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建築のモノサシ

信州大学工学部社会開発工学科:学部2年 2005年冬


「NHK長野」を批評する - 優秀賞4点と竹内、坂牛による選評-

NHK長野放送会館 (1997)
設計 みかんぐみ
構造 形象社
施工 大成・守谷・飯島建設共同企業体
敷地面積 4,186.3平方メートル
建築面積 1,927.2平方メートル
延床面積 5,954.7平方メートル

NHK長野放送会館

建築のモノサシ2005年度後期レポート評


届いたレポートは2年生45編、3年生10編。5000字クラスのレポートは高校大学を通じて初めての長い作文だったと思う。ご苦労さま。

 

さて、これら合計55編を先ず一つずつ、要約を読んで、節題を追って、写真を見た。この時点で内容の概略はつかめるもので、内容があまりに陳腐なもの、小学校の社会科見学のように見たままを書いているようなもの23編はふるい落とした。そして残り32編を全文読み、もう一度読みたくなるような惹きつけるものがある以下21編を選択した(これらを竹内氏に送付した)。

清水右一郎、新宮敬章、岡悠志、樋川俊樹、篠澤朋宏、平田雪絵、桜井愛海、岡崎友也、草間康至、兼子晋、松田大作、松田龍一、中井大海、三森翔、赤羽利哉、宮尾真紗美、和田隼人、工藤洋子、久保田敏史、山田卓也、平岩宏樹

更にその中で主張が明快でかつその主張の表現の中に、建築デザインを深く考えていく上で重要であろう内容を含む下記の8編を佳作として選び出した。(順不同)

松田龍一 : 表現が直接的で素直で訴える力がある

三森翔  : 先天、後天を言い換えた、作為と偶然という言葉の選択がよい

赤羽利哉 : 建築の意味の追いかけが成功

宮尾真紗美: 建築のメタレベルのあり方に気付いたことを評価

和田隼人 : 普通という重要な概念の成立原因を良く考えた

工藤洋子 : 写真が良かった

中井大海 : 方向性という評価軸が形態と意味を考えていく上で面白い

久保田敏史: 徹底してアフォーダンスで読み解いたことを評価

山田卓也 : 建築の普通を多くの資料から追及した知識量の豊富さを評価

平岩宏樹 : 建築の境界のあり方を追求、他には無い視点であった

そしてこの佳作9点の中から以下2点を坂牛賞として選出した。

 

1席 平岩宏樹 「周りににじみ出る境界」

平岩君の論考は、建築と周囲との関係性を色とファサードのルーバーが生み出す境界性から考えようというものである。最終的に成功しているとは思えないが、建築を様々な外部との関係性の中に位置づけようと言う姿勢が重要であろうし、その関係性の因子として境界の様相に注目したのは的確であったと考える。

2席 山田卓也 「普通に見せるということ」

山田君の論考は昨今の建築アート界において重要な概念である「日常性とか普通」を用いてこの建物を解剖しようとするものである。もちろんこうした概念に気付くこと自体が批評の切り口として別に新鮮な訳ではないが、2年生として予想される知識量を上回り、現代建築のコンテキストをよく理解しているという意味での努力を認めたい。

 

さて一方上記21編を読んだ竹内氏に、1席2席をつけていただいた。竹内賞は以下の通り。

             

一席:桜井愛海「建築に求めるもの」

二席:兼子晋「ビジュアルとしての建築」

(選評は後日掲載いたします)

 

以上4つの受賞作から要約部分を取り除き全文を以下に掲載する。




坂牛賞一席

「周りににじみ出る境界」

03T3080K 平岩宏樹

1.  人を寄せ付けない外観ファサードと魅力的だった内部

私はNHK長野放送局が近くにあるのにこの見学会までこの建物を興味深く見たことがなかった。みかんぐみの設計とは知っていたが、なかなか足を踏み入れる気持ちにならなかった。常に外からボーっと眺めているに過ぎなかった。

長野放送局でNHKの担当職員の方に聞いた話や、みかんぐみの竹内さんの話の中では「この放送局は地域に開かれた放送局です。」や、「自由にいろいろな人に見学なり食事なりに来てもらえるように計画してあります。」と言ったような趣旨の言葉をたくさん聴いた。それだからコンペで勝ったのだと。しかし、自分では最初そうは思えなかった、外のルーバーは重々しさを感じ、人を寄せ付けがたく感じてしまった。それは私だけでなく、他の何人かの友達も同じことを言っていた。まず目につくのは特徴的なルーバーと塔のようなアンテナ部分だ。一見するとそこにばかり目がいってしまう。まずルーバーありきで1階部分がえぐられていて、ピロティのようになっているとか、その奥にエントランスホールがあることには気づかない。


写真1 正面からのファサード
(駐車場からの眺め)

しかし、足を踏み入れてみて自分が勘違いしていることに気づかされた。門をくぐる前から尻込みしていただけで門を一度くぐってしまえば開けたイベントホールやホールなどの魅力的な空間が広がっていた。門をくぐるという敷居が高いだけだったのだ。そして、建物内部(一部外部)は青で統一され、見る人の視線をいやが上でも惹き付ける。

