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第9講お題

「民家はきのこだ」という言葉の意味は2年生には少し難しいのかもしれない。しかし次のことは分かって欲しい。それは民家は何十年という伝統の中で育まれてきたものを身に染みて受け継いで、共同体の意思として作るものだということ。一方建築家の設計とは伝統から見習うことがあったとしてもそこに身を投げ込んでその共同体の一部になってすることではないということ。
誤解なきよう、直に付け加えておくけれど、この言葉の意味は共同体の一部になることを蔑視しているのではない。そうではなくそういう行為は僕がここで教える建築という行為とは違う種類のものであるということ。

さてそこで今日の授業の最後の方で少し話たが、民家といえば田舎にあるもの。地方である。しかしよくよく考えてみれば、都市にも都市独特の伝統的建築というものがあるのではないだろうか?例えば工場。工場には工場独特の形や材料がある。あるいは飛行場とか。

そこで今日のお題だが、都市の民家を探せと題して、都市部に存在する、土着的建築を探して欲しい。そしてそうした建築のどこを見習えば都市にとってその地方性(都市性)を表現した建築ができるだろうか、記してください。

今日のお題は難しいので先ず院生が見本を書くこと。木曜日中に院生は書くこと。よろしくお願いします。

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坂牛研究室 m2 深澤宏

 周辺環境によって生息するきのこの種類が異なるように、建築もその場所によって異なる形状をしている。豪雪地帯の民家は屋根勾配が急な形をしているし、京の町屋はうなぎの寝床のような形をしている。
 周辺環境によって建築の形状が異なるパターンとして二つの影響が考えられる。自然環境からくるものと、都市的環境からくるものである。飛騨の白川郷の急な屋根勾配や、沖縄の民家の分厚い石垣などは前者の要因が大きく、京の町屋の形状などは後者の要因が大きい。京の町屋は道路に対してできるだけ多くの店舗が接するように間口が小さくなっているため、長細い形状になっている。このような都市的環境からくる建築の形状への影響は、京の町屋のような中世都市だけではなく、現代の都市にも見ることができる。
 例えば東京の渋谷は、日本で最もファッショナブルで猥雑な繁華街である。賑やかな商業店舗が軒を連ねる一方、どこか淫靡で危険な臭いを漂わせている。そのような怪しさと魅力を兼ねそろえた繁華街の一角に「RISE」という映画館と店舗を収めた商業ビルがある。この建物はアルミニウムのパネルによって覆われているのであるが、その形状はズレ落ちようとする布のような有機的な形をしている。その艶かしい布の隙間から建物の内部が垣間見えるのであるが、その内部でも同様の有機的なモティーフが繰り返されており、その怪しげな雰囲気に一層拍車をかけている。R・バルトによれば「肉体の中で最もエロティックな場所は、衣服が口を開けている場所である」としているが、設計者の北河原温はドレープのような象徴的な要素をシュールレアリスティックにまとめ上げ、この街の持つ猥雑さや迷宮性を表現することに成功している。
 渋谷という街の持つ空気は、刺激的であるがどこか魅力的である。この怪しい香りが渋谷の土着性であるとするならば、それをいかに取り込むかが表現行為を行う上で重要になる。しかしそれを直接的に表現すると低俗なものになってしまう。RISEは渋谷におけるアート的なオブジェ建築を代表するものであるが、構造を包み込む皮膜にこそ表現の本質を置いている。このようにぼんやりとした地域性の中から重要な部分を見つけ出し、それをどのように抽象化して表現するかということが、建築意匠という表現行為を行う上で大切なことであると思う。
 このRISEが竣工した1986年に、伊東豊雄は六本木に「NOMAD」という仮設のレストランを作っている。この建築はアルミのパンチングメタルの皮膜の中に東京の持つ即興性や虚構性を演出しており、表現のテイストは異なるが、皮膜の中に表現の本質を置いている点でRISEと共通している。このように考えると、都市的環境を取り込む手法にも時代性という要素も関係しているように思われる。

05TA340F
松永崇

都市と田舎の違いはなんだろうか。まず思い浮かんだのは、人口である。江戸時代の1800年頃は100万人とも言われている。この人口は当時のロンドンの85万人を上回り、世界最大級の人口であった。その人口を収容するために、多くの町屋がつくられ、路地(生活動線)が縦横無尽に走っていた。それは迷路のようなもので、複雑であり、また多様な空間であった。そのような空間は、田舎にももちろん存在するが、複雑性、さまざまなものと混在することはないと思う。
都市の複雑性というのは、僕たちが東京に行けばよくわかる。街のいたるところにオフィス、集合住宅、ショップが混在していて、道も曲がりくねっていたり(グリット状になっているところもあるが)、建物の高さも高いところもあれば、低いところもあり(たまにオフィスにはさまれた住宅を見ると、マジでびっくりする)、さまざまな要素がごちゃごちゃになっている。まさにカオスである。しかしそれだけではただ無秩序なだけである。都市も自然と同じように、ただ混沌しているだけではなく、なにかしらしっかりとした秩序というものが存在し、全体があると考える。
そこで僕は都市のきのことして、渡辺誠設計の渋谷にある青山製図専門学校一号館(1990)をあげたいと思う。この建物を構成しているのは、いろんな部品で、一見ガラクタを集めて造ったって感じがする。しかしそれらの部品は、機能の必要性から生まれたものである。渡辺誠はこの建物の説明として、「例えば3本の太い柱は、最上階の床を支えるために必要です。大きな回転楕円体は、水を入れるタンクです。高く伸びたアンテナは、避雷針です。どれも、機能上欠かせないものです。」と言っている。この建物を見るとわかるように、全体が混乱しているように見えるが、そうではなく全体としてバランスをとることを目標に造られている。
東京のような都市と渡辺誠の青山製図専門学校一号館に共通しているのは、部分として一つ一つ自由でありが、全体として一つにまとまっている。僕にはこのようなところが都市独特の建築、都市性ではないかと思う。

05TA324D 高橋伸幸

都市のきのこ:新幹線の駅

「そのイメージを思い浮かべるだけでその場所をイメージできるもの」それが土着的なものである。田舎だったら民家、では都市だったら・・・
僕の場合は「新幹線の駅」である。東京、大阪、名古屋、横浜など日本を代表する都市には新幹線の駅が存在する。現代日本では新幹線の駅があることが都市の証といってもいいほどである。ローカル線の駅ではなく新幹線という言わばブランドを持った駅。それが都市を連想させる。
駅自体の中身はどの都市も変わりない。どの駅も同じ車両を到着/出発させるためほとんど同じ規格でつくられている。またどこのホームにも売店、自動販売機、ベンチ、表示板など決まったものしか置かれていない。そのため新幹線の車両内から駅のホームを見ても違いが分からないことが多々ある。それは一見、個性がなくその地域性(都市性)を欠いているように見えるが、反対にそのような共通した新幹線の駅のイメージが都市を連想させており、そのような空間に辿り着いた=自分は都市に来たんだ、という実感に直結するのだと僕は考える。
もともと日本で鉄道の駅ができたのは明治時代である。今までに無いものが突如出現したため当時の人たちは「宇宙船」を見るような感覚だったと思う。鉄道は人や物資、情報、そして文化を駅から駅へ運んでいった。それによって駅がある街は発展していき、時代と共に都市へとなった。同時に駅も鉄道の発展と共に変化していき、都市にとっての「きのこ」となっていった。
このように都市と駅は密接な関係にあり、現代の人なら誰でも知っている。そこに大きく関係するのは「慣れ」である。駅ができた当時それは「珍しく真新しいもの」として人々から見られていた。そのため都市と駅との関係は薄かった。しかし、何回も使い続けたり、何回も目にするようになり駅の存在に慣れていくと、その存在は次第に「あって当たり前なもの」、最終的には「その土地に根付いたもの」になっていき都市と駅の関係は厚くなったと僕は考える。そのような「慣れ」は時代と共に定着し、現代の新幹線の駅と都市との関係のような感覚を生み出させていると考える。そのため田舎の民家とは違い、僕の考える都市性は「慣れ」つまり、人の感覚によって生まれてくるものであり、どんなものでも都市性を帯びることはできると思う。

04TA338A 中根雄一

都市独特のきのこに「組み合わせの妙」というのがあると思う。
都市の特徴には、自然環境、社会環境、人間的環境などが複雑に絡み合っており、偶然性と必然性が交錯していることが挙げられる。この「組み合わせの妙」はその偶然性と必然性が生んだものである。具体的には塚本由晴の『メイド・イン・トーキョー』に載せられているような建物に見られる。例えば、この中にはバス団地というのがある。集合住宅のピロティがバス車庫になっていて、長軸方向の柱のスパンがバス2台分=2住戸になっている。つまりバス一台の大きさ=1住戸の大きさとなっている。この建物が優れているといえるかはわからないが、相反するように思える人とバスを、うまいこと同じ形式に収めているところが、組み合わせの妙といえるだろう。
このような「組み合わせの妙」は、なにも東京のような大都市に限ったことではない。例えば、前回の[先天的と後天的]の課題で出たようなコンバージョンも当てはまるのではないか。オフィスから集合住宅へのコンバージョンなどは、長野も含め今やどこの都市でも行われている。前回坂牛賞ととった中尾くんに倣えば、ある程度の広さと少し高めの天井高を兼ね備えているオフィスビルは、現代的な集合住宅にうまく合わせることができる。まさしく「組み合わせの妙」である。
もし都市の中の土着的な建築のことをきのことするならば、ここで挙げたものはただのきのこではないような気がする。あえていうなら、きのこの突然変異。土着的というよりは、周辺の社会環境や人間の都合優先が強く作用してつくり上げられてきたものである。土着的というときに、自然環境を一次的要因とするならば、社会環境や人間的環境(土地が足りないとか、まだ使える建物を壊すのがもったいないとか)は二次的要因だと考える。この2次的要因の方が強く作用しているきのこ(もしくは後天的な影響といえるかもしれない)は、きのこの突然変異なのである。

坂牛研究室 M1 芦田貴文
 篠原一男は、民家をきのこと呼ぶとき、さらに続けて、それは人間と自然との合作のようなものであると形容した。農民が暮らした民家は生活に結び付いたものとして考えられ、思想的な観念によって造形されたものたりえず、その土地風土が違えば、その自然に即してかたちづくられるもので、その風土の数だけ民家は存在するといった。そして、民家は生活、つまり内部から捉えるべきものであるという。
 都市において居住する人々がくらすハコは、民家たりえるだろうか。田舎、農村から都市という場に寄り集まって住まうようになった人々でも、その周囲を取り巻く「風土」≒環境は、自然の厳しさとはまたちがった厳しさで人々に関与している。そんななかで、建築思想的、建築意匠論的、つまりかつての貴族的なものの見方ではなく、庶民的な、生活に即した視点で都市に住まう人々が取り入れ、建築ボキャブラリーに大いに作用しているものをここではあげる。
 それは、「遮音」そして「換気」というキーワードである。それは非常に内部からくる着想点である。また、それは住宅に限らないだろう。日本でも、寒冷な地方では、二重サッシ、ペアガラスといったものは冷気を内部に入れないようにする工夫である。しかし、例えば70年代伊丹空港では、ジェット機の離着陸の通路にあたる地域において、騒音の被害が深刻となり、長年問題されてきたが、寒冷地のボキャブラリーである二重サッシやペアガラスを用いるなど、厚くして「遮音」することで内部環境を改善しようとしてきた。使われるは同じであっても、ある意味で社会風土的な作用が、建物の地域性を示す一つの例であるといえる。
 都心部などでは、様々な用途で利用される土地が近接するため、工場、交通などにより、外部空気の汚染が深刻となり、内部と外部を遮断、そして換気扇や空調機により「換気」するという方法で内部を守ろうとしている。民家では「必要に応じて開けられた開口部」が外部に現れるのが、この場合外部に現れてくるのは「必要に応じて開けられた「換気」用の換気扇の穴と空調のパイプの穴とそのスパゲティのように延びたパイプ群」である。そのすがたは、おいしそうな「きのこ」というより「カビのはえてしまったキノコ」のようなものである。
 このような環境が最悪にわるかった70年代頃からすでに今の学生はすでに世代は代わって、そのころの極端な悪環境を体験していない人々が社会に出てきている。この建築ボキャブラリーは、今後とことん突き詰められていくのか、それとも取り去って次の段階へいくのか。私は「遮音」「換気」が取り去られ、ごてごてにパイプがくっついた建物を懐かしさと奇妙さで笑える日が来るとよいのではないかと感じる。

