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第一講レポートのお題

今日の話のポイントは平皿といわれる建築がありそれは建物のどこもが同じ価値と意味を持ち、ヒエラルキーがないということであった。そしてそれを最初に実践したのはミースでありそれも彼の後期の建築特にファンズワース邸というものだった。さて、ところがそれはチャールズジェンクスという先生によって「つまらない」とこけにされたのだが、最近現れたコールハースという建築家によってこのつまらないくらいに無個性(ジェネリック:generic)なところがしびれると賞賛されたわけである。そんな風潮は例えば無印良品が喜ばれるのとよく似てたりもするのだが。
しかし無個性と呼ばれているのは実は無個性という個性(弁別性)があるのだ、無印と呼んでいる物だって、無印と分かる何かがあるではないか。そこで今日のお題だが、
「無個性といっているものの個性とは何かあるいは無印良品の印とは」
字数は約800字くらいインパクトのある君たちの視点を提示して欲しい。
尚締め切りは金曜日6時です。
今日初めて出席した人は以前の僕のスレッドを呼んでおくように。

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コメント

03t3068a
3年 梨本耕平

「無個性といっているものの個性とは何かあるいは無印良品の印とは」ですが、まず「無個性といってるものの個性」ですが無個性という言葉自体が変なのであってそこには無でもなんでもない主張、デザインが存在しています。
今日、大量生産、大量消費で良い悪いは別として多くのデザインが溢れる中で、無駄なデザインをなくし「無個性」といわれるような少数派が出てきました。個性という言葉が普通(何が普通の基準かはわかりませんが)から見た特別なものを指すのであれば、無個性といわれるものはそれ自体が強い個性を持っているのだと思います。さらに、無個性と言われるものは無駄なデザインを無くしただけでそこにはデザインが残っていることから、やり方は違いますがそれはデザインするという行為に他ならないはずです。
やっぱり、無個性という言葉がおかしい。
次に、「無印良品の印」ですが、ただ単に無個性という個性がある商品だというアピールに過ぎないと思います。
無個性だとか無印という言葉はイメージとしてはわかりやすくいいことだと思いますが、無印の無個性にはしっかりとした個性が存在していて、それは変なことだと思います。が、日常的には違和感なく受け入れてるわけであって、日本語のあいまいな面白さが良く出ていると思いました。

archive1の2004年東大の授業をクリックして授業スケジュールから重箱・平皿のコメントを見ると、同じ質問に対する彼等の答え場読めます。半分くらいデーターがちょっと今見えませんが少し参考になるかもしれません。

04T3042A 繁山 和夫
ミースの建築や無印良品が、飾り気のないところがいいとかなりの人に受け入れられているという現実があります。あのような無個性がいいと言われていますが、それでは今からミースの建築や無印良品のように何も飾らないものを世に出したとしたら、周りの評価はどうなるしょうか。決して高くはなく、どちらかと言えば模倣だとか、これこそ個性が感じられないとか無個性だと思われやすいのではないでしょうか。
議題となっている無個性についてですが、ミースにしても無印良品にしても創る側にしっかりとした意図があって創られていると思います。普通の人にはなかなかできないことです。これだけ人をひきつける魅力があるものを創れるのですから、個性的だととらえてもあながち間違いではないと思います。だからわるい意味では使われていません。このような話で使われる無個性という言葉は、ニュアンスを伝えるうえではいいかもしれないですが、誤解を招く使われ方でしょう。
では、無印良品などが、全く受け入れられていなっかたらどうでしょうか。極端な話ですが、わるい意味で個性のないものとして評価されているか、ただ多くの人に受け入れられないものだと評価されているでしょう。飾り気がないというのは事実ですから、このように言われていてもおかしくはないかも知れません。
ミースの建築や無印良品は物理的に作ることは誰でもできるかもしれませんが、そこに自分の主張をこめて創っているところが他と何か違う個性的なものだと思われる理由だと思います。主張はあるが、それが個性的でないととられたらこのように評価されなかったでしょう。また、主張が商品や建築を通じてしっかりと伝わっている点も大きいと思います。
例えば、無印良品だとこの名前やラベルが何かを主張するための媒体となっていたりするのではないでしょうか。作品を通じて主張を伝える力、作品にこめる強い主張も大切なことだと強く実感しました。

