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講義
見学2 I邸
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introduction
第1講 anonimity
第2講 parts
第3講 capacity
第4講 form
第5講 smoothness
第6講 tectonics
第7講 color
第8講 intention
第9講 site
第10講 meaning
見学
見学1 House SA
見学2 I邸
見学3 連窓の家 #2
見学4 Gae house
参考文献
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O.F.D.A. associates

岩岡竜夫 選考結果と感想

坂牛さんから事前に前回のSAレポートが送られ、それを読ませてもらったこともあり、正直言って、彼らは今度はどう批評してくるだろうかという期待が半分と、今回に関しては美的解釈不能に陥るのではという不安が半分であったが、新鮮な反応を見いだすことができたのでよかった。期限通り提出されたレポートに対して、あえて甲乙を順につけていくとすれば以下のようになるだろうか。

  • 「都会の陥穽と戯れる」桑原俊介
  • 「裏も表」若宮和男
  • 「軽・快な空間としての可能性」下田理
  • 「近いようで遠く、遠いようで近い空」天野剛
  • 「都市内生活という実験」森功次

「都会の陥穽・・」 批評なのかエッセイなのか、よくわからないテクストを通じて、逆に何かが伝わってくることがある。戯れ、陥穽、いなす、自棄(やけ)、といったアクのある単語の羅列表現の中に、都市に放り投げられた生身の身体とその快楽を感じた。シャンペンの栓が空高く舞い上がったあの瞬間が鮮やかに蘇る。また「都市の解読作業(デコダージュ)は都市への感受性に依存する」(プロセスアーキテクチュア83<パリ:メトロポールの明日>より)という多木浩二の文章を思い起こした。カット写真のセンスもいい。岩岡賞として拙書「街角のちいさいおうち〜住まいが風景になるとき(東海大学出版会)」を贈呈。

「裏も表・・」 対照的にきわめて精度のよい分析がなされている。つまり、表裏という対概念(=尺度)を仮説立て、それを否定することによって、デザインの意味を細かく検証していく。ここでの「straightforward=表裏のなさ」とはテクトニックな「透明性」と解釈していいのだろうか。欲をいえば、さらに進んで「表(見える部分)と裏(見えない部分)の同時存在」、たとえば後ろを思いつつ前を見ること、路地を背後に感じつつ街路に向き合うことなど、こうした現象についても何か言及してほしかった。なぜならそのことを家の中できっと体験したはずだから。正面の写真はとても気に入った。

「軽・快な・・」 これも概念誘導型のロジックであるが、とにかく軽かった、という第一印象から始まっているのが面白い。SAとの比較の試みもなされ、建築と都市との繋がり方や距離感の違いを見いだしたは当然としても、「物を置くという前提がなかったのではないか」とまで言われたのは初めてで あり、あらためてSAの尊大さを感じる。

「近いようで遠く・・」 空との距離を設計すること、詩的なフレーズであるが建築の可能性の本質をついている。そもそも空には位置がないのだから、自分と空との距離など測定不能だが、そこに何らかのかたちで距離を与えていくことこそ、建築の役割なのかもしれない。

最後に「都市内生活・・」 だが、おそらく彼はこの住宅に、いたたまれない不快感を感じたのではないだろうか。しかしそれは単に都市への無防備性からくる「耐え」そして「疲れ」によるものではなく、設計者(=居住者)の、都市への抵抗の「しかた」に違和感があったからではないだろうか。彼のコトバを借りるなら、それは都市そのものへの抗いではなく「都市という概念との抗い」ということになるだろう。そこを起点にもっと語ってくれたら○○賞であった。


都会の陥穽と戯れる ――〈真剣/戯れ〉

桑原俊介

岩岡竜夫は、いなす。

腐れ葡萄に泡の浮いた質疑応答の空の下で、脳漿にも泡が浮いたように、質問はビル風の上昇気流に乗って鴨女の軌道を置き去りに、遂に白昼の月に助けを求める。月も目を覚まさぬ間に、質問は街路樹を掠め、鰻の寝床に挨拶しつつ、遂に隣接する土塀の絵画性に吸収される。質問は建築家の火照り気味の舌のプロペラに煽られて、飛翔の自由に躍り舞う。この自由。この軽やかさ。


それでも無心に書き留めた質疑応答のメモも、いまや、すでになくしてしまった。今や記憶と建築家の頬の紅ら味だけが僕に建築家の言葉を伝える。その言葉は、文字に書き留められるという拘留に耐えられぬほど、自由なのかもしれない。僕の脳裏に閃く言葉は、様々に表情を換える「実験」という響きだけである。