04T3018H
奥野耕司

 都市の民家として、私は商店街を挙げようと思います。田舎での仕事が農業であるのに対し、都市では商業を生業としている人が多くいます。仕事は生活の中で非常に重要なものです。そのため、民家は、そこでの仕事のスタイルにあった形をしていると思います。つまり、田舎で民家は、仕事である農業にあった形をして、都会では商業にあった形をしている。都市ではそれが商店街に当たるのだと思います。
 アーケードが何メートルにもわたって続き、その両側に多くの店が軒を連ねている。夕暮れ時になるとたくさんの買い物客で賑っている。このような風景は、まさに都市と呼べるのではないでしょうか。
 商店街は、そこで商売している何人もの人々が一体となって出来上がっているものです。田舎にはない数多くの人の繫がりというのが都市性ではないかと思います。

都市の民家:鉄道からみる家々
鉄道から家々を眺めると、家の玄関がないことに気付く(鉄道路線に並行して道路が走っている場合は別であるが)。それは鉄道側から家に入る人が居ないからであり、当然のことである。このような状態は、一軒一軒の家が鉄道側には玄関を作らないぞと意図してやったものではなく、鉄道側には玄関をつくらないという自明すぎる条件のため、このようなことが起こっているわけである。以上の意味で鉄道からみる家々は「きのこ」であり、都市の民家であるといえる。
ではこのどこを見習えば都市にとってその地方性(都市性)を表現した建築になるのであろうか。単純に考えれば、玄関を見えるところにはつくらないことである。もしかしたら一般街路でも、すべての家々が玄関を見えるところにつくらなければ、鉄道と同じような景観が出来上がり、鉄道固有のローカリティを表現できるかもしれない(それをやったからといって意味があるとは思えないが)。また鉄道側に玄関をもった家をつくってみたら、周辺との対比がうまれ、逆にその場所のローカリティを表現することにもなるかもしれない。
以上からその場所を形成する自明のルールを見つけ、それが群となって現れている状態=「都市の民家」であるように思われる。

04T3084F
宮尾 真紗美

 まず都市を部分で見ずに全体で見てみた。私の頭の中で想像される都市というのはやはり単純に東京である。東京に存在するきのこ。まったく見つからない。むしろ東京という街を考えれば考えるほど真実が隠れるような気がする。東京という街全体が都市のきのこのように思えてくる。昔から現在までさまざまに変化してきて、テレビや雑誌には東京の流行の店や商品、ストリートを歩く若者のファッション、新しく建てられた斬新なデザインの建物、日々誰もが憧れるような都市のように印象付けられている。でもその裏には先端のものと排除されたものが入り混じった町並みがある。また、東京に行くとまず感じる「臭さ」。しかしそこで暮らす人々はそれに気付いていない。それらを普通と感じるのである。結局私たちは伊藤豊雄の言うように「メディアによって織り上げられた美しい衣服を着た裸の王様を見せられている」だけではないか。メディアニよって織り上げられた美しい衣服をきた裸の王様が、生えてきてしまったきのこであると思う。これは生えてきてしまったきのこなので見習うべきではないと思う。

04T3043J 篠澤 朋宏

 都市部に存在する土着的建築として私は、今は無き青山の同潤会アパートを挙げたいと思う。

 同潤会アパートが取り壊され、新しく生まれ変わる事が決定したのは今から6年程前。もう見られなくなると聞いて、私が高校二年生の時父親と一緒に建築巡りをしたのを覚えている。取り壊しの工事が何時から始まったのかは覚えていないが去年実家に帰った時、再び訪れて見ると、既に取り壊されて、新たな鉄骨が聳え立っていた。当時では革新的だった鉄筋コンクリート造のこのアパートは、関東大震災で住宅不足だった時に「財団法人同潤会」が設計したものである。当時構造、設備も最新のものを備えたものの、老朽化が進み取り壊されることが決まった。70年という長い月日を生き抜いたこのアパートは青山の顔であった。近代的な建物が周囲を埋め尽くす中、ボロボロになった一連のアパート郡を意識して目に留める通行人はいなかった。それだけこの場所に、この青山という街に溶け込んでいるからだろう。私はそこにこの建物の土着性を感じる。当時青山に初めて訪れた私は、この建物の存在感に圧倒されたが、不思議と建物が僕を受け入れてくれている感じも覚えた。70年も同じ場所で変わり行く風景と人々を見てきたこの建築はあらゆるものを許容する優しいお爺ちゃんの様であった。外壁に複雑に絡みつくツタもアパートと同じ長い年月を生きた証であり、とても歴史を感じる。よって私は、この一連の同潤会アパートが都市部に存在する土着的建築、すなわちきのこ建築ではないかと思う。

 高橋先輩が「そのイメージを思い浮かべるだけでその場所をイメージできるもの」が土着的であると書かれていましたが、私は必ずしもそうではないと思います。
同潤会アパートがまだ存在していた頃の青山をイメージしてみても同潤会のようなイメージは出て来ず、表参道のオシャレでちょっぴり大人な街のイメージの方がむしろ先行します。土地の持つイメージや地域性が必ずしもきのこ建築に結び付くのではなく、その土地の或いは都市の持つイメージとは裏腹なきのこ建築もあり得るのではないかと思います。

 同潤会アパートが取り壊された跡地に安藤忠雄が新しいマンション郡を計画し、工事が進んでいますが、景観を意識してか建物内部に表参道の坂と同じ勾配をもった廊下を設計しているとか。完成が今から楽しみで仕方ありません。

04T3052H
高柳翔太

 ガウディ建築の代表、グエル公園。この公園はエウセビオ・グエルによって構想された庭園都市計画の際に、ガウディに依頼されたものだ。バルセロナでのこの事業は最終的には失敗に終わり、グエルの死後、バルセロナ市に寄付された。失敗に終わったものの、バルセロナという都市にあるこの公園は、地元の人々に今なお愛されている。この人々の心をとらえて離さないところに、私は土着的なものを感じた。有名建築家によって生み出された建築物は、一般の人にとってはどちらかというと近づきがたいものとなることが多い。その美しさに感銘を受けながらも、ただただ遠くから見ていることしかできない、ということは少なくないだろう。しかし、このグエル公園にはそれがまったくない。人々は自由に出入りし、自由に時間の流れを楽しむ。そこには人々と建築物の間の隔たりがない。きのこ建築、都市の中の民家、それはつまりこのように人々に単純に親しまれているということにもつながるのではないか。その建築が存在する地域で人々に認められ、その都市の一部であると認識された時、その建築物は土着的な意味を持つのである。このような親しみやすさを持たせるには、建築の中に少なからず存在するエリート意識をできるだけなくすことが必要である。建築の中には、親しみやすさが必要な建築もあれば、そうでないものもある。建築物をこの世に生み出す時、まずこのどちらがそれに必要なのかをいろいろな側面から考慮すべきであると考える。

04T3072B 平田雪絵

 都市といえば『光』のある景色を想像する。昼間は特にカラフルでもなく目立つこともなく同じようなビルなど建物が並べられている。それが都市というものなのかもしれないけれど、きれいなものであるかどうかと考えると、そうではないと思う。でも、夜になると一転して景色が変わる。都市の眠る時間は遅い。夜の都市はいっせいに光を放って輝きだす。昼間、都市に見られるような冷たくて汚いと思われる部分を隠すかのように、一つ一つの建物の光が夜景として人を魅了する。地方でも見られることだが、都市のものとは規模が全く違い、わざわざ人が見に来るほどでもある。その一つ一つが毎日放つ光の集合が美しい夜景となって都市の一部となっている。今では、建物が夜光り輝くように、さまざまな色の電飾が施されている。東京タワー、レインボーブリッジ、遊園地や観覧車も夜は都市を彩る、あって当たり前の景色。そういうような建物は地方に建てようとは思わないし、建てたところでういてしまう。都市は夜に輝くというのが根付いているから、人は光る建物を都市に建てる。でも、そこには人がいなくてはならなくて、たくさんの人が都市に夜も集まるからこそ、光が放たれる。都市にはたくさんの人がよるも活動している。そうした都市の動きが、美しい夜景を都市に運び込んでいるのだと思う。

04T3055B 武智 三奈
 田舎と都会の景色を比べて、たいていの人は田舎の景色の方に、美しさや感動を感じると思います。季節によって姿を代え、嗅覚や聴覚などでもそれを感じることができます。しかし唯一都会の景観が勝るものがあります。夜景です。昼間都会のごちゃごちゃした、汚い部分も、夜、見えなくなり、ネオンの光が都会を美しいものへと変貌させます。そうすると繁華街にあるネオンで輝く看板や、高層ビルは都市のきのこだとおもいます。高層ビルの上階では窓を広くとり、景観を楽しめる工夫がされ、美しい夜景を見ることができます。だからといって、周辺環境を無視した、やたらと高い建物を肯定しているわけではありません。けれど否定もできません。高層ビルが、無秩序といえば無秩序だけれど、やはり高層ビルの上階への憧れは捨てきれません。数階程度のビルでも、屋上からは、それなりに美しい、とは言いえないかもしれないけど、夜景を見ることができます。屋上を利用してカフェや、ダイニングが都会であります。夜景が、ノーコストの商売道具と考えられます。ビアガーデンも夜、ライトで照らされた屋上で熱さを感じながらお酒を飲むことに歓びを感じるために、毎夏おこなわれます。
 人間にとって、景観というのは大きな要素だと思います。都会の景観はきれいではないけれど、あえて、その景観を見せることが都市性なのかもしれません。私が感じたことだけど、田舎で景観を見ると、自然の中にいると実感します。都会で都会の景観をみると、客観的に見てしまいます。自分がその中にいないように。自分が田舎で育ったせいかもしれません・・・。

「都市のきのこ」とは「地方のきのこ」でないものすべてだと思う。

今回は都市のきのこを探せということだが、まず根本的に都市とは何かについて自分なりに考えてみたいと思う。箕輪町という田舎町に住んでいた自分が始めて東京を見た時、自分の目に見えたものは一つの都会的な建物ではなく、ビルや工場、マンション、または東京タワーや国会までもが全てが集まった景色が都市と感じたのだと思う。見たこともない大きなビルだけではなく、原宿のように多くのお店がたくさん並んでいるだけでも自分には都会に感じた。自分には都市とは建物が一つでは都市としての意味はなく、集まることによって都市の意味をもつと思う。ということは都市に建ったもの全てが「都市のきのこ」になりえるのだと思う。しかし、民家がたくさん都市に集まったからといって都市になるわけではない。そう考えると一番初めに述べた「都市のきのこ」とは「地方のきのこ」でないものが都市に建ったものだと解釈が出来ると考えるのが普通だと思う。