ではなぜ敷居が高く、門のようなファサードにしたのだろう。問題は私たちの普段見ている(立っている位置の)視点の違いだった。私たちは普段前の道から放送局を眺める。しかし、当初ビックハットの前の駐車場は公園になる予定であってその公園部分(今の駐車場部分)から見ると、確かに門のように見えてNHKのえぐられたイベントホール部分にひきつけるものの存在を感じる。一階部分の全体が見えることによって、そこに立ち寄りやすくなる。いつも私たちが見て、この建物を感じている距離が近すぎたのだ。全体が見える位置に行くとこの建物の全体が見えてくる。

 

2.  共同体の“青”

さて、ここに私はこの建物を評価するモノサシとして箱と袋を出したいと思う。また、ここでこの箱と袋の定義、事前的か事後的かというのを、“そう作りたかったもの”=“設計者の意思で決められたもの”と“そう作る必要があったもの”=“目的を達成するためにはそれが必要だからできたもの”と読み解く。“そう作る必要があったもの”は周りの制限や環境によって事後的に決められているもの。そこにはそうしなければならない目的が存在し、その目的を達成するために臨機応変に形を変える(逆にそれによって、ある程度形が決まってしまうともいえるのだが)。また、“そう作りたかったもの”は設計者の最初の造形が反映されている。設計者が決めた造形でそこにさまざまな要素を組み込んでいく。それは内装、ディテールにも言え、最初からこうしたいという設計者の意思(それらをつなぐ概念)が全体を構成している。


写真2 青い空と青い壁面

そこでその基準でこの建物を見てみる。この建物は前のビックハットに負けないように正面はどっしり、しかし後ろは住宅地なので背面は低層に抑えている。つまり、あの形は周りの環境から影響されて“そう作る必要があった形”つまり、事後的に建てられた袋建築と言えるのではないかと思った。そう作るしかなかったボリュームの中に、設計者はあの独特なルーバー、背の高いアンテナ塔、壁面の青色などを“そう作りたかったもの”として入れている。つまり、袋の中の箱建築といえるのではないだろうか。

特に、あの青は空の色に合わせて作為的に入れようとしていると思った。実際に地下の見学スペースの壁紙は空に雲が浮かんでいる様子が描かれていた。設計者は空に建物を組み込むことを事前的に決めていた。なんとなく青ではない。それはちゃんとした主張の在る青。空を意識させる青を使うことによって建物と空が一体になって、いつの間にか共同体のようなつながった景色の空間になる。対して、外のルーバーは曇りのイメージ。曇りの日には同化しているかのように見える。

 

3.曖昧な青の部分

 先の記述で「空を意識させる青を使うことによって建物と空が一体になって、いつの間にか共同体のようなつながった景色の空間になる。」と書いた。しかし、よく見ると壁面に塗られている青は空の青よりもだいぶ濃い気がする。はたしてこれで空との共同体、空を組み込んだ建築になれるのか。壁に青を塗っただけで空を感じ、空を取り込めるというなら日本中にもっと青い建築が増えそうなものである。青い色を塗っただけでは空を取り込むことはできないのではないだろうか。いや、そもそも設計者は空を建物に取り組むことを目的として壁を青く塗ったのか。


写真3 曖昧な空と壁の関係

 やはり、私は注目すべきところを見誤っていたのではないだろうか。空を取り込もうとして青く壁面を塗ったのではない。見るべきところは空と壁面の境界、空の青と壁面の青の中間地帯であるのではないか。空を建築に取り入れようとしたのでも、建築を空と一体化させようとしたのでもない。空と壁面の境界を曖昧にするために壁面を青くしているのではないか。私がこのことに気付いたのはカーブミラーに写った放送局を見たときだ。壁面の青と空の青を一緒に同じ次元で見ていると発想できなかっただろう。なにかしらのフィルムを通して見たとき、新しいものの見方に気付く。ここで図3を見てみる。

これは放送局の北側にあったカーブミラーの写真だ。カーブミラーだけあって全体が歪んでいる。しかし、この歪みが大切だった。空と壁面の境界が直線で区切られていないことでより曖昧になっていることがわかる。壁の青色は空へ向けて緩衝地帯をつくることで、境界を曖昧にし、建物から空へ働きかけ、空から建物へ働きかけ、それぞれを曖昧にミックスさせている。お互いが影響しあうことで、壁の持つエネルギーを空に伝え、空のエネルギーを吸収しようとしている。そのため、空より深い青を使うことで空の青に負けない、影響しあえる関係を目指していると感じた。

まさに設計者はそのことを狙ってここに青という色を持ってきた。最初に青ありきではなく、空と壁の境界を曖昧にし、双方が干渉するということを目的として色を選んだ結果、必然的にそう作るしかなかった色ではないのだろうか。これはモノサシで言うところの袋にあたるはずだ。


4.周囲に揺らめく境界

 前の章を踏まえてこの建物全体を見てみようと思う。先の章ですでに青い壁については触れた。次に外観のファサードについて検証してみたい。正面ファサードを形成する主な要素は横長水平のルーバーと、アンテナ部分のついた塔部分だろう。ルーバーは稼動するわけでもなく、そこに据え付けられているだけで、あまり機能的な効果はあるとは言えない。実際、NHKの職員の方も夏はとても暑いと言っていた。では何のためのルーバーなのだろう。私は2章でこのルーバーは設計者が作為的に作りたくて作ったもの、つまり箱であるとした。果たして本当にそうだろうか。しかし、あのルーバーは必然的な意味があるように思えてならない。あそこにあのルーバーがあることで、何か意味があるはずである。あのルーバーがなかったらどうだろう。あの道沿いに3階建てのビルが建つのと同じことになる。たしかに、それは非常に圧迫感の在るものになってしまうだろう。そんなただの圧迫感の在るオフィスビルにしたくないという意味もあのルーバーにはあるだろう。