04T3045E 庄司貴弘

ミースの作品であるファンズワース邸をトレースしたとき、「こんなに簡単な建物がなんで世界的に有名になっているんだろう?」と感じたことを覚えています。部屋らしい部屋もなく、鉄とガラスでできたもの、というイメージを持っていましたが今回のデザイン論の講義で少し気づいたことがあるので書かせていただきます。
 まず「無個性」ということは「個性がない」ということではなく「個性を押し付けるものがない」ということなんだと思います。例えば、僕の興味のある建築家の1人にフランク・O・ゲーリーという人がいますが、その人の作品はついつい見入ってしまうほどのおかしな形をしたものが多く、面白さがたっぷりあって興味がそそられるものばかりです。そこには何か爆発的な躍動感のある個性を感じます。それに対して、僕にとってはファンズワース邸にはそういうものはありません。しかし、もし自分がそれらの建物を使うとしたらgenericなものの方が自分の個性を出しやすいと思います。家具の位置を自由に変えることができ、自分で空間を作り出すこともできます。それに比べて個性爆発の建物の中ではその個性に負けてしまい、決まりきったものしか作り出すことができないのではないかと感じます。次に「無印良品の印とは」ですが、これも同じだと思います。ブランドものだとその名前に負けてしまい本質を忘れそうになってしまいますが、無印良品には、その商品を長く使いこなしていくうちに自分の生活にとって大きな意味のあるものにして欲しい、そしてそれを自分だけの「印」として欲しいという思いがこめられているように感じられます。このように、無個性でも個性的でもそれぞれが十分な「価値」は持っているけれど、「無個性」には「個性を引き出すための力」というものがあり、それが無個性なものにとっての「個性」になっているんだと思います。

04t3008A 牛山由偉

個性という言葉の意味を調べると「個人または個物を他から区別する固有の性質である」とある。つまり、個性のあるものとは他とは違う何か独特のものや、性質を持っているものであるということが言えると思う。だから無個性とは他と区別できるものを持っていないものであり、その無個性のものから個性を見つけ出す、無個性の個性について考えることは不可能であり無意味なことであると僕はこの言葉そのものからは感じ取れる。
しかし、実際にミースやコールハースのように個性を持っていないものを賞賛する人がいる。このような人たちはただ何の理由もなく無個性のものを賞賛しているわけではないはずである。そこには、他にはない特別なものつまり個性があるということである。
ではなぜ、無個性というのか。僕は個性というものに対する人々の考え方が関係していると思う。僕もそうであるけれど、多くの人は「個性のあるもの」とは今までになかったもの、奇想天外なものというイメージを持っている気がする。実際建物の設計においてもこれまで他人が考えなかったこと、気づかなかったことなどを取り入れた建築は個性があると言われることが多い。つまり個性=インパクトのあるものという風に考える人が多いと僕は思う。だからあまり主張がないもの、インパクトがないものは、個性がない、つまり無個性なものと考えられてしまうのでしょう。しかし、そんな考え方をしないかったり、なくしてしまえばいわゆる無個性のものにも個性を感じ取ることができると思う。つまり、形や大きさ、重さ、長さなど全く同じものがない限り、どんなものにも個性があるという考え方である。この考え方が生まれれば、無個性なものの個性を感じ取れるし、無個性なものの個性とはこの考えを持った人が感じるものでありそれは本人にしか分からないものであると思う。ミースやコールハースもそうだったのではないでしょうか。
無個性なものの個性について書いてきたけれど、無印良品の印についても同じことが言える気がする。