下の文章は04T3001C 赤羽利哉です。

04T3017K 岡本澄香

手始めに地方性、都市性のあるものを思い浮かべてみた。頭に浮かんできたのは松本の縄手通り、高山の古い町並み、小布施などの町並みであった。こうしてみるとどれも地方的なものばかりである。私の考え方が短絡的だということも大いにあるとは思うが、地方の特性といわれてぱっと思いつくのは地方(田舎)のものが多い。中でも町並みには特にこのことが言えるのではないだろうか。それはやはりこれらの町並みは古くから受け継がれ、また次世代へも受け継ごうとする伝統的文化であり、地方性という一定の秩序の中形成されたものであり、秩序だったことが良し(美しい)とされるものだからではないだろうか。
秩序だったものは明解でわかりやすい。一方、都市の町並みは高層ビルを始めとする多種多様な建物が無秩序に立ち並んでいて、地方のような明解な土地性が見られない。しかしこの曖昧さ、無秩序こそが都会の土地性なのだと思う。かといって、ひたすら無秩序に町並みを作る事がいいこととは思わないが一建築物に関してはこの都市性を表現していくことが可能になるのではないだろうか。

04T3071D
日比野温子
都市でよく目にする様々な広告が都市のきのこであると思います。渋谷などで信号待ちのとき、周りの3つのビルのファザードが全て同じ広告になっていたりします。かと思えば、目の前をその広告で装飾されたラッピングバスが通り過ぎていきます。アーティストがCDの発売前などに大通りに沿って宣伝広告を出したり、同じ商品を宣伝する数種類の広告で街一帯を彩るなど、そのPRぶりが話題になることもあります。このような広告・サインは、都市の町並みや景観を形作っている大きな要素だといえます。これらは商品のPR・紹介という機能に即したものであり、建築物と比べるとそのスパンは短く、インパクトや個性をより追求し、他との差異化を指向するものが多いと思います。実際に、思わず立ち止まって眺めてしまうようなインパクトのあるものや、美しいもの、面白い広告が街には溢れています。反対に、いったいこれは何を宣伝しているのだろうと思うような一見何の意味も持たないような広告(これはこれでインパクトがあるといえる)やへんてこな広告もみかけます。タイムリーな情報発信源でもあり、自由な表現がなされている広告に私は都市性を感じます。流行を意識しすぎることはあまり良くありませんが、流行はその時代を象徴する1つの要素でもあり、人々に与える影響はとても大きいといえます。ものを作る側は、流行を追う側ではなく、生み出す側であります。今必要とされているものとこの先必要とされるもの、変化していくものと普遍的なもの、これらを見極めてバランスをとっていくのはとても難しいけれど大事なことだと思いました。

04T3086B
村上亜衣

都市には人がたくさんいるし、交通量も多い、そしてその分建物もたくさん建っている。私は生まれたときから神戸に住んでいるがまだまだ知らないものがたくさんあり、謎が多いように思う。今回の都市というものを考えるにあたって、具体的に神戸の町を考えたいと思う。私が都市のきのこを考えるときに都市独特の伝統的建築というものを探してみた。神戸は、開港以来世界に開かれた街として外国文化を受け入れてきた。さらにそれらの外国文化に独創性を加えて、神戸らしい感性を作り上げている。これこそ伝統的であると思う。神戸は震災で被害を受け、修復再建された。大きく変わった街だが特有のクラシカル・ヨーロッパの雰囲気は受け継がれている。その町の特殊の背景が生み出した独自性が伝統的建築として現れるように思った。たくさんの建物それぞれに伝統的な色と、都市独特な色が現れていると思う。それが都市のきのこであると思った。

04T3045E 庄司貴弘

 都市の民家を考える上で、まず都市にしかないものを考えてみた。都市とは「一定地域の政治・経済・文化の中核をなす人口の集中地域。」(広辞苑)である。つまり東京、大阪、福岡・・・などである。そこに共通して存在するものを考えてみた。それは○○タワーである。東京タワー、京都タワー、通天閣、ポートタワー、福岡タワー、五重塔、エッフェル塔・・・。あきらかに都市独特のものである。それらはもちろん登ることのできる建築物である。そこから見る景色は格別でしょう。たぶん。
 しかしそれ以上に目的があるように思える。それは「目印」。これらは誰がなんと言おうと目立とうとしている。そもそも人を登らせることを目的としてはいないと思わせるほど、どこからでも見える高さ・色・形をしている。このタワーというのは人間に、今自分はどこにいるのかということを分からせるために立っているといっても過言ではないのではないか。京都駅を出たら100%目に入ってくる京都タワーは「あぁ、京都に来たなぁ」と思わせるし、五重塔を見れば「昔ここが都市だったんだなぁ」と思わせるに違いない。「ここは田舎じゃなくて都会ですよ」と言ってくるように立っているタワーはまさに都市が形成されはじめたころから土着しており、都市の変遷を見守る伝統的建築、都市から生えてきたきのこではないだろうか。

04T3088J 村山文緒

私は京都にある町家というものを都市にあるきのこであると思った。
京都には今でも間口が狭く奥行きが長い、伝統的なうなぎの寝床と言われる家が立ち並ぶ。この家は隣との境目に塀なんてものは無い。むしろ壁が一つに見える。これくらいギリギリに建ててある。この家たちは一見してみると私は住みたくは無いと思ってしまうが、これが無いと京都っぽくない。この間口が極端に狭いと言う町家が京都と言う都市の風景を色づけていると思う。
京都と言う都市の都市性とは何か? と言われたときに、京都タワーという人はまずいないであろう。これは東京タワーが東京のシンボルであり東京の都市性であるからだと私は考える。京都には京都タワーよりももっと京都の都市性を表すものがあるからだ。それはやはり古い町並みである。京都と言う町が、ずっと時代を重ねて創ってきたいろいろな町家が京都と言う古都の都市性であると思う。それぞれの都市で都市性と言うのは違うけれどどの都市にも時代を積み重ねた過去が都市性を創っていくのだと思う。古い町を大事にしながら今の都市性を創っていく。これが京都の良い所であり、その古い町は京都で生まれたきのこであるだろう。

04T3031E
金 昌秀

まず私の都会というもののイメージは、日々進化し続ける景色の変化だと思われる。めまぐるしく変わる都会の変化の中で、一番それを感じさせてくれるものは、あっという間に変わっていく建物ではないかと思う。それに対し、地方のきのこである民家は、変わることのないなつかしさを感じさせる建物が多い。なぜそう感じるかと考える場合、時間の流れの感じ方の違いではないかと思う。ということは、都会のきのこを考えた場合、時間の流れが速く感じる建物こそそれになるのではないかと思う。それはビルがいい例ではないかと思う。時代が経つにつれて、ビルは高くなり、大きくなり日々私たちを驚かせるような形に変化していく。よってビルは都会のきのこと言える。

04T3068D 羽田和彦

 土着的建築、田舎では民家であるように、都市部では同じ住居であるマンションなどの集合住宅ではないだろうか。単純な発想かもしれないが、集合住宅は実に都市に根付いていると思う。田舎に民家を建てる際、そこに住む人が決まっていないということはまずないだろう。大抵、そこに住む人が依頼して家が立つ。なのでその家は依頼した人の仕事だとか趣味だとかいう個性をたくさん持つだろう。対称的に集合住宅は、住む人はどういう家かを依頼するのではなく、もうすでに建っているものから選ぶということになる。当然住む人の趣味などがわかっているはずもなく、個性は持っていない。そのうえ、この無個性の住宅がいくつも重なって建っている。都市部に田舎の民家のような一つ一つ個性をもった住宅を建てられるはずもなく、実に機能的で効率的だと思う。地面から次々と家が生えてきたように見える集合住宅はまさしく都市の「きのこ」だと思った。

04t3032c
木村 知晃

僕が考える都市独特の伝統的建築は、所狭しと乱立しまくる看板たちだ。いや、広告を全面に押し出した、ファサードが看板、みたいな建物たちだ。
駅の改札を抜け、ふと上を見上げれば、目に飛び込んでくるのは雲ひとつない真っ青な空、ではなく、おもちゃのような色とりどりの看板群。視線を戻して歩き出すと、次から次へと差し出される手、その手の中には、魅力的な言葉がちりばめられたどこかの店の広告。
上のような例を挙げるまでもなく、都市には看板や広告や宣伝があふれている。僕が考える都市と田舎の違いはそこだ。都市の電車にはもう貼るスペースがないってほどの広告が貼ってあるが、田舎の電車にはほとんど広告がない。唯一貼ってある広告が、広告募集のお知らせだったりする。
なぜ田舎には広告や看板が少ないのか。理由は簡単。あっても意味がないからだ。正確に言うと、看板を置いても、元が取れないからだ。看板を設置する費用ほど売り上げが伸びない。そもそも田舎に看板を置いても、見る人は少ない。資本主義のこの国では利益がすべて。看板は都市に置くべきものなのだ。
ではこの看板たちのどこを見習えば都市にとってその都市性を表現することができるのだろうかを考えてみる。看板などの広告は店の売り上げを伸ばすために設置されるものだ。つまり、儲かりたい、裕福になりたいという欲望が表れたものである。そもそも都市には田舎とは比較にならないほどの欲望や野心が渦巻いている。つまり看板などの広告を都市性の象徴とすることは、欲望や野心が都市性だと言っているのと同じことなのである。よって欲望や野心などのギラギラしたものを感じさせる建築には都市性が宿るのではないのだろうか。

04T3047A 
瀬戸洋平

都市部に存在する土着的建築物として駅を挙げます。
駅には都市部でも田舎でも昔から通勤を目的としたサラリーマンが多く集まってくる。いつも同じ人が駅と駅を往復する姿は建物から見て土着的と考えていいと思う。しかし電車が走っていない時間の都市部・駅については田舎とは異なる。夜中の駅はただの明かりのついた建物だと思われがちだが、寝泊りする人やダンスの練習をする若者、さらには夜行バスの利用客と多くの人が集まる。これは決して駅の本来の存在理由とは違った使い方だが、これこそが都市部・駅の存在を土着的と考えてよいと思う。
レールというものは、多くの人が集まるような経路をたどってひかれている。それが可能な限りどこまでもつながっていて、人の移動を手助けする、親しまれたものだ。そのレールをつなぐ役割を駅はしている。駅とレールはどちらも欠いてはならないものだから、土着な関係をしていると思う。

04T3040D
桜井愛海

田舎の民家というと、昼間でも暗いというイメージがあります。しかし、私が考える都市の民家は、明るくオープンなガラス張りの建物です。

ニューヨークにあるルイ・ヴィトン5番街店は、外壁の一部が白みを帯びたガラスで覆われていて、一歩足を踏み入れると、白い壁に囲まれた心地よい緊張感の漂う空間が広がっています。3階までの吹き抜けを眺めながら上る階段は、摩天楼マンハッタンの空気と同じものを感じることができます。そして街に昼と夜の表情があるように、昼は透明感のある無機質な表情を見せ、夜は店内の光が白い外壁に照らし出されて輝きを放っています。
セントラルパークを見下ろすツインタワー、タイム・ワーナー・センターも、ガラス張り、3階までの吹き抜け、高く伸びる階段が印象的なビルです。豪華に飾られているわけでもなく、色、匂い、温度も感じられないような気もしますが、空気のような透明な壁をするりと通り抜けて建物の中へ入っていくことができます。また、中からは、緑の木々や歩いているたくさんの人々など、街の景色を見ることができます。