写真4 ビッグハットに揺らめくNHK

さらに、私は青い壁と空と同じようなことが、あのルーバーにも言えるのではないだろうかと思う。今度はビックハットに映った放送局で気がついた。図4の写真ではビックハットに放送局が映っているのがわかる。写真ではあまり鮮明に映っていないが実際はもっとくっきり見える。NHKの建物がそっくり映し出されている。設計者はこれも狙っていたに違いない。ただのサッシの窓が開いているだけだったらファサードがビックハットに映ったときにあまりにもインパクトが薄い。さらに、このルーバーについても境界を曖昧にする意味があると思う。それはルーバーのついている面とその手前の空間で、ただの窓だけの時より、見えるようで見えない部分といったような曖昧の部分が多くなっている。それは特に曇りの日にすごくよく分かる。建物がルーバーによって周囲と溶け込んで存在感がいつもより薄くなくなりながらもそのボリュームは大きく感じられる。また、晴れた日にいってもファサードと手前の空間に一種の揺らぎ空間のようなものを感じた。それは、ルーバーとその影、そしてルーバーの奥に隠れている窓に映る景色からなるものだと推測されるが、そこには普通に窓に映った景色を見るときより想像力にあふれた空間が広がっている。

では、こうしたようなルーバーの効果はなぜ必要だったのだろう。それは竹内さんの言っていた周りの環境に最大限考慮したと言った言葉に表れている。ここが住宅地である以上、ボリュームアウトした建物を作ることはできない。しかし、ビックハットに対して見合ったボリュームを提供しなければならない。この二律背反のような問題をクリアするためにこのルーバーが使われていると思う。ルーバーを使うことで建物の前面に揺らぎが生まれ、実際には見えない空間を感じることができる。そのため、あのボリュームでもビックハットと渡り合っていけるのだ。つまり、あのルーバーも目的があり、それを達成するためにつけられた“そう作る必要があったもの”のひとつだ。目的のために解決法を見つけ、見出した形があのルーバーだった。つまり、あのルーバーは事後的に決まった袋ということになる。

そう考えると、この建築は袋的要素があふれているように感じる。このNHK長野放送局はさまざまな要求が存在していて、それぞれを解決していく上でこの形態やファサードが決められていった。つまり、この印象的な一見箱建築に見えそうな建築物は、実は究極の袋的建築だったのである。また、そうなったことによって建物の本質を理解することができた。この建築はその場に合った条件を凝縮して満たしている。そしてその条件を満たすために色の境界の曖昧さやルーバーの揺らぎを使っている。それがこの建物が成功している理由だと思う。

 



坂牛賞二席

「普通に見せるということ」

04T3093E 山田 卓矢

 

1,日常という普通さ

「普通であること」や「日常性」は若い世代の建築家たちが建築の解体を行うに当たって共有された感覚である。[i]

みかんぐみの設計した建築物を見ると確かに日常のありふれた風景を思わせるものがある。例えばKH-2(2001)を見てみることにする。写真1を見ていただきたい。

写真1 KH-2(ユニットハウス)

これは可動のトレーラー6台をつなげたものである。トレーラーをユニットハウスにしてインターネットカフェとして活用しているものである。トレーラーといったものも団地を当たり前の風景として育ってきたみかんぐみのメンバーには当たり前のモノであり、そういったモノを批判するのではなく残していくためのリノベーションを提案するなどのアプローチを提案している。この考え方は講義で習ったダーティリアリズムの考え方ではないかと思われる。日常の美しいとはいえないものに現代を象徴するものを感じられることが出来る。それはすばらしいことではないか。この考え方も含めて、みかんぐみは日常の何気ない風景からヒントを得ているように思われる。日常の風景を大切にしているからこそ周辺環境の些細な変化にも彼らは何らかの情報を得ているのだろう。みかんぐみをはじめとする60年代生まれの建築家たちは日常の普通さを追求するといった建築に対するアプローチをとっているようだ。

 

2,カジュアルキテクチャ−[ii]

建築家の設計した建築物には威圧感のようなオーラを感じることがある。しかし、今回見学したNHK放送局にはそのようなものを感じることはなかった。建築に威圧感を覚えるということは、私にとって建築が特権化していることを示しているのではないかと思う。「建築ってすごい」と体で感じることの出来る威圧感はその建築物に対する感動と同時に、自分とその建築に対する疎遠感なるものさえ感じることがある。建築に対してかしこまって向かい合うこの姿勢を私は「フォーマル」なものとして捉えた。その威圧感、緊張感を覚えなかったということは、私はこの建築に対して多少なりの親近感を抱いたことを表しているのではないかと思われた。建築を特権化しているのではなく、もっと私たちにとって身近な存在として受け止められることが出来るようにする。私たちにとって身近なモノ、日常生活の中に取り込まれるような存在、「カジュアル」なものであると感じることが出来た。カジュアルな建築を指し示す言葉をさがしてみて、「カジュアルキテクチャー」という言葉として選んだ。