04T3055B 2年 武智 三奈
 私はシンプルなものが好きです。インテリアであったり、ファッションであったり・・・。しかしそのことは、シンプルなものが好きというのではなく、ごちゃごちゃしたものが好きではない、と言うべきなのかもしれません。シンプル、単純なものをとことん追求すると、部屋のインテリアは、収納さえあれば机一つさえ必要ないかもしれません。ファッションにしても、白の無地のスウェットさえあればなんとかなります。しかし、それでも必要最低限という言葉は当てはまりません。原始人などの生活を考えるとそう言えます。私が思う「無個性」とは、そのような原始的レベルのことを言うのではないかと考えています。「無個性」というものに、少しでも利便性やユーモアなど自分の欲求を満たすものが加われば、それは、個性がある、と言えると思います。これは、「個性」という物を考えたときのことで、建築にこの考えを持ち込もうとは思っていません。いくら理屈を言っても、現実は違います。時代によって必要最低限やシンプルという意味も変わってきます。
 重箱から平皿は、形式を取り除き機能を重視する、ということですが、形式というのは、充分機能的だと思っています。人々の都合がいいから形式というものが生まれたのではないのでしょうか。それが機能的でないと言われるようになったのは、時代の流れによる、人々のメンタル面のせいだと思います。基準というものがそれ以前のものになってしまうから、比較すると無個性と考えてしまうのかもしれません。上で述べたように、個性は、欲求が含まれています。だからその欲求の種類や大きさが変わっただけで、決して無個性ではないと思います。ファンズワース邸もシンプルにしたいという欲求を満たしています。充分個性的です。
 建築家同士の批判の仕合があります。人によって欲求の種類、大きさは違います。だから考えが違うのは当たり前です。その違いをどう受け止めるか、それも人それぞれで、やはり個性があると思います。

04T3034K  工藤 洋子

小学校高学年から無印良品になにかしらの魅力を感じ、早早と文房具等を愛用していた。
あのダンボール色とエンジ色と銀と透明と透明の店内で何時間もわくわく眺めていた。
当時は、まだどの商品も割高なものばかりだったので、一度に一式そろえることは出来ず、中途半端に持っていてもお店で見たものとは別もののようでがっかりした。
周りの子達は、キャラクターやアイドル物を揃えていたので、そんな何もないやつなんで持ってるの?などと言われたが、これがいいのよ、カッコいいでしょ。と自慢げに答えていた気がする。

こんなことを授業中にふと思い出し、また、その“これがいい”の“これ”が無印のしるしなのか?と思った。
しかし、現在の無印良品は昔とは変わってしまい、「無印良品」や「MUJI」というロゴの付いた1ブランドとなっている気がして、無個性などという話題とは別次元にいると思う。
何種類もの素材や色のパターンがあるテーブルやベット、すわり心地の違う同じような形の椅子。様々なお菓子やノートやアロマオイルなど、を見る限り、「無印良品」と名乗りだした頃の無印の概念は微塵も感じられない。

などと、現在のMUJIに対する思いを述べ、少し脱線してしまったようだが、早熟だった無印フリークの私としては、昔の無印良品から無個性を考えたいと思う。

「印の無い良い品」=less is more
装飾や余分な機能を付けず必要なものだけ残すと素晴らしいものとなる
だから要らないものは削りましょう。
牛が四角に抽象化されるように不変的なものだけを選りすぐる
そうして出来たものは『完璧/退屈』なものとなる

良・less・余分・必要不必要・素晴らしい・不変・完璧・退屈・・・・
これらは一体何が基準か?誰が決めるのか?
無個性を生み出すために出てくるこれらの考えこそ個性であり、それらを考えさせる建物や無印良品の存在が個性なのではと思う。

知識も無く、上手く表現できないまま書き込みました。すいません。

04T3019F 小倉 和洋

無個性の個性、それは何にも属していないことだと思います。例えるなら、白いキャンバスのようなものです。何色にも染まっていなくて、どんな色にも染まる可能性をもっている白いキャンバスはまさに無個性の象徴と言えるでしょう。このことを無印良品で考えてみると、無印良品の特に手を加えていないというのは無個性ということになります。一つ例を挙げるならペンケースです。無印良品のペンケースはただの箱ですが、そこに何を入れるか、鉛筆を入れるとしたらどんな鉛筆か、さらに周りにシールを貼るとしたらどんなものを貼るか、その組み合わせは無限にあります。つまり無個性とは、これからどんなものにもなりえる可能性を持つもののことです。
それでは無個性といわれているファンズワース邸について考えてみましょう。まず思うことは、ファンズワース邸は無個性ではないということ。それは私の考える無個性の定義が前文に述べたように“何にも属してなく、どんなものにもなりえる可能性を持つもの”だからです。つまりファンズワース邸に畳を置いて日本的な雰囲気を持たせることは不可能なのです。日本風な内装だけではなくファンズワース邸の雰囲気を壊すようなものを置いてもそれは新しく個性が生まれたとは言えません。ここで不可能といったのはファンズワース邸を設計したときに設計者のミースが日本風な内装をイメージしていたとは考えられないからです。ミースは何か意図していることがあって建てたはずです。意図していることがあるということは、それは無個性にはなりません。ミースのそれは無個性なのではなくシンプルなのです。
つまり、設計において無個性とは建築家が何も意図せずに設計するということです。建築家が何も信念を持たないことで施主の自由に建物を造る事ができることは、何にでもなれるという点で無個性です。しかし、現実にこれはありえないことです。それは、建築は土地に依存し、法律に制限されてしまうため完全に無個性にはなりえません。そして、信念のない建築家など建築家ではないからです。