ガラス張り建築は、一見無機質で、感じるものが何もないような透明な空間をつくっているように思えますが、まるで外と同じ空気が流れているような感覚を与えてくれます。豪華で奇抜なデザイン重視の建築ではなく、シンプルで街や人々を身近に感じられる建築を目指すことが、それぞれの都市の空気をたくさんの人々や建物が共有できて、その都市の持ち味を生かしていく方法ではないでしょうか。

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牛山由偉

地方における建築物は歴史や伝統を意識したもの。都市における建築物はそれらをあまり意識しないもの。地方と都市の建築の違いはこのような点であると考えます。
地方における建築物には、例えばその地域独特の材料を利用した建築、昔から受け継がれている工法を使った建築、昔から伝わる形など地域に根ざしていて、歴史や伝統を取り入れたものが多い。さらに言うと歴史を現代に受け継ぎ、そして未来に伝えようとしている建築、これが地方性を持つ建築であると言えるのではないだろうか。
一方、都市における建築とは歴史や伝統はほとんど関係なくできているものだと思う。例えば、その都市において昔から伝わっている建築様式を取り入れたような建築は都市にはそれほど見当たらない。新しい技術や考え方をした建築が多い。技術の進歩の証として超高層の建物が最近、世界の都市で多く造られていることが挙げられる。言い方を変えると、都市の建築とは昔のものを受け継ぐのではなくて、より新しいものへと変化していく建築なのだろうと思う。民家の中には何十年、何百年と建っている建築はたくさんあるが、都市における例えばビルや工場は民家ほど長い年月の間建っているものではなく、さらによりよいビルや工場、その他の建物に代わって行ってしまう。このように過去は気にせず先へ先へと突き進むような建築が都市性を持った建築と言えると僕は考えます。

04T3002A阿部裕子
 都市とは?と考えた自分は、始めに思った事は、長野は都市?であった。都市とは、政治・経済・文化の中核をなす人口の集中地域である。小さい区域で考えれば、長野県内の都市と言えば、長野市や松本市を挙げてもよいように思う。しかし、日本で考えれば、東京、大阪、名古屋、横浜、札幌などが挙げられると思う。世界で考えたらどうなるのだろう。ロンドンやロサンゼルスなどが挙げられるだろう。都市について少し悩んでみたが、自分が行った事がある所でここが都市だと感じられた所が、東京であったので、東京と絞りたいと思う。私が持つ東京のイメージは、ごみごみしているが、誰でも受け入れてくれる空間である。地図で見ると狭いと思える東京でも自分の足で歩いてみると広くて観て回れない。それぞれ見て回る所が多く、小さな地区毎にそこの地区独特の空気を持っている。この様な東京内の都市部に存在する土着建築を、東京駅とする。東京駅とは、都内から、日本各地から、また世界各国からの人々が交差できる地点をこの建物に見る事ができるのではないだろうか。空港のように直接世界の人々との交差点とはいえないが、東京駅に行けばどんな人もいる。観光客がいて、地元の人がいて、地元の人でも働いている人がいて、遊びに行く途中の人がいて、ホームレスの人がいて、ストリートライブの人がいて、都内の人がいて、地方の人がいて、外国の人がいて、他にもいろいろな人がいる。始めに、東京のイメージを挙げたが、誰でも受け入れてくれると言う表現をしたその理由として、東京と言う都市は、どこから来たかと言う詮索はあまりしないように思うからだ。地方から来るのが当たり前、来るもの拒まず、去るもの追わずと言う表現にぴったりな場所ではないだろうか。この様な部分を見習い都市にとっての地方性を表現したものが出来るのではないだろうか。

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中島早央里

 都市部の民家を探す。という今回のお題を考えたとき、私は観光地のホテルや民宿がそれにあたるのではと考えました。『都市部の都市独特の伝統建築』がどういったものかと考えたら、きっとそれは人が集まるところに根付き、必要とされていることが前提だと考えたからです。観光地が大都市かというとそれは違う場合がほとんどです。しかしそこにはたくさんの人が集まりそこでなんらかの思い出を作っていきます。何度も何度も同じ観光地を訪れる人も少なくないはずです。そんな多くの人の流れの中でそこに建つホテルはその地でたくさんの人に愛されている、観光の一部だと言っていいと思います。
私はこの夏、約8年ぶりに岐阜の下呂温泉を訪れました。変わらない雰囲気がとても嬉しくて、初めて泊まるホテルにさえ懐かしさを感じました。そこで出会ったおばあさんに、「毎年この季節に下呂温泉に来るけど、どうしてもついついこのホテルを選んでしまう。」と笑顔で恥ずかしそうに言われたのがとても印象的でした。こんな風に思われているこのホテルはもう、このおばあさんにとってただの宿泊施設ではありません。このような観光地に建つホテルもまた、何十年という時間の中で多くの人によって育まれてきたものだと思います。

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小林 健太

今回の課題「都市の民家」を考えるにあたって、まず都会と呼ばれる条件というものを考えてみた。そうすると、やはり人の多さが都市と田舎との決定的な違いだと思う。そこから発展させていき、僕は「都市のきのこ」とは多種多様な建物のことだと思う。
都市と呼ばれる地域では必ずと言ってもいいほど田舎よりも地価は高い。そうなれば理想となるのは、一つの建物で二つ、三つと何個も役割を果たせる建物である。丹下健三の代々木体育館などもその例で、バレーボールの試合にも使えるしコンサートなどの行事にも対応できるという、都市にはたくさんの人の需要を満足させるために建てられた建物が田舎に比べて多い。特に、コンサートというものは基本的に東京、名古屋、大阪や神戸、福岡などのいわゆる都市と呼ばれるところで行われるので、体育館を兼ねたコンサートホールなんかは都市ならではの建築物だと思う。身近な建物で言えば、長野市にあるビックハットなどもそうであると言えるのではないだろうか。

04T3014E 岡崎友也

 現代の都市に寂しさを感じている。そこに住む人々はどうも閉鎖的になってしまっているようだ。多くの人が集まり交流を持ち新たな発見をするのにはとても理想的な場所であろうと思われるのだが現実はそうではない。駅前の大きなスクランブル交差点、ラッシュ時の通勤電車、マニュアル通りの対応しかしない店員・・・。このような状況下ではもはや私たちは人を人として見ていない。それは障害物であったり単なる塊であったり機械であったりといった具合だ。基本的に自分と相手との人間的関わりを持とうとしていないのである。
 しかし一言に都市といっても、以前の都市は温かみのある空間であったのだろうと想像する。露店市場が並び、路面電車が走り、時間に追われせかせか歩く人はほとんどいなかっただろう。そこではゆったりと時間が流れのびやかで活気のある空間が広がっていた。それが変わり始めたのは高度経済成長期、霞ヶ関ビルを皮切りに都市部に超高層ビルが次々と生まれた。それまでに展開されてきた人々のつながりは空間として都市を形成していたのだが、超高層ビルによりその空間が切り刻まれた。上へ上へと競い合うように伸びたビルは同時に人々の繋がりまでも切断してしまった。僕が思い浮かべる現代の都市のイメージに人の姿はない。たまに現れたとしても孤独である。一方で昔の都市のイメージには人と人の繋がりが描かれて、がやがやと会話が聞こえてきそうなほど生き生きとしている。
 都市のきのことしては時代と都市の発達具合により2つ存在すると考える。高度経済成長以前で都市性を持つものは市場でそれ以降のものは超高層ビルである。この2つはどちらも集客性があるが、それぞれが水平・垂直という全く異なる軸への広がりを持つものであることが示すように、性質も対極にある。個人的にはやはり人間らしく水平の広がりを持つ都市に魅力を感じる。

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村瀬 涼介

僕は都市の民家として企業会社や公務員の働く庁舎など、多くの人が働くものをあげる。このようなものはもちろん都会に大きく建物をそびえ、田舎等、さまざまな場所から出勤してくる人たちを受け入れる。
しかしなぜこのような建物が都会的きのこなのか?都市は経済や政治など、人間が生きていくために情報、資本、物資などがもっとも多く、迅速に流れている場所である。都市というものは人が集まるところにできたり、その地形から都市を形成しやすいためにできたりもする。そのような都市となりうる場所に、人間が生きていくよう情報・資本・物資の管理や統括などするために建てた建築物がすなわち先に述べた庁舎や企業会社である。
人がいないところで庁舎等をつくってもまったく迅速に情報は伝わらない。そんな人が多く、常に時代の最先端を行っている都市だからこそ庁舎や企業会社は都市の民家といえるとおもう。

02T3018A  片岡 篤史

地方でも都市でも、生活をしているのは人間である。そして、地方には地方に適した人間の生活スタイル・都市には都市のスタイルがあり、それを意識化すれば土着化が進み、建築の形態として現れてくるのではなかろうか。そこで、都市部のスタイルの一つとしてファッション性の多様さを挙げ、ファッションと建築とのつながりから「都市のきのこ」を考察してみる。

対象として、秋葉原と原宿・渋谷の2箇所を挙げる。

どちらも大都市東京の中の地域であり、その情報の伝達の速さ・多さは他の都市を圧倒し、流行を生み出すことなどからもファッションに関する意識の高さはある種の土着性と捕らえるに匹敵すると考える。

そのような状況の中で、秋葉原は(近年アート関連のイベントなども見られるようにはなったが)未だに電気関連の店舗やアニメキャラクター店などが多く立ち並び、そこを訪れる人の多くが、自分の趣味・娯楽を求めて訪れる。そして秋葉原には特に執着を持った人が集まり、彼らはオタクと呼ばれたりもするのだが・・・。そんな彼らの多くは自分を表現するために街に来ているのではないので、その服装も地味な印象を受ける。
そして、それに呼応するかのように電気街のビルは、多くが窓のないコンクリートの壁に覆われたビル、あるいは壁面を一面の広告で覆いかぶせた建築である。すなわち、建物もまた、内部を解放することを拒否しているのである。
その一方で、原宿・渋谷などの街は着飾った自分を見てくれと言わんばかりに、様々なファッションに包まれ、多様な自己表現がなされている。そして、その建築もガラスファサードを有し内部の様子を外部に解放したり、あるいはそのかたちが多様で自己主張をしてるものが多い印象を受ける。

この二つの地域ではファッションという媒体と建築の表現とが密接につながり、そこは土着建築の発展がみられる地域ではないかと考える。それはすなわち「都市のきのこ」となり得るのではなかろうか。

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鈴木俊祐

 都市といっても東京などの大都市もあれば長野のような小さな地方都市もあるこれらの二つの都市の間にはかなり差異があると私は思うので、今回は東京に絞って考えました。
東京の建築はコンテクストや歴史性といったものからみちびかれるものではなく、経済性のみが考えられているのである。したがってそのような経済効率優先で考えられた建築が東京の地域性を現していると思う。たとえば、東京にいけばそこら中にある斜線制限によって頭が削り取られた貸しビルである。これらの建物はもはや、プロポーションなどは関係なく、わずかでも利益を増やすための対策である。また、秋葉原などでは、外壁を覆いつくすほどのネオンサインや看板がひしめき合っている。まさに経済効果のみしか考えられておらず、建築ではなくただの建物である。この他にも、鉄道の高架下や高速道路下、さらには建物と建物の隙間や屋上など、おかまいなしにその場にある利用できるものであればとことん利用していく。それが東京という都市の性質であると思う。
以上のような結果から東京では、その場所性や文化や歴史について真剣に考え意匠化しようとすると逆に浮いてしまうのではないかと思う。東京では建築ではく経済優先の建物こそが東京を最も良くあらわしているのだと思う。

