれたのである。

くりかえすが、時代がフラットだから建築がフラットになったのではない。匿名的な快感を求めたからカルテジアンなフラットな建築が登場したのである。