 03T3043E 新宮 敬章

無個性というぐらいなのだから、個性がないという意味なのであろう。そしてその個性が無いというのが個性だというらしい。個性が無いというのはどういうことであろうか。

想像できません。

 そうではなく、無個性は無個性ではなく個性らしい。ここで具体的に考えるために無印良品を考えてみる。無印は特定のブランドを示す印がない。一方、他の商品は自分を示す印がついている。それらを無個性・個性とおいているらしい。無印は印が無いことが武器だ。一方他のメーカー・ブランドと言われているところは、印があることが武器である。この印が有る・無いだが、印があるということはメーカーが作ったという証、それは個性の証であろう。メーカーによってその背景があり、その培った歴史だけで評価されることもあるだろう。そしてそれはメーカーを表す印にも同じことが言えるであろう。実際そんなメーカーはあらゆる分野で数多にある。その中で無印良品とは、印がないということで背景、歴史といった付加的なモノがない。それでもメーカーが作った商品はあるわけで、それにそのメーカーの証がないだけである。つまり新しいメーカーという位置づけではなかろうか。それでも、もう無印良品としてそのバックヤードは作られてしまった。その点ではもう他のブランドと同じであろう。
では、印がないというのは無個性なのかというとそうではないだろう。なぜなら、無印が無かったのはブランドの印に付いてくるバックヤードであって、それを無個性というにはおかしいと思うからである。まあ新しい発想というかデザインではあるが、それは無個性ではない。ただ無個性と呼ばれているだけではないだろうか。つまり印を無くすことで、印が得られてしまう先入観を消しただけであろう。

講義の内容と同じだが。

 でもそれは周りに印があるから通用するのである。言い換えれば最初は印が無いから、印を作って区別したわけである。それなら、やっていることはその場しのぎ感を否めない。つまり無印の印とは視覚的なデザインを指すのではなく、無印良品というメーカーに持たれる人々の見方、つまりバックヤードであろう。 また無個性とは何かであるが、無個性とは名ばかりで、現在にしか通用しないその場しのぎの個性ではなかろうか。そして原初的な事象を現代向きに再構成したモノを個性としているのではないだろうか。

04T3069B
樋川 俊樹

 形状の面白さに目を奪われる、珍しい材質に惹かれる、などと思わせる建築物は世の中に数多い。そしてそれらは独創的で芸術的だと高く評価される傾向がある。ごく一般的な建物と同じでは、万人の評価を得るどころか気に留めてはくれない。だからこそ多くの建築家は自分の建築物に他とは違った特有の特徴、つまり個性を求め、その影を追ったのだと思います。僕は、人が作品に個性を見出そうと思えば、それは自己の経験や信念から表現されるのが自然で(世に出回る作品であると同時に自分の作品として作り出すからおのずと自分の思いが表現されるのではないかと考える。)、ミースがファンズワース邸で見出した個性が「無個性」という個性であったのだと考えます。建築を含め、よく芸術は非凡であり、風変わりであることが珍重されますが、ミースが高い評価を受けたのは、世に多くの独自的な建築物が造られる中で、対比して無個性の建築物が建ったことにより、多くの人が建築の本質というものを感じ取った、悟ったからであると思います。建築の本質などと言うと大げさかもしれませんが、僕には、前回の講義のキーワードであった「自由」という言葉通り、そこに住む人が生活を選び、自分のスタイルを決めることが可能となる、そこに無個性の個性を感じる事ができます。利用する人次第で無個性の建築は幾通りもの可能性へと変化する、それを退屈だと述べるのはそう簡単ではない気がします。そこに人気の秘密があるのではとも思いました。
 無個性が個性であるとは日本語としては矛盾しているようですが、「無個性を装った個性」とでも言うべきか、「素」であるという個性が、ファンズワース邸を初めとする無個性なミースの作品たち、また同様に、無印良品の印に見出されているのではないかと感じます。