04T3081A 三浦 淳史
都市部にある民家ということで私は、名古屋市中区にある大須を例に挙げたいと思います。大須は大須観音を中心とする門前町として形成されてきました。参拝客目当ての土産物屋,掛茶屋それが盛り場,商店街へと姿が変わって行くのも東京浅草と類似点を強調される由縁。「観音さん」と親しみをもって呼称され、老若男女問わず信仰の対象として参詣の絶えることがない。境内では鳩にえさを与えるほのぼのとした姿も多い。この周りには次々と目新しい建築が建てられていく中で、いつ見ても違和感のない大須観音は土着的建築といっていいと思うし、この課題を読んで真っ先に思いつきました。そこで、どのように見習えば都市性を表現した建築が出来上がるかを検討する。まず、大須観音は神社や寺院の部類である。だからといってただ真似ていてはいけない。いつでも人が集まれる場所、年齢層を限定しない、商店街との連携、地域との密着性を徹底すれば都市性を表現した建築になるだろうと考える。

03T3038J  崔志宏
 日本の民家町並み昔から受け継がれ、長い伝統のなかでたくましく生きている。各地方の民家は、その土地の気候、産業などの影響を受けて色々特色ある造りがある。そして、歴史を感じさせる美しいたたずまいの中にやさしいやすらぎを感じさせる。
 私は大学に入った前に、京都に一年半に住んでいました。京都の民家は主に伊根、上賀茂、伏見、嵯峨鳥居本、美山があります。以下に伏見を例に説明します。
 伏見は「伏し水」の意味からきており、豊富な地下水に恵まれ、その水質も硬水と軟水の度合いが酒造りにちょうど適した水で、酒造りの町として有名である。今も大きな酒蔵が建ち並んでおり、中でも月桂冠本店の民家、酒蔵が見事である。
 伏見の町の起源は、豊臣秀吉の伏見城築城に始まるが、豊臣の天下が終わると共に、城下町としての役目はたちまち終わり、町としての繁栄は、それ以後に始まる。まず大阪湾から淀川を逆上った港町として栄える。ここから高瀬川を上るために舟を乗換えて京都へ入ったものである。良い酒が作れなかった江戸へは、ここから舟で直送された。舟運が衰退した後も、酒造りの町として、現在に至っている。
 伏見の特徴は酒蔵がずらりと並んだ地区以外にも、古い民家があちこちに残っていて、歴史の重みを感じさせる町並みを作っている。薩長の連絡のために何度も京を往復した坂本竜馬が定宿とし、寺田屋事件として歴史に残る寺田屋が、昔のままに残っていて、観光客に開放している。
 そのため、日本都市の民家は都市独特な色が現れる。それが都市のきのこであると思う。

04T3101K 和田隼人

 都市が都市たる所以はどこにあるのだろう。巨大なビルの群れ、網の目のように張り巡らされた鉄道や道路。崩壊と構築、それらが折り重なるようになって形成された大きな塊。都市をこのように捉えることができるならば、都市における土着的な建物というものはまさしく「それら」なのではないのだろうか。民家は何十年という伝統の中で育まれてきたものを身に染みて受け継いで、共同体の意思として作るものだということ。だとしたら、「それら」は都市における民家と呼ぶことが可能であると思う。高度経済成長期から何十年という時間の流れのなかで育まれてきたものを身にしみて受け継いでいるかどうかは定かではないが、都市という共同体の意思として作られているとは考えられる。無秩序に拡大しているかのようにみえても、それらは一貫して都市の中での役割というものを担っている。それは外観にしても、機能としてもである。都市という一つの共同体の意思(都市のイメージと言い換えることもできる。)から脱却することは理論上では充分可能であるが、脱却することによって土着的建物に結びつくとは言えない。例えばその土地に古くから現存している民家が都市の真ん中にあったとする。本来ならばこの建物が土着的と呼べるものであるはずだが、今となっては都市の意思から脱却したこの建物は到底土着的と呼べるものではないであろう。都市は、本来そこに存在し続けるその土地の歴史をも飲み込んで増殖しているのである。こういった考え方からすると都市における土着的建築物はこれからも生まれ続けるものであると考える。

すみません、下の文章は高柳ではなく04T3101K和田隼人のものです。

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安江昌晃

 都市部の建物の特徴としては、まず、第一に、見た目を良くしてあると思う。また、外部から見えないようにつくられている・・・つまり、プライバシーを守るようにつくられていると思う。さらに、住居の場合、様々な制限を受けて、小さなものであると思う。
 一方、田舎の建物の特徴としては、開けっ放しにしてもいいように、また、開けっ放しにできるようにつくられていると思う。こちらは、都市部の場合と多少異なり、大きなものをつくることができると思う。
 このように、都市部の建物の特徴と田舎の建物の特徴は、様々な点で異なっているけれど、都市部の建物の特徴、例えば、見た目を良くしてあり、プライバシーが守られている建物ならば、その都市性を表現した建物になるとは思えない。そのような建物は、都市部ではない場所、田舎にあっても良いと思う。
 都市部にある建物がもっている都市性は他にもたくさんあると思う。

 今の時代、どんなに田舎であろうと大体の地域にコンビニはある。どれだけ田舎であるかを表現するときに「周りにコンビニすらない」ということばを聞いたことがある。ここにみられるようにコンビ二がどれだけ近くにあるかということが都市を見る上でのひとつのステータスになっていると考えられる。その証拠に、最大手であるセブンイレブンの店舗数は東京がダントツに多い。また、サークルKサンクスをみてみると、愛知県が圧倒的に多いことがわかる。会社によって店舗の展開地域がそれぞれ違うのではっきりとは見えてこないが、東京・大阪・愛知などの大都市といわれるところは例外なく多い。このようなことより一般に都市といわれるところは人が集まり、次々と流れ作業のように循環していくところだと私は考えた。都市と呼ばれるところには様々なコンビ二が多くある。先にも述べたが、それぞれの会社の店舗が都市に集まるということは、東京・大阪・愛知などにはとてつもない数のコンビニが存在することになる。それだけ、利用されるということはコンビニは都市には多数に無くてはならないものでありコンビニ自体が多くの人を引き寄せ、なおかつその人波を機能的に循環させているからに他ならない。
 私の考える都市のきのこはコンビニのような都市という集合体の中に必要とされるもので動き回る人々の行動を抑制することなく円滑に循環させてやることのできるものである。また、私の考える都市性とは、人の集まるがゆえに生じる回転性の悪さを緩和してくれるものであると考えた。
 

04T3034K 工藤洋子

都市に生えるキノコ。
地下鉄から栄養を得て、にょきにょき建つ駅周辺の建物の画が浮かんだ。
と言っても、超高層ビル群はそれに当てはまらない。路線地図の端に近づく方の駅周辺の住宅群を考える。
都市部とは言えないかもしれないくらい離れるところもあるが、それでも都市がなければ存在しない街である。その街を造るのは都市で働く「人」。
養分は全て「人」が都市から持って帰ってき、繁殖させる。
その「人」は都市とは別の場所からやってきた宇宙人であることが多く、新しい住宅地の開拓などは宇宙人がキノコを栽培する。と言ったところだろうか。

都市は慌ただしく変わりゆくのが常で、その常時変化し定まらないという行為は立派な土地性だと思う。そんな常変わりゆくものからどんどんと養分を取り繁殖してゆく住宅街は形を残さないものの、ある種の歴史を刻んでいると思う。
変化した結果を見習っているのではもう遅い。変化を考慮し先を見据えないといけない都市部のキノコは鮮度重視だなぁと感じた。

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山田 卓矢

都市部を歩くと実に様々なファサードを持った建築物を目にする。特に商業施設はファサード重視した建築物が多いと感じられる。商業ビルの多い都市部においていかに自社をアピールするかということは都市部においての商業ビルの在り方ではないかと思う。そしてそれは魅力的なものであると思う。このあり方というのがきのこではないかと考える。
都市部に存在する土着的建築として東京の表参道にあるhhstyle.comを例としてあげる。この建築は断面形がそのままファサードとして現れたような印象を与えられる。遊歩道からこの建築を見ると一階の内部空間を全部見渡すことが出来る。遊歩道からはディスプレイされている家具が見ることが出来たり二、三階の床のレベル差を認識することが出来る。この建築はファサード建築といえるのかはよくわからないが、外から見てこの建築に魅力を感じることは確かである。
人を惹きつける何かを持っていないと数多い商業ビルの建つ都市部では生き残っていけない。その答えの一つとして魅力的なファサードを持つということは重要だと思われる。

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藤江将史

都市とはその地域の中心である。都市は経済、政治など、いろいろなものの中心であり、たくさんの人が集まる。このような都市にあるきのこにはどのような建物があるだろうか。そこで頭に浮かんできたのが企業の本社ビルである。都市には多くの本社ビルがある。本社は子会社をまとめあげたり、方針を決めたりと、企業の活動の中心的存在である。なぜ本社は都市に多いのだろうか。それは都市がさまざまな情報が集まる情報の中心であるからだと思う。現代は情報化社会で多くの情報があふれている。その中で企業は生き残っていかなければならない。そのためには常に新しい情報が飛び交う、時代のニーズを把握しやすい都市に本社があるのだと思う。だから本社ビルは都市のきのこであると思う。中心的存在のもの、シンボル的なものを見習うことによって、都市性が表現できるのではないだろうか。

04T3025A
加藤絵梨

私がまず都市とは何だろうかと考えると、それは人が多く集まり常に新しい情報が行き来するところだと考える。私は長野市よりも田舎に住んでいて、初めて一人で京都に行った時、その駅の大きさに驚いた。自分の家の最寄り駅では出口とかはすぐ発見できるのに、京都駅では出口がたくさんあり、どこから出たらいいのか迷ってしまった。何十分も行ったり来たりしてしまった。それに田舎と都市では人の歩く速さも違うと思う。もちろん駅前にある高層ビルの大きさや数も圧倒的に違う。
そこで私が都市の民家として考えたのは駅ビルだ。駅ビルはある程度大きな都市にしかないと思う。もちろん私が住んでいたところにはない。駅ビルには多くの人々のニーズ合うように様々な業種の店舗が入っている。洋服屋や土産物屋、パン屋、本屋などがよくある。そこに人が集まらないとお店も経営できない。その駅を利用する人が数多くいるからこそ駅ビルが成り立っているのだと思う。そういう部分で都市であり、田舎から遊びに来た人にも必要となる店があることが地方性がある部分だと思う。

04T3005F 泉 宏子

私が都市といわれて思いついたのは、東京や大阪、ニューヨークやロンドンといった大都市のことであった。それらの都市の伝統建築とは、その様式にあると思う。地方において伝統建築というと、築100年も200年もたっているような建築をさすと思う。時にはそれが民家であったり神社や寺院だったりする。しかし都市においてそのような歴史のある建築を見つけるのは容易ではないだろう。あったとしても都市部からは少し離れた場所であったり、都市とは隔絶されたような雰囲気を漂わせたりしていて、都市部固有のものとはいいがたいように感じる。都市部の伝統建築とは常に新しさを追い求める様式にあると思う。これは地方の歴史を重んじ保存し続けようとすることに対比する。都市には常に多くの人が出入りし、次々と新しい情報がやり取りされる。建築はそれらの人に合わせるようにその体系を変化させる。それは新しい情報を、それが仕事のためであれステータスのためであれ、必要とする人々を惹きつける役割も兼ね備える。
しかし、都市の新しい建築にしても地方の歴史ある建築にしても、それが特徴を持ち魅力を感じされるのはそれと対比するものが存在するからこそである。地方から見れば都市の巨大ビル群は憧れを抱かせるものだろうし、その逆も言えるだろう。都市の地方性とは常に新しさを取り入れ変化し続ける衰え知らずの流動性にあると思う。