次の写真はこの建築物の外観を示したものである。

写真2 道路側から眺める

箱型にルーバーが取り付けられている、一見シンプルな形状をしている。これを見た時に果たしてこれが建築家のデザインした建築なのかというのが私の率直な意見であった。これが非作家的なデザインというものなのだろうか。いたって普通というのが印象強く残っている。普通というのは表現として正しいのか分からないが、この普通さがNHK長野放送局にとっての、そしてみかんぐみにとっての魅力なのではないかと感じた。普通=日常的=カジュアルという等号をつけてみた。このカジュアルさがNHKの要求した地域に開かれた放送局に必要な要素だったのではないだろうか。ここで問題にしたいのが、ルーバーの付いたファサードが果たしてカジュアルなのだろうかということである。私の見解としてはYesである。冒頭でも述べたように、みかんぐみの彼らやこの世代の建築家は団地の風景をカジュアルなものとして認識している。(もちろん私も含めてだが。) 一昔前では考えられなったこともこの世代にとっては当たり前のこととなっていることがある。例えばオタク文化がそうである。小説「電車男」からブームに火がつき、今やオタクは一つの文化とまで言われるようになった。つい最近まではオタクはただのサブカルチャーでしかなかったのだが、時代というものはいつ何が起こるかわからない。そんな時代の流れの中で建築もスタイルが多少なりとも変化してきた。大家族から核家族での生活、nLDK住宅の定着。そんな中で今回のNHK長野放送局のファサードは私たちの目にどう映るのかということである。やはり、この建築のファサードにはカジュアルという言葉が当てはまるように思われる。カジュアル=日常という普通さ。日常に根付いた建築としてのきのこ的な一面を私は感じた。またアンチ・モニュメントなこの建築は「普通」という要素を用いることによってさらに日常性を帯びているように感じられる。

 

3,日常の風景からつくること

冒頭にみかんぐみは日常の風景=周辺環境からヒントを得ていると述べた。建物周辺の敷地や環境との関係性を重要視している彼らの姿勢について検討してみる。

NHK長野放送局のファサードで特徴的なのは道路側であろう。普通な中にもインパクトが感じられる。その理由の一つとしてアンテナ塔の存在感が挙げられるだろう。建物本体はさほど大きくはないのだが、本体に対するアンテナ塔の異常なまでの大きさにより本体自体が大きく見えるという錯覚を起こす。NHK長野放送局の道路向かいにはビックハットという大きな長野の顔となる建築が存在している。しかしNHK長野放送局はこれに負けず、かといって浮いているわけでもない。見事にビックハットと調和しているように思われる。しかし、私が今回注目したいのは道路とは反対側のファサードである。高さが抑えられ、特徴たるものは一切削除されている。これはこちら側には住宅が並んでいて、地域住民に対する配慮からこうなったと考えられる。冬季長野オリンピックという世界規模のイベントに先駆けて新装しようとしたのに、地域住民への配慮を心がけたみかんぐみの姿勢が現れているのではないだろうか。オリンピックという非日常的なモノからよりも周辺環境といった日常的なモノに重点をおいているようにさえ思える側面だと私は感じた。この取り組みからもこの建築が地域環境という日常の一部分に根付いているきのこ的なモノだと感じる。こちら側のファサードはそう思われるほど何も感じないものとなっている。何も感じないというものほど日常性を感じる。しかし、そういった日常の中にふとした発見はあるものだと私は考える。今回のNHK長野放送局にしても同じことが言えるのではないだろうか。一見道路側のファサードに目を奪われるが、何も感じない反対側のファサードは地域を意識した日常的なものとなっていると私は感じた。

 

4,日常の風景をつくること

前項でみかんぐみは周辺環境といった日常的なものを大切にしていることを述べた。それは単に外観を周辺の環境に合わせるという作業だけではないと感じられる。彼らは内部空間にも地域性を取り入れているように私は感じた。というよりもむしろ自然と外部から内部へと導かれるような感じに襲われる。そのことがエントランスからのアプローチに表現されているように思われる。                               

ピロティをくぐるとガラスの平面が緩やかな曲線を描き、その先にエントランス(写真3)が待ち構えている。

写真3 包み込まれるようなエントランス

曲線といったやさしい流れに乗せられてこの建築の敷地内へと入っていくことになる。この空間は内部とも外部ともいえない、グレーな空間であると私は感じた。そして、このどちらともつかないグレーな空間にまず面白さを感じた。この場所に立って改めてこの建築を眺めてみると、外観からとは少し違った印象を受けた。近くに立って改めてルーバーやアンテナ塔を眺めるとなかなかの迫力を感じられる。空間から放出されるモノというよりも表面(構造)自体からその迫力は感じられた。何の変哲もない日常の一片に見出された新たなすばらしさの断片なるものが見られたように感じられた。またこの内部と外部をつなぐこの部分にはガラスというスケルトンなモノが用いられている。これによって内部にいるのか外部にいるのかを分からなくさせるような効果が現れているように感じる。

実際にエントランスをくぐるとまず目に映るのがインフォメーションウォールと呼ばれる青い壁である。ここにも内部と外部をつなぐ曖昧な空間を感じた。この青いインフォメーションウォールは空をイメージして設計されたという。この青はエントランスホールの内壁だけではなく中継車両庫の外壁にまで用いられていた。文字通り一面が青いインフォメーションウォールは境界というものが存在しない空という空間に近い存在になったのではないだろうか。ここに内部と外部の繋がりを感じる。

内部と外部の境界を曖昧なものとすることによって日常をこの建築内にも持ち込むことが可能になったのではないだろうかと私は考える。そしてこの曖昧な空間が施主の要求した地域住民に対して開かれた放送局を見事に実現させているように感じた。

