世界中にデコン建築の亜流が建ち始めた。日本も例外ではない。近所の工事現場で龍が天にも昇るような完成予想パースを見た。銀座の一画で津波のようなビルに出くわし、原宿に氷山が崩壊したようなガラスのビルを見た。こうしたモンスターのような建物を見ながら、一体これらの意味するものは何か考えみた。
モダニズムは視覚の時代だった
モダニズムは視覚の時代であると言われる。建築においてはコンラット・フィードラーの助言によりアードルフ・フォン・ヒルデブラントが『造形芸術における形の問題』(1893)iを著し、視覚に立脚した空間の重要性が謳われた。そして美術史上ではアロイス・リーグル、ハインリッヒ・ヴェルフリン等が視覚によって知覚されるものを批評の対象とすることを基礎としたii。こうした視覚の確立はモダニズムというジャンルの純粋自律性を旨とする芸術運動において加速される。そして建築の固有性である3次元性が視覚性に裏づけられた時、空間概念が確立された。一方このモダニズム運動は絵画においては視覚に基づく2次元性を目指すものとなりクレメント・グリンバーグに牽引された抽象表現主義としてアメリカ戦後美術の原動力となる。
しかしこうした視覚に裏付けられたモダニズム建築・芸術運動は20世紀後半に瓦解することになる。建築では既に20世紀前半にハイデガーによって指摘されていた空間から場、物、へというテーゼ がバシュラール、ノベルグ=シュルツ等 によって60〜70年代に建築へ翻訳されることで多くの建築が視覚性に根ざしたフォルマリズムに一定の距離をとり始めることとなる。また絵画においてもグリンバーグが提示した2次元的な視覚性はもはや効力を失い様々なアートが百花繚乱の状態となった。
近代を支えた三つの視覚
カリフォルニア大学バークレー校教授マーティン・ジェイは「近代性における複数の『視の制度』」と題して興味深い論考を著した。彼は近代とはある特定の一つの視覚によって支えられてきたものではなく様々な視覚の錯綜の上にあるとした上で、概ね次の3つの視覚によって構成されていたのではないかと述べるvそれらは1) デカルト的遠近法主義、2)バロック、3)オランダ17世紀美術の視覚である。これらのうち最初の二つは比較的頻繁に建築の議論に引き合いに出されてきたものであるが、3つ目は美術史上少なからぬ物議をかもしたスヴェトラーナ・アルパースの『描写の芸術』viによって開拓された新たな視覚性に基づく新鮮な指摘である。アルパースは17世紀オランダ美術に対して、それまで用いられていたイタリア美術を評価する視点から脱却して新たな評価軸を提示した。
その視点をやや乱暴にまとめれば、物語性ではなく描写性(即物性)、少数の大きな対象ではなく複数の小さな対象、確固たるフレーミングではなくその曖昧性、物体の形象ではなくその表面の物質性などである。そしてそのような変化の原因として当時のオランダにおける科学的な発見発明(顕微鏡や望遠鏡などの光学的な発見発明)に基礎づけられた文化潮流を提示するのである。
ジェイによって列挙されたこうした3つの視覚はルネサンスまで含めた近代建築を一通り説明するものと言えそうである。主体の存在が疑われなかった19世紀までの様式建築はデカルト遠近法的な視覚の所産である。またそれがオランダ美術の持つ即物性、複数性などによって瓦解したものがモダニズム的視覚であろう。更にモダニズム建築の流れの中に時折見られる表現主義的建築はバロック的視覚の表出である。そしてオランダ美術の持つ形象から表面の物質性という視覚の変容はここ10年くらいの我々の身の回りに起こってきた視覚変動を予期したものと言えそうである。
フェルメール的視覚の意味するもの
オランダ美術の形象から表面物質への視覚変更が現代的状況を読み解くヒントであるのは、もちろん現代建築の一つの特質である表面性との関連性においてである。この特質については、例えばアリシア・インペリアルはNew Flatness Surface Tension in Digital Architecture(2000)viiにおいて「ファサード」に代わり「サーフェイス/表層」をあげ、デジタル・アーキテクチャーにおける「フラットネス」を検証した。またモーセン・ムスタファヴィとデイヴィッド、レザボローはSurface Architecture(2002)viiiにおいて建築表面には技術と意味の2重構造が現れることを説明している。現代建築の表面への興味はこうした設計、施工上の技術進歩にも起因するのだが、上述オランダ美術的視覚の現代における浸透を仮定しながら読み解いていくことも可能と思われる。
様式建築がファサードと言う概念のもとにある一つのエレベーションに強いシンボル性を期待したのに対して、モダニズムはこうした強いファサードを消失させた。しかしそれでも尚モダニズム建築がある印象的フォルムをその建物の顔として意図的に作り上げてきたことは明らかであろう。そこにはフォルムの価値を作り手受け手の双方が共有していた。しかしポストモダニズムを経過し20世紀も最後の10年にさしかかり発生したいくつかの事件―大震災や、オウムのサティアンは、デコンもミニマリズムももはや現実に勝る訴求力を持てないことを露呈したと言われている。こうした状況の中で我々は徐々にフォルムへの感覚を鈍らせてきているように思われる。言い換えれば、現代社会はフォルムをゲシュタルト的に形成する輪郭線に強い意味を見出せなくなってきているのではなかろうか。
それはシンボリズム崩壊後の挙句の果ての状況かもしれない。それはフェルメールに代表される17世紀オランダ美術における視覚に類似する。すなわち対象の物語性を生み出すアイコニックな輪郭線から対象の自然性を描写すべくその表面に移動したその視覚である。
そうした視覚状況において、建築の輪郭線は敷地、法律、予算といった建築に外在的な要素によって他律的に決定されるか、全く恣意的な形態に暴走するか、そのいずれかに導かれるのである。
20世紀後半にハイデッガー的な指摘が建築に導かれ、視覚に裏づけられた空間が瓦解した現在、対象のゲシュタルト的な全体形態ではなく、その輪郭線に包含された臓物への興味が浸透してきている。臓物を眺める表面視覚、それは表面への興味であると同時に輪郭への無関心の裏返しでもあると思われる。つまり冒頭記したモンスターの跋扈は一見そのフォルムに注がれたこだわりのようでありつつ、逆説的だがこの無関心の果ての姿とも見えてくるのである。
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i ア-ドルフ・フォン・ヒルデブラント『造形芸術における形の問題』中央公論美術出版社1993原著1893
ii アロイス・リーグル、長広敏雄訳『美術様式史』岩崎美術社1970(1893)、ハインリヒ・ヴェルフリン、海津忠雄訳『美術 史の基礎概念』慶應義塾大学出版会2000(1915)
iii M. ハイデガー『存在と時間』中央公論新社2003(1927)
iv ガストン・バシュラール、岩村行雄訳『空間の詩学』思潮社1969(1957)、クリスチャン・ノルベルグ=シュルツ、加藤 邦男訳『実存・空間・建築』鹿島出版会1971(1971)
vマーティン・ジェイ「近代性における複数の『視の制度』」、ハル・フォスター編、榑沼 範久訳『視覚論』平凡社2007 (1988)所収
vi スヴェトラーナ・アルパース、幸福輝訳『描写の芸術―一七世紀のオランダ絵画』ありな書房1993(1983)
vii Alicia Imperiale New Flatness: SuSurface Architecturechitecture Birkhauser2000
viii David Leatherbarrow Mohsen Mostafavi Surface Architecture MIT Press 2005
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初出:『10+1』 vol49 2007
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