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藤田 真理子

都市の民家。都市と言えば皆があげているように、東京・大阪・愛知などが私も思い浮かびました。
そこで今回の都市の民家を大阪心斎橋にあるアメリカ村をあげたいと思います。
都市にはたくさんの地下鉄が通っており、目的の場所への行き方がたくさんあります。私はアメリカ村へ行くとき、難波駅からどこにでもある駅前独特のとてもにぎやかな商店街を通り、途中で曲がっていったん大通りに出ます。そこはまたどこにでもあるような大通りです。そしてまた一本路地を曲がると・・・そこに突如とても派手な格好をした若者でいっぱいのアメリカ村が現れます。
多くの古着屋が何件も連なり、店員さんはものすごい関西弁でしゃべりかけてきます。そこにいると「大阪にいるなぁ」としみじみ実感することができます。こういった「都市の中の村」は東京や名古屋にもあると思います。こうした空間を作ることによって都市は都市でもその都市が元々持っていた味を感じることができ、こうして都市の中にさらに村を作ることができるのも都市だからだと思いました。

04T3059E
坪井章訓
都市部にある伝統的建築を考えたとき、都市と地方の違いについてまず考えてしまう。自分は生まれてからずっと田舎(地方)に住んでいた。一番近い大都市といえば名古屋になる。名古屋へ遊びに来て気づくことは店から店へ移動する時間が少なくてすむことがある。同じビル内にたくさんの店があったり、隣にも複数の店がはいっているビルがあったり、小さなスペースに多くの店がはいっている。それに比べて地方では一つの店はでかいけど、周りは何もないことがしばしばある。名古屋では新しい建物はもちろん、古い建物でさえ、複数の企業がはいっている。この建物こそ土着的建築ではないだろうか。そこを訪れる人のニーズを満たすため、小さな敷地に多くの企業がはいるビルが建設されていくのではないかと考えた。地方性を表現した建築にするには、一つの空間に多くのものを取り入れる。ただし、それが利用者のニーズにこたえるものであると、その建物は都市部のきのことなりうるのではないかと思う。

04t3033a 草間康至

民家は自然と人間との合作、つまりは周囲の環境との合作ということになる。そして都市におけるキノコとは都市にある古い建築物――高層ビルが立ち並ぶ以前の建築だ。明治以前、その地方ごとに異なった文化があった。それはその地域を統治していた者たちによるやり方がそれぞれ違っていただからで、日本全体の文化はその地方々々にあっただろうがその場所によって細かな文化の違いはあったはずである。そしてそういった流れで城下町から都市へと変わっていく。それならば、その時代では現代ようにわざわざ“都市の中のキノコ”を探さずとも、“都市というキノコ”があったと考えられる。そして時代は流れ、近代化の波が押し寄せ、そこにあるキノコを構成する建築物はどんどんと無くなって いく。だから都市にある古い建築物はキノコの名残といえると思う。

04T3064A 中井大海
都市と田舎の違いは、違いを挙げたくなくなるほどたくさんあるように思う。そのひとつである、人と決して切り離せない「需要」について考えた。
都市というのは人の集まるところ。当然人が多ければ多いほど食料や衣類といった商品の需要は大きくなる。また同時に人が求める商品は多種多様になってくる。需要に関してはこのような地域性を都市は持つ。これらの地域性から、様々な食料や生活用品が常備され24時間営業する「コンビニ」というものが作られたのは、当然の流れだと自分は考え、コンビニが都市の民家だと考える。
近年コンビニは恐ろしいほどに都市に繁殖している(京都とかでは、曲がり角一つ曲がればコンビニは見つかるほどだったので大変驚いた)。やはりその要因として人の流れが速くなっているためだろう。コンビニのサイズもそれに応じて、移動が少なくて様々な商品を見られる買い物ができる小空間にしたという意図が見られる。
自分はこの都市の民家であるコンビニの「人の流れを規制する」ということを見習うべき点だと考える。せわしなく流れる時間の流れを、逆に緩やかな流れにしたりしてもよいと思う。つまり商品一つ一つと向き合うような美術館的なお店もいいかなと思う(ブランドのお店はそんな感じなのか?)。いつも速い流れに流されていたら、いつか疲れてしまうから。

04T3042A 繁山 和夫
都市は、常に何かが発展している地域を指すと思う。発展している代表的なものに産業があるが、いわゆる都市の産業の中心は第二次産業や第三次産業が多いのではないだろうか。
長野市を例に取ると長野駅を中心に第三次産業の施設が立ち並び、少し郊外に行くと信州大学や工業地域、観光地、住宅地が広がっている。このような形態は何も長野市に限ったことではないと思うが、長野の特徴は恵まれた自然とゆとりのある広い土地にあると思う。信州大学はその中でも土着的建築に入ると思う。住宅街にあり、地域に溶け込んでいる点でこのように思った。学生が勉強するのにも落ち着いたところで適していると思う。長野の地域性も生かされた教育も受けられるから長野らしさはあると思う。意匠も奇抜ではないが溶け込んでいると思う。

04T3069B 樋川 俊樹

 まず、語学的に都市の対義語は農村である。住民の生業が商業なのか農業なのかで対立項となっている。では民家の対立は町屋だから都市のきのこは町屋か?と考えると僕はそうは思わない。ある町、ある建築において時代の変遷の影響を受けるということは必ずあるだろう。都市は栄え育った場所なので変化も農村より格段に大きい。僕は都市と聞いて、ビル群が立ち並び交差点が人ごみで埋め尽くされている、そんな風景を思い浮かべた。そこに一般的な町屋が作られたら?と考えると、どう考えても地面から生えてきた建築物とはなかなか考えられない。
 講義の中で都市のきのこ、8つの建築の方向という話を聞いて、分かりやすかったのは真の機能を目的とする、地域性と普遍性の融合という2つであった。これは都市のきのこについてだが、民家も同じきのこなら少しでも共通点があるのではないかと考えると、真の機能を目的とする→居住、地域性→農業を生業とする状況が見える、普遍性→その時代の一般的な住居、と当てはめることができるのではないか。同様に都市について考えるが、私は現在の東京臨海副都心にある丹下健三のフジテレビ本社を例に挙げてみる。①商業(メディア)を目的とする②小さい土地を最大限利用するために建物は上に伸びていく③建物に四角い穴が開いているのは商業のためにどうしてもあけなければならなかった訳ではないしあの球も含めシンボリックな建物にすることでお台場という観光名所の1つのスポットとして地域性を感じる。
 前記の通り、都市は時間とともに変容する。それは技術においても都市のニーズに応じながらも建物が建ち都市ができる。フジテレビ1つだけが都市のきのこという訳ではなく、そこに1つ決まった都市のきのこはないと考える。都市の中にある上記の条件にあてはまるものが都市のきのこだと考えます。

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春本雄一

都市の民家:寺社仏閣

ここで、私は都市独特のものとして、寺社仏閣を挙げる。寺社自体は全国至る所に存在し、なんら目新しいものではない。
しかし、都市部、例えば東京で考えてみよう。あれだけ、開発が進み高層ビル・雑居ビルが林立する中で、ポツンと存在する寺社。その周りを取り囲む鬱蒼とした林。なにかこの場所が相対的に浮き立ってこないだろうか?思想家中沢新一によれば、こういった寺社仏閣が存在する場所は太古の地層で考えると、海に向かって突き出た場所、つまり「岬」になるそうだ。こういった場所は霊力が溜まりやすいらしく、寺社を建てるには最適なわけだ。建てられるべくして建てられたとも言える。
こう考えてみると、東京タワーの眼下にある増上寺にしろ、明治神宮にしろ、まわりの喧騒から免れ、ひっそりと佇むこれらが都市部独特の存在と言えないか。

03T3102D 山内一矢

 都市の民家として、都市部に多くある雑居ビルをあげようと思う。
都市部というのは人口が密集し、建物も密集しているものである。人が集まれば集まるほど、その都市に求められるものは多くなってくる。
しかし、その要求がその都市の土地面積のキャパシティを超えたとき、都市が面的にひろがっていくか、建物が上へ上へと成長していくかである。前者のように都市が広がっていったとしても、人々の要求は都市の中心である都心に集まってくる。それ故に、後者のように建物が高くなっていく。
狭い敷地面積の中でより多くの要求に応えなくてはならない。雑居ビルはこんな都市部において、不特定多数の業種、業態の店が多数混在するビルである。つまり、人々の様々な要求を吸い上げ最長したビルなのである。よって、私は都市の性質から雑居ビルと呼ばれる類のビルを都市の民家ではないかと考える。


民家がきのこであるならば、雑居ビルもきのこであるといえると思うけれど、都市で育ったきのこは田舎で育ったものと比べ、味が悪いように感じる。それは、吸収した人たちの要求によるのかもしれない。やっぱり天然もののほうがおいしいと思う。

03T3092C 
三森 翔

都市における民家とは、土着的なものが存在している場所。そこの場所らしさを感じることができるところだと思い今回は東京を例に挙げて考えてみたいと思う。東京は今も昔も時代の最先端として開発され、巨大なビルが立ち並び無秩序に縦にも横にも広がり拡大し続けている。それに伴い交通網が発達し成長をし続けてきた。そして今もなお成長をし続けている。本やメディアを通しても東京はこれらの巨大な建物の集合体のイメージを植え付けられる。ここで東京における民家とは無秩序に広がった巨大な建物である。今の東京に建てられている建物は、高度成長期に無秩序に建てられてきて経済・政治中心で作られてきた建物の流れを引き継いでいるものがある。無秩序に立てられたがゆえに景観や周りの環境に配慮されていない建物があった。これらの建物は、東京を代表する景観でもあり伝統的建築であると思う。このようなことが東京らしさを感じることができる土着的建築であると思う。
今開発されている建物は当然これらの問題点を配慮して東京の巨大で時代の最先端であるというイメージのままよい面だけを取り入れて開発が進められているように思える。東京という地域性を活かしたものを作っていくのに重要なのは、民家にも言えることだが、イメージ(形だったり、色だったり)を如何に壊さずに時代にあったものとして落としていくかだと思う。

「容積率という風景」

講義中に紹介された「住宅論」中の言葉をもう少し自分なりに解釈すると、きのことは、或る場所のやむにやまれない状況(例えば自然条件や身分差)から決定された建築形態、ということなのだろう。

都市におけるやむにやまれない状況を考えてみると、「建蔽率」「容積率」が存在する。この2つは、土地区分で決定される。例えば、第2種低層住宅指定地域では建蔽率60パーセント、容積率200パーセント。商業指定区域では、建蔽率80パーセント、容積率500パーセントと言う場合がある。商業指定区域であったら、容積率を最大限利用して床面積を最大にしなければどうしたってお金が儲からない。だから、同じ用途地域には、ほぼ似た様な容積率を持った建物が群生することになる。

斜線制限と同様にこの「建蔽率」「容積率」もどちらかと言うと厄介者扱いされがちではないかと思う。しかし「容積率」「建蔽率」は、その土地の社会的状況つまり、その場所が人々によりどのように利用されるかまた利用されているかにより決定される。(行政からの決定もあるが)。