 

5,日常という複雑さ

周辺の環境を重要視している彼らはその他にも施主の意見を大切にしている。みかんぐみは施主と十分に話し合いを行い、なるべく多くのパラメーターを設定し、それらを等価に扱いながら、突出したコンセプトを可視化する建築的な表現を避ける。この感覚は、コンピューターの長所である情報処理能力を活用し、膨大な数値を計算させるのに似ている。近代の建築が世界を単純なものに還元し、目遺憾な幾何学形態をデザインしたのであれば、みかんぐみはおそらく世界が複雑であるというモデルをもち、複雑さをそのまま建築化させようとする。サイバーアーキテクチャーが複雑に変容する多数のデータを下に生成され、はっきりした形態を崩すのと類似した感性である。[iii]これを思うと日常の複雑さをいかに普通に感じるように表現するかがみかんぐみのスタイルなのではないかと感じるようになった。

これまでに述べてきたようにNHK長野放送局には日常というものを感じることが出来る。それは外観から感じることもあれば、内部にいて感じることもある。日常という単純に感じるものも、実は多種のパラメーターによって複雑なものとして存在している。そんな複雑な日常をいかに「普通」なものにするかが感じられたのが今回見学したNHK長野放送局であった。そんな複雑な条件の下でこのようなカジュアルな建築が生まれたことに意味があるのではないかと思う。


[i]『終わりの建築/始まりの建築』INAX出版 2001 を参照

[ii]『終わりの建築/始まりの建築』 INAX出版 2001 坂本一成の孫世代に当たる東工大の学生によるキーワード

[iii]『終わりの建築/始まりの建築』INAX出版 2001 を参照


 



竹内賞

「建築に求めるもの」

04T3040D 桜井愛海

1.「生活―人生」というモノサシ

授業で見学をしたNHK長野放送会館を、「生活―人生」というモノサシではかってみようと思う。「生活」とは、人がより快適に暮らせることを追求した結果生み出された機能美(実用性)のことであり、「人生」とは、空間とそこにいる人の心を豊かにする装飾(デザイン)のことである。「家は何よりもまず、人の住むところでなくてはならない」※1というように、建築は、そこにいる人の生活を一番に考えた結果生み出された自然の美しさをもっている。また建築では、日々の生活に潤いを与えるような創造的な美しさも表現することができる。このような、人を中心に考えた建築を「生活―人生」という言葉のモノサシで置き換え、実在する建築を見てみることにした。

2.NHK長野放送会館を見学


写真1 NHK長野放送会館の窓

NHK長野放送会館には、夏休みの課題でスケッチをするために一度訪れたことがあった。その時は外観のデザインばかりに注目していたので、今回の見学では、放送センターが地下にあって緊急時にも迅速に対応できるようなワンフロアになっていることや、市民に開かれた場所となるような様々な展示もできるロビーやインフォメーションウォールという空間があることを知ることができた。しかし、そんな中で最も印象に残ったのは、スタッフの方から聞いた、デザイン重視で使い勝手が悪いという話だった。この建物には、長野が雪国であるという意識はあまりされていないし、東西の窓が大きいために夏は暑く冬は結露がひどくて氷柱もできる、ということだった。話を聞いてすぐに、反射的にその部屋の窓を見た。すると、ほとんどの窓が見事に結露していた。この建物のほとんどの窓が写真1のような大きな窓なので、結露している様子は中から見ても外から見ても、意外に目立っていた。それなのに、この話を聞くまで窓の結露に気がつかなかったのはなぜだろう。それはおそらく、みかんぐみの設計であるとか地下に放送センターがあるというような、この建物のプラスの面ばかりに気をとられていた   

こと、結露している窓が道路に面した側とは反対側にあったこと、そして地下に光を取り入れるためのサンクガーデンなどしっかりと考えられた要素がすでにあったことが原因であると考えられる。有名な建築物ということで、ついついそのデザインを重視してしまいがちだが、構造や設備などなかなか表には出てこないけれど軽視することはできない部分にも注目しなければならないことに、改めて気づかされた。そして、気候などその土地の重要な条件にあった機能を考えなければならないことにも意識をしていこうと思った。これらのことから、NHK長野放送会館は、「生活」と「人生」の中間より少し「人生」側にある建築であると考えた。

3.機能美と装飾


写真2 用の美を追求する柳宗理のカトラリー

「生活」を豊かにする機能美とは何なのだろう。建築における機能性、実用性、合理性とはどういうことなのだろう。合理性とは、国語辞典によると、作業効率を向上させること2である。つまり建築においては、余計な装飾を排除して使いやすさのみを追求するということである。では、機能性や合理性のみを追求した建築とは、人々が求める建築なのだろうか。無駄がなく、ある目的を果たすためにただ使うことができるのならそれでいい。果たしてそれは、「生活」と呼べるのだろうか。合理性という言葉の意味はもちろんだが、私のその言葉に対するイメージには、人間の温かさというものが存在しない。人間が使うものの機能を追求しようとしているのに、そこに人間が存在しないという矛盾ができてしまった。人間と、人間の「生活」を忘れたまま機能を求めた結果、私の中に矛盾というか違和感のようなものが生じてしまったのだ。そうなると、やはり、合理性のみを追求した建築は、人々が求める建築ではないということになるのではないだろうか。では、人々にとっての、本当により快適な暮らしを実現する建築というのは何か。私は、自然やその土地の風土、そして、ありのままの自分たちを大切に考えたときに生まれる建築である、という答えにたどり着いた。「用の美」、これは機能性を追求した形は美しいという考え方である。