04T3091J
安江昌晃

 私は、最初に無個性なところに個性があると聞いたとき、少し不思議な感じがしました。今までは、“あるものはある”“ないものはない”と思っていました。また、無個性なところが個性だと言っていても、そのことがどのような意味なのかは分かりませんでした。しかし、講義を聞いているうちに、“無個性の個性”というものが、少し分かったような気がしました。個性がないというところに個性がある、個性がないことが個性、つまり、今までにあったような個性にとらわれないということだと私は思いました。無印商品の印というのも同じようなもののことだと思います。無印商品の印とは、印そのものがないことだと思います。印がないということ、つまり、印がないという印がその商品を無印商品であるということをあらわしているのだと思います。
 私は、今までに“無個性の個性”について何度か考えたことがあります。個性とは、すべての人やすべてのものが生まれながらに持っているものではないと思います。すべての人やすべてのものは、生まれながらに個性を持っているわけでなく、その生まれた環境や、作られた環境によって、個性を得るのだと思います。つまり、個性とは、その与えられた環境によって、その環境に適したように染められてしまったり、染まってしまうのだと思います。私は、人は生まれながらに個性を持っていることはないことだと思います。つまり、人は生まれたときはどのような個性にも染まっておらず、どのような環境にも染められていない状態、無色透明なのだと思います。これは、これからさまざまな個性に染まることができ、その何にも染まっていないという状態は、他のすべての個性とは異なっていて、すべての個性に染まる可能性を同様に持っていると思います。
 ですから、無個性の個性というのは、無色の状態にあることだと思います。個性がないからこそ、さまざまな個性になることができ、他とは異なる個性を持つことができると思います。

04T3044G 篠原 昌寿
 私は無個性といわれるものの個性とは何かを良く考えてみました。そして無個性のモノ、ヒトなどは存在しないのではないかと思いました。そう考えた理由はまず人を考えてみました。私は個性のないヒトはいないと思います。例えば何のとりえのないと思い込んでいるヒトでも、そのヒト自身からはあまり見つけられないような「性格」や「くせ」、「仕草」などの小さな事が個性につながっていくと思います。でもそのことを見つけられないヒトが世の中にはいるから無個性という言葉が生まれたんじゃないかと思いました。実は私もその中の一人で、自分は得意なスポーツなどひとつもないし、TVゲームは好きだけど、けして得意ではない、勉強のほうもとび抜けたものはないしと考えているうちに、自慢できることがないのだから個性なんて何もないと思うときが今でもあります。しかし、「個性」を考えて思ったことは、個性は絶対にあるのだから見つけることが一番大事だと思いました。見つけるといっても自分の個性だけでなく、周りのヒトの個性も見つけてあげるのも大変大事なことだと思います。自分で見つけるのが難しいのなら、友達と見つけあったらよいと思います。またそうしているうちに新しい個性が生まれてくるかもしれません。これは建物にもいえることだと思います。ありきたりな家でも住んでみると新しい発見があると思います。だから私は無個性といわれるものの個性とは無限大に存在するものだと考えました。
 無印良品の印とは、あの心が落ち着きそうな色合いが無印良品のしるしだと思います。私は初めて無印良品のことを知ったとき、名前的に価格が大変安いんだと思いましたが、実際は普通の価格だったので気落ちしました。