GAE-houseが斜線制限を完璧に実行した結果あのような形態を生んでいる。これを、考慮すると、「建蔽率」「容積率」を徹底的に実行したらそれはそれで、その場所の地方性を表現してくれるんじゃないかと思う。

現在あるものとしては、商業指定区域のオフィスビルあるいは、高層集合住宅がそれに近い。

03T3041J 清水右一朗

都市の民家→超高層建築

 都市というのはその明確な定義はない。都市にはそれぞれ都市化してきた過程によって都市性は個々に異なると思う。唯一共通していることは、都市は人口密度が非常に高いということだけである。そしてその人口密度の異常な高さの対策として建築の高層化がされてきた。そのときに生まれたものとして法律の緩和があげられる。
 法律に関しては、先生が授業でおっしゃっていたガエハウスのような手法で場所性を表現していることがあげられると思う。その他に、超高層建築がいままで法律で束縛されていた高さから解放されたという意味で場所性をあらわしていると私は考えた。それは単純に高さというだけでなく、それに伴う社会問題によって都市性をあらわすシンボリックなものになったとおもう。
 しかしながら、現在の都市は、さまざまな要因によって都市=人口密度という概念はなくなってきている。だから、都市性は社会問題に関する事柄にシフトしつつあり、建築は社会に対する批評や批判を表現することによってそれが都市性をあらわすことになるのではないか。

03T3068A
梨本耕平


きのこが共同体の一部であり、その場所において土着的であること。
そのように考えると、都市におけるきのことは都市の中心として機能するオフィス(高層)ビル群だと思います。

なぜなら、単純に上へ上へと伸びていく姿がきのこの様であること。
田舎のきのこがその土地の気候・風土、生活の営みから生まれたように、都市での営みが経済活動と考えると、都市のきのこはその営みから生まれたものと考えるからです。

また、多くの都市においてきのこの集まりがその都市の顔となり、それぞれがある種の伝統的なものとして機能しているように思います。

そして、生える土地によってきのこが異なるように、それぞれの土地で生えるきのこはすでにその地方性を表しているものと考えます。

03t3073g
野崎慎吾
都市部に存在する、土着的建築として、私は東京の街をあげたいと思う。東京という街はそれぞれ違う土地でまったく違う表情があると思う。それはたっている建物ないし、建物の配置等々によっていろいろな地域の顔が形成されるのだと思う。いろいろな顔を持つ東京で私が上げたい地域は銀座、原宿である。
 名前を聞いて想像つくかもしれないが銀座→アダルト、原宿→ヤングというイメージがあると思うが(実際にそうであると思うが)そのイメージというものは店舗デザインが躊躇にあらわしているとそれぞれを歩いて感じる。原宿は主に洋服屋が多くとおりにこれでもかとばかりに様々なお店が並んでいる。一見統一性のないそれぞれのお店の個性を強調した感じがするが、開放感という一点に関しては統一されていると思う。これはお客がぱっと入ってぱっと出れるように仕掛けている結果だ。これが入りやすい、気を使わないといった空気を生み出し同じ空気を感じた若者が自然と集まりこういった地域の顔が生まれたのだと思う。
 一方、銀座はというとLOUIS VUITTON、HERMESなどの店舗があるのだが原宿と違って一つ一つが散りばめられる様に配置されていてファサードは開口部は入り口だけといったように対照的ではあるが無機質な感じが出ておりしかしながら配置や店舗の内装含め上質な建築、空気が形成されており、その結果マダムなどが集まるようになったのだと思う。
 このように店舗ひとつに関してもその地方性(都市性)を表現できる、作り上げられる要素が十分にあるのだと私は考える。

03T3100H 望月翔太

都市のきのこ:ビラ配りの人、テレビ局・編集局

高校か中学の授業で、都市の産業は「編集業」みたいなことを習った気がする。編集業が発達するということは、それだけ編集する要素である「情報」が都市に集まってくるということである。この情報量について考えてみたいと思う。

現在情報化社会と言われ、テレビ、携帯電話、インターネットと数多くの情報獲得ツールが普及している。これらを使えば一般的な情報ならほぼ手に入る。その情報を編集・発信しているのが都市にあたる。テレビ局・編集局などは都市部以外にはない。きのこである。それらに限らず各会社の本社ビルは都市部に建っている。これらの建物はそこで情報を収集、編集、発信している。
よくテレビ番組でアンケート調査などを行っているが、簡単なアンケートなどは大抵都市部に住んでいる、または、たまたまそのとき都市にいた人を対象に行っている。もしかしたら番組をやりやすいようにスタッフが勝手に作っているのかもしれないが…。
編集した情報を人々に見てもらうために広告・宣伝をする。大きな看板を出したり、駅前でビラを配ったり、電波ジャックなどなどいろいろな方法で私たちに呼びかけてくる。このビラ配りの人もきのこ。また広告・宣伝の大きさ・量が都市の規模を量るものさしになる。

上で挙げたきのこ達は地方(民家があるような場所)には生えないものである。そのきのこ達が生えるためには「人」という栄養分が必ず必要になる。「人」が多く集まるところにきのこが生え、そのきのこを「人」が食っている(利用している)。当たり前のことだがなぜか変なもどかしさを受ける。言い換えれば「人」はきのこを食うために集まっているのである。きのこパーティー開催である。利便性を追求している面で非常に合理的だと思う。そう考えると、この「食うために集まる」という利便性の追求が、都市の地域性を表現した建築、つまり都市のきのこを生み出しているのではないかと思う。

02T3051B 土屋光司

都市の土着性は建築そのものというよりは建築に具わっている精神にあるように思う。都市を、そして建築を形づくっている要素はやはり人間であり、その人間が都市の中に埋め込んだもの、すなわち土着性は「変身」である。ここで「変身」と表現したことには意味がある。変身には元の姿が存在するが都市はその元の姿というものが非常にわかりにくい。それは都市があらゆる個性を持った小さな欠片の集合体であるからである。また、それらのどれが元の姿なのかわからないのと同時に、欠片一つ一つが独自に変身を繰り返しているという側面も持っている。確かにその欠片一つに注目してみればそこには土着的建築が息づいているが、都市の力はその土着的建築をも軽々と飲み込みこんでしまい一つの胃袋の中に収めてしまう。だから外側から一見しただけでは都市の土着性とういものは見えにくいのである。そして結果として都市は混在を生んでいるのである。それの最たる姿が首都東京であり、世界のトウキョウである。あそこまでmixで何でもありの都市だからこそ人を引き付ける魅力的があるのだと思う。簡易性、フレキシビリティー、利便性、多量性、効率性など時代が求める一種多様性とでも言うべき建築のあり方が都市の民家であるのではないか。

03t3080k
平岩 宏樹

都市の中のきのこ。それを考えるときに都市のとらえかたとして2つある。マクロに見るかミクロに見るか。マクロに見たら都市という大きなくくりの中で農村部と対比した形での現れるもの。つまり、都市部においては共通の事項。ミクロに見たらその都市においても独特の土着の感性からなるもの。都市と都市で異なっているもの。
 まず、マクロな意味での都市のきのこについて考える。都市部は人口が集中し、様々なニーズがある。多くの企業の仕事場などもある。そのため、建築物に対するニーズは高い。狭い土地になるべく広く、快適な場を作るか、といったことを常に考えなければならない。そのために、都市部では高い建蔽率・容積率に支えられた高層ビル群がひしめいている。必要から生まれてきた必然的な形としたらそれらはきのこになり得る。その情景はそれらの建物が経済性の中で作られている以上、都市部では共通していることである。また、都市部は歴史的に交通の要所に出来上がってきた。そのために、広い道や、港などが存在している。そこに集まるもの、それを売りさばく市場、そういったものも都市独特のものだ。人、モノが集中することによって、そこから発信されることも多い。
 また、ミクロな面で見ると、それぞれの都市を象徴したような建物になる。私はここで、例として名古屋にあるオアシス21を挙げたいと思う。この建築は良くも悪くも名古屋らしい。私は、1年間だけ名古屋に住んでいたが、そのときに思った名古屋圏の人の印象は派手好きで、ブランド志向。みえっぱり。(名古屋の方申し訳ないです)といったことをとても思った。オアシス21はそんな名古屋にぴったりといえる。
上空に水面をつくるとはいかにも直截的なアイデアなのだが、「水の宇宙船」と名付けられた地上14mの高さの楕円形の水面は、周辺のビル群やテレビ塔を映し出し、記憶に残る風景を形成している。これらの形態を一言で言うと、大屋根を載せたサンクンガーデン建築だ。そのすべてを包み込むような大規模建築。また、うちから出るものだけでなく、その圧倒的なファサードをみた瞬間に名古屋らしいといった感情に浸った。ダイナミックなファサードが先にあって機能が後から付随している。見栄を前面に押し出している。屋根には水まで張ってある。まさに、今伸び盛りの名古屋の象徴だ。
また、機能面でもこの建物はきのこを感じさせる。イベント広場は、縦横に拡がる日本最大の地下街の動線を地上へと導くことにも成功しているし、名古屋の暑い夏には水を張った庭園は涼しく感じる。今ではすっかり名古屋人の憩いの場となったそうである。住んでいる人の気質を表したような建築も都市におけるきのこになるのではないかと思う。

03t3089c 松田大作
「きのこ探検隊」
 それでは、今から「都市のきのこ」を採りに出かけたいと思います。ではまず、都市きのこがいっぱい生えていそうな東京に出かけようと思う。長野からだと新幹線ですぐだから。長野からだと、上田市、軽井沢、群馬、埼玉、を通って、東京へ。なんか急に都会になった気がするなあ。やっぱり東京は人が多い。あまりにも大きいビルが、自慢げに並んでいる。人々は足早に歩いている。何かを強制されるように。

おっといけない、都会きのこを採りに来たんだった。まず、都会きのこが生息していそうな新宿から探そう。都会に生えているきのこの種類っていったいどんなのもがあるんだろう。地方のきのこが民家なら、たぶん都会きのこって、ビルだろうな。地方きのこのって、その地方の気候や、そこで採取できる材料を使って簡潔かつ合理的に造られ、それが受け継がれていくから、伝統になって、こういったことが地方きのこの胞子となって、地方きのこができていくんだろうな。でも、新宿にはこういった伝統もないと思うし、なんか混沌として、ビルばっかりだな。百貨店、オフィスビル、ショップ、カフェ、住宅など。なんか、人間が土地に機能という胞子を植えつけ、そこに都会きのこが発生した感じだな。そもそも、新宿って、江戸の一部で、ちゃんとした町屋が並んでいたんだろう。しかし、明治、大正、昭和と時代が流れていくにつれて、だんだん今の都会きのこが生えてきたんだと思う。ということは、時代というものが、強制的に人間に土地に対して機能を植え付けさせて、ある単一の機能を持った都会きのこが発生したんだろう。だから、都会で土着性、地域性を持った建物はきちんとその時代性をあらあわしているように思う。

03T3026E 勝 良介

都市部に存在する土着的建築 → ホームレスの家、都市部の不法占拠街、
 
 「ホームレスの人々は実に様々な素材を巧みに利用している。段ボールや布、スーパーマーケットの手押しかご、捨てられた家具や企業などから出る大量の紙。(中略)ホームレスの人々も即席の家を造るだけでなく、花を飾ったり、木ぎれでギターを作って大都会の真ん中にあるささやかな居場所を暮らしやすく工夫していた」 1999 3月5日付『日本経済新聞』文化欄「路上の住まい/工夫拝見」

上記はサンパウロ総合大学の建築学者が、新宿などで二ヶ月過ごし、ホームレスの住まいの研究をした記事であるが、私は、ダンボールハウスが都市部に存在する土着的建築ではないかと考えた。

