スケルトン?
ブラックボックス?
ケネス・フランプトンの『TECTONIC CULTURE』という本がある。2年程前、ある大学院のゼミで半年かけて輪読した。毎回図書館に皆で行き、出てくる建築家の作品集から、ドローイングから漁りながら、久しぶりにモダニズム建築家の勉強をした。なかなか面白い本だったので、事務所で開いている月1の勉強会でも輪読した。二度ほど読んでみて、確かにフランプトンの信念のようなものが伝わってくるのだが、どうしても腑に落ちない部分がある。
何故テクトニックであることがいいことなのか、その一番大事といえば大事なそのポイントがどうしても腑に落ちなかったのである。
しかし、二度の輪読も終えて少したったあるとき、その昔、素材をテーマとした雑誌(GA素材空間)の企画で考えていたことがテクトニックにオーバーラップしてきた。
素材論で考えていたことの中には、技術哲学、大袈裟に言えば文明論のようなこともあった。現名古屋工業大学の学長である柳田博昭先生からはテクノデモクラシーということばで誰でも分かる技術の重要性を強くお教えいただいた。その中には、技術をブラックボックス化してはいけないという教えがあった。
建築にもその話は共有されることがありそうだ。ローテクと言われながらも建築は大学の工学部で教えられるものであり、いろいろな側面から、工学的な研究成果が導入され、建物の様々な部位にブラックボックス化して侵入してきているのである。壁の内側、天井裏で、床の下に、何が起こっているか?使っている人でそこを覗いたことがある人はいますか?そう、柳田の教えに従えば、そういうところを隠して何かおこっても誰も何も治せないのでは駄目だということなのである。
技術のスケルトン化があるべき技術の姿の一つであり、柳田の推奨するテクノデモクラティック建築である正倉院とフランプトンの主張するテクトニック建築がどこかで重なって見えてくるのである。