04T3073A
2年 藤江 将史

 私は今回のテーマで、無個性というものについて考えてみた。果たして、ミースのファンズワース邸はつまらないものであったのだろうか。
 前期の設計製図の授業でファンズワース邸をトレースしたが、そのとき私は決してつまらないものだとは思わなかった。逆に何か惹かれるものがあった。一見すると、風呂やトイレ以外は何もないただのガラスの箱だが、何か人々を惹きつける豊かな空間のように感じる。それは、空間に必要なもの意外は何も置かない、シンプルな建物が一番美しいという意図があったからではないだろうか。「less is more」物を少なくすれば、より空間が豊かになる、というミースの信念という個性があったからこそ、ファンズワース邸は多くの人に受け入れられたのだろう。
 無印良品についても同じである。私は無印良品が世間に出始めたころから、無印の文房具を使い続けている。それは、いっさい飾り気のないシンプルなデザインに魅力を感じたからだ。私がこのように感じたのは、装飾などいっさいなく、必要最小限の機能さえあればいいという無印の意図があったからではないだろうか。多くの人に支持された理由はここにあると思う。
 私はファンズワース邸や無印良品が決して無個性であるとは思わない。ファンズワース邸は「less is more」、無印良品は無装飾のシンプルなデザイン、必要最小限の機能さえあればいいという意図がある。私はこのような意図が個性なのだと思う。だから、そのような意図が無印良品の「印」なのではないだろうか。私は何かをつくる人が明確な意図や信念をもっていれば、それは個性であると思う。逆にそのような意図や信念がなければ無個性なのであると思う。そのような個性があれば、決してつまらない、退屈なものではないはずだ。

04T3059E
坪井 章訓

無個性とはどんな意味か。僕は今回のお題を見て最初に考えた。頭にでてきたことは自分らしさがまったくなく基本に従っただけのものではないかと思った。しかしそれだけではないようにも思える。無印良品は道具の機能を重点においている。しかしそのデザインからどこか魅力的な部分も感じられる。僕が今でも無印良品を使っているのも、店にいってついつい足を止めてしまうのは無駄なロゴをなくした商品自体のデザインに魅了されていることからだと思う。建築のファンズワース邸では無個性であるといわれているが単に個性がないというわけではないように思える。必要最低限の設備を持ち、なおかつすっきりとしたデザインはどこかひかれるものがある。これは無印良品と同じことではないのだろうかとおもった。しかし、同じものを使っていたとしても使う人によって雰囲気は違ってくる。これは単にシンプルなものであるということでは考えられないことである。僕が考えることは、無個性といわれる無印良品は使い方やその人自身によって新しい個性が吹き込まれていくものではないだろうかというものである。無印良品の印とは自分で作っていけるもので、それが個性となると思う。建築ではたとえ建物自体が無個性なものだとしても、そこに住む人によって雰囲気はかわり、無個性とはいえないものになるのではないだろうか。建築家の個性だけで建物を設計すれば、同じ人が作るものはどこか雰囲気の同じものになってしまうのではないかとも思った。無個性であるものとは自分で個性を生み出せることだと思います。それが無個性という個性なのではないだろうか。

04T3027K
2年 岡本澄香
「無個性」とは,それ自体が一つの個性の形なのだと思います。建築で言えば、ミースの残したガラスの家のような、建物のどこもが同じ価値を持つ、ヒエラルキーがない、配置が自由であるなどを無個性としているそうですが、その「重点的に見せたいところを造らない・自由な配置を可能にする」ということ自体が非常に個性的なデザインになっているのであり、無個性を表現することで結果として強い個性が現れていると言えるのではないでしょうか。
そもそも個性とは、ただ単に他とは違うということではなく、そこにこめられた強い意志や主張、特有な特徴のことを指すのだと思います。そう考えたとき、ミースのガラスの家は完全な自由を追求したことの結果であり、十分に強く主張していると言えます。また、これは自由な配置によって用途を自在に変化させることができるという固有の特徴を持っていると思います。よってミースの建築は、ミースの強い主張と独自の特徴を持っており、この無個性は個性であると言えると思います。しかし、この無個性を単に模倣したものに個性があるのかということはかなり疑問です。意図のない模倣は単なるものまねにすぎず、ここには個性は生じ得ません。無個性の中に強い主張がこめられているからこそ個性となりうるのだと思います。
無印の印についてですが、無印良品は徹底したシンプルさと、シンプルゆえに様々な場所に順応できるという多様性が受けているのだと思います。一つ一つの品物だけを見たとき主張や特徴はわかりにくいように思います。しかし、文房具から家具まで、すべての品において徹底したシンプルさを追及しているところに明確なコンセプトと主張が存在しているのであり、それが無印の印となるのだと思います。
すごく難しいテーマで、何を言っているかよく分からない文章になってしまいました…。