貨幣経済の発達と賃金労働者の登場によって、労働者は仕事を求め、農村部から都市に集まり、大都市を形成した。市民は土地から開放されたが、新たな貧富の格差が生じた。長引く不況の中で最低限の暮らしは、人、仕事が集まり、大量の食料やモノが消費され、ゴミとして排出される都市でのみ発生し、都市でしか維持できない。都市のキノコとしてのダンボールハウスは農村に生息することはできない。

同様に、ブラジルの大都市では、不法占拠が土地利用上の大きな問題となっている。土地を持たない人達が河川敷などに掘っ立て小屋を建てて、そのまま住み込んでしまい、一夜にして町ができる現象がよく起こるという。これも、都市が都市であるために発生する都市特有の建築形態ではないだろうか。一方で、こうした仮設的な建築は、坂茂の「紙のログハウス」といった可能性を秘めている。

これら段ボールハウスのどこを見習えば都市にとってその地方性を表現できるかというと、そのアナログさや素人が建築に入り込む余地ではないかと思う。自分の住んできた家を一番理解しているのは、そこで暮らす住人だから、住人の手によって建築は普請され続けられるべきである。同様にして、都市は建築家や行政ではなく、そこに住む市民のものだから、専門家とともに住民たちの創意工夫が入り込めば、都市にとってその地方性を表現した建築ができるのではないかと思う。

民家がきのこであるゆえんとして、その敷地近郊で産出される木材を使いその土地の気候に合わせたつくりをしているということがあげられる。例えば長野のような雪国では積雪に備えた造りになっており、九州では風通しが重視されている。それゆえに民家はどこからどう見てもその土地に根ざした土着的きのこ建築となっているわけである。しかし、これは、意識してこうなったわけではない。民家の造られたじだいでは交通の発達していないため敷地近郊で産出される木材を使わなければならないし、現在のような設備もないためその気候にあった造りをしなければならなかった、必要性があったからである。この必要性が民家がきのこである必然性となる。
都市における必要性、必然性とはなんだろうか?望月君の書いていた「ビラ配りの人、テレビ局・編集局」山田さんの、「建蔽率」「容積率」もこれにあたると思うが、自分は違う考えをしてみた。テナントを無くしたビルはどうだろう?
現在民家はほとんど見られない。民家が民家の形を成す必要性が時代が進んで行くことで失われたからである。バブル期に作られたはいいが、現在となっては使われていない・・・。そんなビルは全国どこの都市にだって存在する。現在となってはその無計画性を指摘されるが、建てられ当初はそれが時代の流れであり必然的であったのではないだろうか?全国どこにでも存在するというところが、その必然性を表しているように思える。景観などを考えれば美しいものではないが、日本の都市を表している、きのこであると自分は考えている。
日本の民家再生が今日よくきかれる。きのこである民家に現在の生活に見合った機能をあたえることで、その土地に生えたきのこが残されている。ビルの作られた当初のように景気の好くない現在、ビルを壊し新しいビルを建てるといったことは行われにくくなった。前回の講義にあったような「古くなったビルを住宅に」と言った現在の需要に合わせたコンヴァージョンをなしていくことで都会のきのこも残されて行くのではないだろうか。

03T3027C  兼子 晋

都市の民家。即ち都市におけるきのこ。それは「建築技術」ではないか。
都市を考えたとき、そこには多くの人がいる。多くの人が集まる。だからこそ都市は発展する。だからこそ都市は成長し続ける。変わり続ける。これは時代の流れとともにそうなるものである。とは思うがそれは断言はできない。変わらなくても都市であるし、変わっても都市である。今の時代、都市にはめまぐるいいほどの情報や物が集まる。様々なものの発信の地であると感じる。都市についてはこのくらいにしておこう。
 さて、私が都市を訪れたとき思うのがその建築物の大きさ。駅を一度外に出れば視線が否応なしに上に。不思議と何度訪れてもそう感じる。また建築物の形状。確かに面白い建築物がある東京などは特にそう感じる。「すげぇな・・・」の一言。と考えたとき、それは建築技術が要因なのではないか。今の建築技術は圧倒されるものが多々ある。そこには構造であったり、素材であったり色々である。その技術があるからこそ今の住宅や高層建築物、店舗などが建つ。自分のこうしたい住宅だって今の技術があるからこそ建つ。それによってその都市に住む人々らしさの都市に変わっていくのでないか。それは都市によって様々でそこから都市が発展することもある。だから私は「建築技術」をきのこと捉える。
 それは地方で言えば、地方の建築技術だからこそ民家というきのこが建つ。それが地方性となる。実際に民家というきのこが生えている。しかし都市における建築技術を見ればそうはいかない。その建築物の形状や大きさ、素材、構造・・・どの点を見てもそれは地方性と異なり様々。つまり地方には地方の、都市には都市の建築技術があり、それが都市の都市性となる。これは都市のきのこになりうるのではないか。というよりそれをきのこの元ととして考慮すれば、これからの都市の中にもっと多くのそして様々な種類のきのこが生えてくるのではないか。

03T3027C  兼子 晋

遅れてすみません。
都市の民家。即ち都市におけるきのこ。それは「建築技術」ではないか。
都市を考えたとき、そこには多くの人がいる。多くの人が集まる。だからこそ都市は発展する。だからこそ都市は成長し続ける。変わり続ける。これは時代の流れとともにそうなるものである。とは思うがそれは断言はできない。変わらなくても都市であるし、変わっても都市である。今の時代、都市にはめまぐるいいほどの情報や物が集まる。様々なものの発信の地であると感じる。都市についてはこのくらいにしておこう。
 さて、私が都市を訪れたとき思うのがその建築物の大きさ。駅を一度外に出れば視線が否応なしに上に。不思議と何度訪れてもそう感じる。また建築物の形状。確かに面白い建築物がある東京などは特にそう感じる。「すげぇな・・・」の一言。と考えたとき、それは建築技術が要因なのではないか。今の建築技術は圧倒されるものが多々ある。そこには構造であったり、素材であったり色々である。その技術があるからこそ今の住宅や高層建築物、店舗などが建つ。自分のこうしたい住宅だって今の技術があるからこそ建つ。それによってその都市に住む人々らしさの都市に変わっていくのでないか。それは都市によって様々でそこから都市が発展することもある。だから私は「建築技術」をきのこと捉える。
 それは地方で言えば、地方の建築技術だからこそ民家というきのこが建つ。それが地方性となる。実際に民家というきのこが生えている。しかし都市における建築技術を見ればそうはいかない。その建築物の形状や大きさ、素材、構造・・・どの点を見てもそれは地方性と異なり様々。つまり地方には地方の、都市には都市の建築技術があり、それが都市の都市性となる。これは都市のきのこになりうるのではないか。というよりそれをきのこの元ととして考慮すれば、これからの都市の中にもっと多くのそして様々な種類のきのこが生えてくるのではないか。

03T3043E 新宮敬章

提出が遅れて申し訳ありません

 今回の課題は都市性ということですが、まず都市は人口の密集や大規模な道路、様々な景観、計画的な開発というような都市の特徴というような定義みたいなものがあります。またそうした中で、都市は魅了的で人を吸収して成長してくものであると思われるますから、その中で民家のような土着性を都市で獲得していくことというのは普通に考えても難しいと思われます。そこで今回は、都市に住む建築家が建てた住宅を都市性として挙げたいと思います。絶えず人が出入りしており、都市という人の集合体、つまり社会といっても言いぐらいの巨大で密な集合体に対しての個人、つまり建築においての住宅は弱者であると思います。そこで実際私が分からなかったり、知らないことは多いとは思いますが、多くの建築家は都市に対してのスタンス、もしくは解を模索していく中で、今の都市に対して嘆いていることと思います。そいった嘆きの中で、住宅を建てるということは今の都市にたいする考えの表れというか、解の提示ではないでしょうか。当然ながら、個人ありきの社会ですから、そういった様々な景観の中で建築家の住宅の役割は最小単位としても大きいと思われます。民家の発生が土着的、つまり個人の建築家が建てたわけではなく、きのこのように20~30個の自然発生的に産まれたと定義したときに、民家のように建築家の建てた住宅が都市に増えていくのだったら、あるいは単純に建築家の住宅が増えていくのなら、という願望があるのではないかと思います。ですが、実際はそのようなことにはなりえません。だから都市性になりえる建築と言った方が的確なのかもしれません。しかし、建築家は意識的にも無意識的にもそのような願望を持っているのではないでしょうか。しかもその願望は、今現在の都市でにしか成り立たない、だからこそ建築家の建てた住宅は都市性を表しているのではないでしょうか。

02t3045h
田中淳
都市に住み着いているきのことはなんだろうか?田舎はなにやら全部きのこっぽい。それはたぶん間違いないだろう。田舎では自分たちのことを考えて生きていけばよい(いいすぎかも)ので自然と自分たちのことを考えてできたことが脈々と自然に受けつがれていったのだろう。
かといって都会も以前は田舎であったのは間違いない。かつて田舎だった場所が東京やパリやNY、シカゴと呼ばれるものになっていったのである。都市特有のものにはそういった時間の経過と共に発展してきた様がいろいろなところに垣間見ることができることだと思う。つまり時間のズレがきのこである。たとえばオフィスビルの横に築100年とかの住宅があったり、昔からの橋の上に高速道路の高架があったりなど・・・。
このズレは時間の経過の仕方が特徴的であるから発生するのではと考える。都市と田舎には絶対的な時間の経過の差がある。田舎は平坦とした時間軸を生きてきたように感じるし、都市は発展するにつれてどんどん加速する時間軸を伴って成長してきたのだと感じる。特にそうした時間軸と経済性が日本の都市では見て取れる。
こうしたズレはこの前のコンバージョンのときにも言及したように利用することができる。
その都市にはそれぞれの時間軸がありそれに対して新さや、違った読み解き方を重ねていくとより土着的であり、そして魅力的な創造に近づけるのではないか?

坂牛

先ずみんなの話を分類すると
①都市的な建築を挙げて説明する
②地方対都市の構図で都市を非難する
③都市は素敵とオマージュに走る

これらは、このての問いへのスタンスとしてはどれも駄目。

先ず、都市から何を見習うことができて、それは何故か、そしてそれは設計の教えとしてどれほどの表現の力を持つかと発展させると模範解答に近づくのである。

そういう目で見て今日は合格は無いが、合格に近いものとして二つ挙げる。

一つは泉さんもう一つは中根君。

前者は都市の本質を様式といい本来それは固定的概念であるはずのものが、都市では常に更新を強制されているものとして捕らえられている。そしてその更新を余儀なくされた様式を流動性という言葉で呼んでいる。リキッドモダニティとも称される昨今のものの移り変わりの速さはもはや避けることのできない状態であり、この流動性という言葉はそれを言い当てている。というところまでは良かったがこれをどう建築に応用できるかまでの見通しがあるともっと良かった。
中根君の組み合わせの妙というのはなかなか面白い。この組み合わせとは都会で余儀なくされるコンプレックス(複合)建築において、様々な用途の形式が後天的にある整合性を持たされてしまうというその現実を都市の現実と見る見方である。これはリアルである。正しい。そしてそのリアルが都市の不思議なヴォキャブラリーを作り上げているのも事実である。しかしこれももう一つ突っ込んでそれをどう逆手にとって建築化していいけるかその展望を聞きたかった。
しかしいずれも荒削りだが、その着眼点の良さを買って坂牛賞を差し上げる。

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