ある目的で実際に使用するためにつくりだされたものではあるけれど、それがとても魅力的な美しさをもつことがある。なぜ機能美というものが生み出されるのだろう。それは、自然に、ありのままに暮らしていく中で使うものであり、自分たちに合った使いやすさにこそ、私たちを惹きつける美しさがあらわれてくるからではないだろうか。ここで自然界について考えてみる。山、川、空、海、森、…自然は同じ山と名のつくものでも、その様子は様々である。標高や形、そこに生えている植物やすんでいる生き物は、それぞれ種類も数も違っている。それはとても当たり前のことであるが、その場所の気候や周りにあるものから、そこが自分たちにとって生きていくのに必要な条件がそろっていると判断し、さらにそこで生活する中で、より快適な環境をつくりだしていくからそうなるのである。自然界には多様性がある。機能についても、同じことがいえるのではないだろうか。本当に必要な機能を求めてそれを突き詰めていったとき、私たちはどこにたどり着くのだろう。必ずひとつの形にたどり着く、という訳ではないように思える。たとえ、ひとつの同じ機能を追求したとしても、追求した結果としてあらわれてくる形は様々にあるのではないだろうか。機能にも多様性があるのが自然なことなのではないだろうか。この機能にはこの形しかない。私たちがそう思い込んでいるだけで、機能には決まった形はないと思う。確かに、基本となる形はあるだろう。これはこういうものである、という形が自分の中にひとつあれば、そこから自然により使いやすい形を自由に考え、つくっていくことができるのではないだろうか。

一方、「人生」を豊かにする装飾とは何なのだろう。これは何にでもいえることであるが、ある建築を初めて見たときの印象は、その建築を思い出したり、それについて考えたりするときにも大きな影響を与える。それは、そのデザインや空間に魅力を感じたり、反対に嫌な気分になったりするからではないだろうか。しかし、見た目だけでその装飾がそこに存在する意味を理解することはできない。装飾を極力押さえたシンプルなデザインが好まれる現代において、装飾はどのような意味をもつものなのだろうか。シンプルな機能美が存在する一方で、派手かどうかという問題もあるが、装飾は私たちが生きていく上では無駄な要素であると捉えられてはいないだろうか。装飾は、機能美に比べて、それを気に入るか気に入らないかという好みの問題がある。他人には無駄に思えるようなものでも、自分にとってはとても大切なものであるかもしれない。だから私は、装飾というのは、空間を豊かにし、その空間を体験する人の心を豊かにするものであると考える。もしも装飾が無駄なものであるとしたら、人類の歴史の中で生み出されてきた数々の作品は、この世に必要のないものになってしまう。そして、建築とその空間が味気のない寂しいものになってしまう。装飾があるからこそ、私たちは空間というものを認識することができるのではないだろうか。機能美と同じく、ここでも多様性について考えてみる。この世に存在するあらゆるものは、その表面を見ただけでは意味のない無駄なものに感じられてしまうこともあるけれど、どんなものでも、それがそこに存在している意味や理由があるはずである。だからこそ、それぞれに美しさがあり、それぞれの中に美しさを発見し感動できるのではないだろうか。少し見ただけではなかなかそれを理解できないことが多いので、意味がなく無駄に思えてしまうこともあるかもしれない。しかし、少し立ち止まって考えてみれば、きっとその意味や美しさを見出せるはずである。そしてそれが、自分にとって大切なものになるのである。装飾は、私たちが見過ごしてしまうような多様な美しさを、空間によって示してくれているのではないだろうか。そして、空間を豊かにし、人の心を豊かにし、「人生」を楽しいものにしてくれているような気がする。

4.建築に求めるもの

「建築は、はじめに造形があるのではなく、はじめに人間の生活があり、心の豊かさを創り出すものでなければならない、そのために、設計は奇をてらわず、単純明快でなければならない」3この言葉にもあるように、吉村順三氏は、合理性のみを追求した建築ではなく、自然や風土、普通の人々の暮らしを大切にし、人間の気持ちを取り入れた建築を作り続けた建築家である。建築をつくる者の根底には、常に、人間の「生活」ための建築という考えがあり、それを実現させるためには機能性を基本としていることが大切である。しかし、その基本で終わってはいけない。そこにもうひとつの要素を加えるのである。それは、決まった形にとらわれない自由な発想から、心と「人生」を豊かにする形や空間をつくるということ。これらがちょうど同じくらいずつ混ざり合った建築が、人々が求める美しさと温かみをもった建築ではないだろうか。


写真3 入り口側の会館

そう考えてみると、NHK長野放送会館は、この二つの要素が完全には混ざり合っていない建築ということになる。先にも述べたように、この建物は、地下にあって緊急時にも迅速に対応できる放送センターや、市民に開かれたロビーやインフォメーションウォール、地下に光を取り入れるためのサンクガーデン、そしてビックハット側と住宅地側で建物の印象を変えていることなど、機能面でもデザイン面でも、新しい時代へ挑戦していく放送局を表現した部分ととても細やかな配慮のある建築であると思う。