05TA340F
M1 松永崇

坂牛研究室のM1の松永です。来週から受講させていただきます。よろしくお願いします。そこで、今回のお題から参加したいと思います。
まず今回のお題「無個性といっているものの個性とは何か」について、結論からいうと、私は無個性というものの個性は個性なのだが、その個性の先をいっているものだと思う。もし個性という基準があるとするなら、社会主義のような競争のないときの商品であると考える。一方資本主義では、商品を売るために、ブランドや個性が生まれる。個性というものが至るところに溢れるようになると、個性という印を消し、無個性というものが現れる。簡単に言うと、もともと無個性なんてものはなく、個性があって無個性というのが生まれる。個性・無個性と聞くと、二項対立のように感じてしまうがそうではない。個性の枝分かれの中に無個性というものが存在する。無個性は個性の先をいっている個性と感じる。
次に「無印良品の印とは」だが、無印良品の印は、商品に表出していると思う。私は茶色のノートやスケルトンのファイルを見ると、無印良品だと思ってしまう。つまり無印といえば茶色というような固定観念がいつのまにか植えつけられている。それが無印の印だと思う。
個性というのは、誰でも持っているもので、個性を表すことは容易なことだ。普段生活をしているときでも、自分は普通と思えることでも、他人が見たらそれは普通ではなかったり、個性というものは必ず表出してしまう。無個性という個性は、その点が難しい。無個性は表出している個性を全体でカモフラージュしている。
最近読んだ本に「本の納まった書棚の壁ほど、部屋に対する優れた装飾はない。」と書かれていた。さまざまな個性が合わさると、それぞれの個性は対立せず共存している。私の部屋の棚には、無印良品のファイルもあれば、KOKUYOのファイルもある。その中では、無印良品のファイルも個性というものを表出している。

04T3039A 
小林健太

無個性の個性ということを考えると言葉的に違和感があるのが分かる。無個性とは字のごとく個性が無いということは言うまでもありません。要するに個性の無いものの個性とは?と聞かれているわけなのです。この無個性の個性を自分なりに考えてみる。
まず、個性という言葉の意味を調べてみると、他の人とは違う、その個人にしかない性格・性質であり個物または個体に特有な特徴あるいは性格と書かれていました。つまり一般的ではなく珍しいもの、このようにこの意味をとらえていくと、少しずつ無個性の個性という言葉の意味合いが分かってくる。
今の世の中、建築に関して言えば、変わった形・色・模様の建物がとても多く見られます。昔はこのようなことが少なく、様々な変化を付けることによって個性を得ていました。しかし、今となっては普通の建物と変わった建物との割合が大きく変わろうとしています。それはみんなが個性を主張し始めたためです。そのことによって昔の一般的が今の一般的でなくなりつつあると考えられるのです。そのようになってくると今ではシンプルであり分かりやすい建物が珍しいものとなり、個性という言葉の意味に当てはまるようになります。
講義でも取り上げられていたミースの代表作でもある、ファンズワース邸は個性があるか無個性であるかということだった。個人的にはこのファンズワース邸は好きな建物で、個性はあると考えています。平皿と重箱という話が講義中にありましたが、この建物は、確実に平皿であり、そのシンプルさに個性があると思いました。
僕が考える個性と無個性とは、個性はもうすでに独立していて自分の考えを強く持っているがその分、柔軟性に乏しい気はします。その反対に、無個性とは、ハッキリしておらず曖昧なところもあるけれど、柔軟性に富んでいていろいろなことを吸収することができると思っています。そもそも無個性は存在しないと思いますが。