この都会に「挑む」ことはもはや不可能なのかもしれない。「低く住まう」というスローガンも、大地を持たぬこの土地には虚しく響く。「天候を気にしながら毎朝外気に接する時のリセット感、見られるようで見られないギリギリのプライバシー」と言った言葉も、閉じたブラインドを横目に、何か空虚な繕い感を漂わせる。自暴酒(やけざけ)を「故意に愚かな判断をするために飲まれた酒」と定義した三島は、この建築を自暴建築とは呼ばないだろうか。そんな礼を逸した虚妄が、泡混じりの僕の脳裏に、泡に浮かされては込み上げてくる。泡越しに見つめる双眸は、繕いを語る建築家の、笑みを湛える口元に小さな歪みを、探った。


されど歪みはない。歪みを繕った痕跡すらない。口元に翳りはない。笑いは、からりと乾いている。この建築家は真に自由なのである。「実験」は成功しようがしまいが構わない。ただやってみたい。どうなるか身を以て試してみたい。この無邪気な好奇心の発露に、繕いの解れ糸を探った僕の目の方が、よほど低級な天の邪鬼に囚われている。「都会というものは、いつも何かありそうに見せかける思わせぶりな建築である」という三島の言葉から、都会をその内部構造まで俯瞰した気になっていた僕の妄信が、もろくも自壊してゆく。都会とは、その矛盾をあからさまに露呈することで、「挑戦者」を誘い、しかも「挑戦者」を勝利の予感に酔わせつつ、懐の深いところで、遂に挫折へ導く強大な陥穽ではなかったか。「実験」という旗印のもと勇み挑む挑戦者に、いつしかとどめを刺す巧妙なる罠ではなかったのか。

だが、この建築家は、都会の陥穽に囚われながら、どこまでも自由である。

されど、建築家自身、「普通なら不便である項目を挙げたらキリがない」と告白し、都会に住まうことの困難を認めているではないか。だが、それらの困難は、「常に身体を刺激させつづけるこの小さな箱」乃至「快適性というものを超えた不思議な住感覚」果ては「身体が都市に混じり合い都市が身体を包容するあやふやな状態」という、正に「あやふやな」言葉に、「不思議な」価値観に、掴み難き浮遊感をもった軽やかな言葉に、建築家自身の自由によって、すべて還元(変貌?)されてしまう。大通り沿いに住まうことが、そのあらゆる過剰性によって、身体感覚(ヒューマン・スケール)を狂わす、むしろ身体感覚を摩滅させそれを無感応にするという事実を身を以て承知する僕に、そのような軽やかな言葉によって都会の困難を軽やかに肯定することなど到底不可能である。だが、建築家は、都会の陥穽に(恐らく「敢えて」)囚われながら、その囚われが喚起する不快を独特の価値観によって肩透かしし、囚われていることが開く新たな自由を、正に「実験的に」探っている。だがその「実験」には、都会の矛盾を披瀝しようなどという、熱の籠った「真剣さ」はない。都会の矛盾とその理想の間で揺れる煩悶者のもつ、相応の緊張はない。正に建築家は、シャンペンの気泡の軽さをもって、都会の矛盾と戯れている。この自由。この軽さ。

かの如く、「挑戦」ではなく「戯れ」を仕掛ける挑戦者(?)を、都会はその懐の深部に於いて、挫折の針で刺し殺すことが果たして出来るのだろうか。「柔能く剛を制す」ではないが、軽やかに捉え難きものを、都会はその懐にしかと捉えることができるのであろうか。建築家は、蒟蒻のように身をくねらせ、毒の針をいなし、再び、自由な価値観の翼を以て、都会の縁取られた青空に飛び去るのではないか。「都会というものは、いつも何かありそうに見せかける思わせぶりな建築である」という三島の「真剣な」言葉も、建築家に掛かれば、思わせぶりであることも、それが建造物であることも全て承知した上で、手管男のように、その偽りの真剣さを偽りの真剣さで真剣に生きる演劇の戯れの内に、自由にいなされてしまうのではないか。自暴建築という言葉も、確信犯的な自暴が正しく理解されるならば、失礼を超えて、真の響きを湛えるのであろう。

建築家は、質疑応答の中で、ただ一度だけ、「この建築で、都市に風穴を開ける」という「真剣な」言葉を発した。このとき僕は、その笑みを湛える建築家の口元に、確かに「小さな歪み」を見つけた(風穴はいなされる)。

岩岡竜夫は自由である。岩岡竜夫はそれほどに自由である。




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