写真4 結露した窓

しかし、どうしてもあの窓の結露が気になる。結露はそこまで珍しいことではないし、欠点が全くない建築というのもなかなか難しいかもしれない。見学に来た学生に魅力をたっぷり語ろうとするのは当たり前のことだが、あえて欠点を話すということは、それを気にして悩んで生活しているということではないだろうか。どんなに些細なことでも、そこで生活する人、つまりその空間を体験する人が不快に感じることがない建築をめざすべきではないだろうか。

みかんぐみの竹内氏のレクチャーの最後に、坂牛先生が、「自分の気持ちがいいと感じるものと、他人の気持ちがいいと感じるものが違っていたらどうだろう」ということをおっしゃっていた。これはとても難しい問題で、この先もずっと忘れてはならないことだと思った。多様性をもった、人間の「生活」を豊かにする機能美と「人生」を豊かにする装飾がうまく混ざり合うと、この問題を解決する方向に建築が進化していくと、私は信じたい。


※1 秦義一郎(発行人) 『カーサブルータス 2005年12号(アイリーン・グレイの言葉)』 株式会社マガジンハウス 2005年

※2 金田一京助 『新明解国語辞典 第五版』 三省堂 1997年

※3 吉村順三建築展実行委員会 『建築は詩―建築家・吉村順三のことば一〇〇』 彰国社 2005年


 

 



竹内賞二席

「ビジュアルとしての建築」

03T3027C 兼子晋

1.条件と選別

長野駅の南部で、駅から少し離れた場所に位置する今回の見学したNHK長野放送会館。コンペにより66組の案の応募があり、みかんぐみの設計案が選ばれ、そこに建てられた。このコンペの条件は、1つに放送局の核である放送センターの部屋を大きくとれること。無柱空間が理想であり、情報が迅速に行き渡るための利便性を求めるものであった。2つに市民に開かれた放送局を目指すこと。普段、市民(視聴者)に利用される機会がほとんどない放送局ではなく、視聴者にも利用してもらうための開架的なものを求めるものであった。

そこで今回、私がこの建築物に対して用いる尺度として考えたのは「要塞―遊園地」のモノサシである。実際の講義で用いられた「スケルトンとブラックボックス」のモノサシと考え方は似ているのですが、しかしこのモノサシについてはスケルトンは部分として重要な場所は見せるもの。例えば構造的なもの・・・柱や梁や接合部など。又、そこから得られる情報もより多種多様であり、見せることでその場所性を見ることができる。反対にブラックボックスは、その大事な部分だからこそ隠し包む必要があるというもの。隠すということはそこに存在しているものが見えないということ、それが何であるか判別できないということである。それをふまえた上で、今回の私の用いたモノサシについて書くと、まずスケルトンに似た意味を持つのが「遊園地」であり、ブラックボックスが「要塞」である。これら双方は相反しているわけでないが、私が今回意図する「開かれたものと閉じたもの」をより明確に表現しているのではないかと考え、またそこはかとなく対比性を感じさせ、両者それぞれの持つ意味を引きだしているからではないかと考えたため、この「要塞―遊園地」というモノサシを選んだ。


写真1.全体写真

2.要塞としての建築

まず今回のNHK見学の前にその建物のプランを配られていた。それを初め見たときは1階以外はシンプルなプランであると感じた。しかし実際中に入るとなぜか違った印象を受けた。それはやはり地下を使用したものであったからである。今回私はそこに注目した。長野市でも地下を使用した建築物はそこまで多くはないだろう。さらにそのために土地を上手く利用し、成功している例は。条件としてもあるように放送センターを大空間にすることためにその空間を地下にもっていった。それによって大空間という名の無柱空間を作り上げ、放送局として迅速な情報伝達や、機械類の移動や配置などが自由に行うことの利便性に繋がったと思う。放送局の核といえる場が地下にいったことで要塞的な要素が伺える。やはり地下であるので壁に囲まれた暗いイメージであった。しかしそれにも関らず、今回はそう感じたことはなかった。見学コースで地下に降りたときは眼前に拡がるガラス張りから入る明るい光が眩しかった。放送センターの中にはサンクンガーデンを利用した「四季苑」が設けられ、そこから光が取り入れられている。1階ではそれがロータリーとなっており、これもまた地下じゃない地下空間を作り上げているものの一つである考える。篠原一男が1964年に発表した地下住居プロジェクトに「黒の空間」がある。これは外界の情報は一切必要ないものであるという強いメッセージが込められたものであった。


写真2.地下見学コースから見た窓

また妹島和世の「M−house」(1997)も同じ要素を持っており、外部空間から光以外の情報を排除している。*1)しかし、このNHKはコンセプトとして開かれた放送局が目的であるので市民に放送局としてもの仕事や内容も外部に伝えるために手段の一つとして光を取り入れ、いわば土ではなく、光を掘ったとでも言おうか、地下じゃない地下を作り上げることで放送局としての核を外部に伝えようとしているのではないかと感じた。

このように、一見地下に放送局の核とも言うべき空間を持ってくることで要塞的な一面を持っていると思われる。しかし光の取り入れ方によってその完全要塞的部分を和らげていると感じられる。こうした結果として1段落で述べたブラックボックスに似た部分、重要な場所だからこそ隠し、何が存在するかわからないことを、光を取り入れたこと、即ちガラス越しに視界通すことで意図的に外部との繋がりを持つ形状になっていると思う。

.遊園地としての空間

そもそもなぜ遊園地と呼ぶのか。遊園地とは、既知の通り大きな公園とも呼ぼうか、幅広い年齢層に利用され、その人々に対して楽しめる場、有意義な時を過ごしてもらう場であると考える。そこで、そんな市民を受け入れまた市民もその場を受け入れ多く利用できる場を目指しているから「遊園地」と呼ぶ。その遊園地建築としてあげる空間として、それはやはり市民に開放されたカフェ、イベントコート、見学コース、オープンスタジオなどである。特徴的なのは1階プランをよく見るとわかるが、曲線に切りとられたイベントコートである。多くの人々が集まれる場所ではないが、今回の私達ような団体には最適だった。そんな中通りに面したファサードからピロティをくぐりそのコートに入ればそのファサードの裏側は開放的な空と繋がっていた。みかんぐみの竹内さんのある文章にこんなことが書いてあった。「市民に開放されたものにするにあたり、ただ広くその空間をつくるのでは、逆に利用されないと思ったので開放された空間を多くつくることにした」と。それは、日頃市民に利用される機会が少ない放送局としてのデメリットを解消するものであると考える。つまり、最近の放送局で増えているように見学コースなどは成功であったのではないだろうか。しかし、カフェの利用は冬に限っては難しいものであったのではないか。

こうして建築物を見てくるとその建築に対比性を見出している気がする。そもそもモノサシ自体が対比させようとしているからかもしれない。今まで建築を見るとき私は、良いと感じた空間を何かしら自分の中のモノサシで捉えてきた。しかし、実際講義で受けてきたたように対比性を表現したモノサシで捉えたことはなかった。というより前もってモノサシをもって建築を見たのは初めてだったかもしれない。そして今回その対比したモノサシがよかったのかどうかは分からないが、私の建築を見る視線が違った気がした。配られたプリントの天野さんの文章にも書かれていたことだが、私もその建築を読み解こうとしていた。その建築家の意図を。条件として与えられもの以外でその建築家と建築が使えたかったもの。そしてそれを意図的に視覚に映るもの。それが色であったのではないか。

4.受け止める色

右の写真を見ていただきたい。1階のイベントコートから見たエントランスであるが、青い壁面が見える。そうこのNHKには建物の外部から内部まで一面に青く塗られた壁がある。それは消火栓や券売機までも青で統一されている。レクチャーの時に竹内さんがなぜ「青」なのかという質問に対して「それは青が青であるから」と特に訳があって青にしたのではないらしく、そこに「青という色」が合ったかのような口調でおっしゃっていた。さらに一面統一された色にすることで街からの視線を受け止める役割を持たせたかったと。


写真3.コートから見た壁面

青木淳は、「ヴォリュームであるところの空間構成の構築」から、決してそこへは到達しえない目的地を常に持つという「ヴォリューム」へと移行し、かつて「らしさの表現」として機能を割り当てられていた外装=表層が独立し、欲望の視線を内に向けて送り届けようとする機能まで純化された外装を現した。*2) それに共通するものを感じた気がした。市民の視線を「青」という色で受け止め、それを内部の壁も統一することでそのまま視線を内に促しているようにも思える。さらに写真では分かりにくいが、私には壁面の後ろ側の空と壁面が一体化しているようにも見えた。これは私だけかもしれないが、ここから青い壁に視線を上げた時そのまま空も視界に自然と飛び込んできた。空という決して到達しえない場をその視線に飛び込ませることでその建物のヴォリュームをも空間を構成する一つとしてしまったのではないか。その単純化された一面の統一された一色の壁面によって。まるで包み込まれているかのようにその建築物の中に入っていないのにその切り取られたコートにはそんな空間を見た。その市民の視線を遊ばせる感じも遊園地的要素を含んでいると感じた時だった。私が見たその市民に開放される場全てにその受け止められる「青」が存在したように感じた。

5.ビジュアルとしての建築

最後になるが、この見学において私が「要塞―遊園地」というモノサシを持ち込んだことで私なりにこの建築を読み解こうとした。その結果が、上手くいったかは分からないが、その一つ一つの空間において何かしら意味を持つものであると身にしみて感じた。「要塞的な要素を持ち、遊園地的な要素」も持ついわば「要塞的な遊園地」な建築となっていることで、これからの放送局の在り方を視覚的、そして感覚的に捉えることができたのかもしれない建物のヴォリュームからは、その目の前の通りやビックハットや今は無きダイエーなどに合わせたファサードとは反対にその裏側の住宅のヴォリュームにまで配慮した抑えたヴォリュームをとっていることでよりメインのファサードを強調し、尚且つそれを高さではなく、横に広げることで今までとは違った街へのアピールが見て伺えると思う。かつて私はワールドカップの日本代表の試合をNHKの大スクリーンで見に来たことがある。無料開放で観戦させてくれていた。そこには多くの人が訪れ、盛り上がっていたのを覚えている。そんな機会がこれから増えていくのではないかと思う。これからの放送局としての役割を持たせる空間を作り上げることで、そこには市民が普段見るはずのない空間と放送機能をそのファサードに映し出しているように思う。それによってより市民に開かれた場となり、多くの人々の目に映る建築となっているのでないだろうか。


*1) 現代の住居コンセプション―117のキーワード

  監修=プロスペクター[南泰裕+今村創平+山本想太郎]

  出版社=INAX出版

*2)ARCHILAB(アーキラボ) 建築・都市・アートの新たな実験1950−2005

  著者=MORIART MUSEUM

  出版社=平凡社