回答の前に
 そもそも、質問で無個性の個性と言っているわけだからすでにそこで無個性という個性を肯定している。という事実が存在する。つまりこれは無個性といわれるものを使った「個性とは何か?」と言う問いと解釈する。
回答
まず、無個性的なものとは、以下の3種類に分類できると思う。
1. 公団マンションや、中小オフィスビルのような所謂「四角いハコ」。
2. 無印良品的なもの。
3. ミースのファンズワース邸。
1が発生する理由は、プラグマティズムによるところが大きいと思う。安く多く。だからすべて同じように見える。よって無個性。
2は、無印良品のチーフデザイナーは元々は田中一光、今も錚錚たる顔ぶれ、「普通っぽい」を作家が狙ったもの。
3のファンズワース邸は、講義中の言葉を使えば、純化による個性の排除。これにより無個性になる。
ある対象を個性化する要素は以下の(ⅰ)~(ⅲ)が存在すると思う。
(ⅰ).例えば公団マンションに住む人々には、日常がある。それは「完璧に同じ、は1回もない。」という人の行為に関わる個性。
(ⅱ).大きな差のないものが大量にある。という個性。これは、集落の見せる郡としての風景が当てはまる。(量により差を生む)
(ⅲ)対象の持つ豊かさによる異化。(素材や作家が作ったと言う付加価値)
(無個性なものの)個性とは(ⅰ)~(ⅲ)の要素のバランスに縁ると思う。1は(ⅰ)の要素が強い。2は、(ⅱ)の要素と、(ⅲ)の要素が強い。作家によるという意味で(ⅲ)であり、ほとんど同じ物が大量にあるという意味で(ⅱ)。3は、ミースによる空間芸術であるという意味と豊穣なマテリアルの使用という意味で(ⅲ)。
1が無個性であるということと、量による個性化は少し矛盾していると思うが、(ⅱ)が成立するためには、郡となるものに一定の秩序が必要だと思う。その秩序が、「あいいかも」の根拠になると思う。だから、1も最も安く建てるというルールが存在すわけだから、「いいかも」と思ってもいいはず。でもそれが完璧に実行されて郡をなす風景は見たことがない。(たとえ東京であっても)だから個性とは言いきれない。(それがニューヨークにはあるのかもしれないが。)

02t3094f 山田 匠
誤字訂正

すいません誤字がありました。
郡→群
(群れの群と地区の郡だと勘違いを招きかねないので訂正させていただきます)

04T3033A 草間康至

無個性というものはそれ単独なら本当にただの個性のないつまらないものかもしれない。ヨーロッパにある統一された街は強烈な個性というかオーラのようなものを放っている、しかし見方を変えてみれば同じような建物ばかりで個性がないと見ることもできるだろうが、誰もそんな風に言わないだろうし、思わないだろう。それは完成された一つのものだからだ。
 無個性な物は確かに無個性かもしれないが、そこには無個性という個性がある。どんな作品にも個性があるとすれば、個性が無いということ自体が何より特別なことで、それは個性的ともいえる。無個性なのに個性的、それは矛盾かもしれないが事実だろうと思う。無印良品の印、無印良品の個性とはそういうものだろう。
 会社のロゴが入った物が数多く存在している世の中で、印の入った物に慣れていた人達にとって、無印良品のような“無印”の品物はいかにも新鮮で“格好いい”ものなのだろう。しかも、他の商品よりも性能の面で別段劣ったものでないならば、売れることも当然だと思う。もし仮に(実際にはありえないが)世の中が無印の、無個性の品ばかりだったらそれこそ見向きもされないだろう。
 ともかくも自身を何処に所属しているか主張する商品が多くある中で、何処に所属しているのか分からない商品はそれだけで、それがその商品の“印”になると思う。無印だけど質の良い品ということもその特徴であり、印といえるものだろう。
 結局のところ、ちゃんとした品ならば無個性なものなどないのだと思う。それと示すものがなくとも、その無個性ということ自体がその品の“印”となっているのだろう。無個性だけれども無個性ではない、無個性が個性となっている。無印なのに無印という事実がその商品の印となっている。実際には無個性なものなどないのだろう。

04T3005F 泉 宏子

「無印良品」の印は“印がない”ということだと思います。今は目に付くもののほとんどに、それがどこのメーカーのものかを示す印がついています。いってみればこの社会には印があふれているのです。そんな社会に生きる私たちは、無意識のうちに、「ものには印がついている」と考えそれを探してしまっているのではないでしょうか。そのため“印がない”ということは、あるはずのものがないという違和感のようなものを人々に与えるとともに、その存在を示しているのでしょう。
また、印がない以外にも「無印良品」の商品には他のものにあるはずのものがなくなっています。それは色と形です。一般的な商品にはメーカーの印とともに、その商品自身を他から区別させ、それを利用者に使いたがらせるための色そして形があります。「無印良品」は色を白や透明という一般的にいう“無色”や、黒や素材のそのものの色にし、形を人々が世間一般にイメージする最もオーソドックスな、その役割を果たすための最小限の形にすることにより、“ない”ことを“ある”ように認識させているのです。これは他の商品が自身の他からの差別化を図った結果、色や形に世間があふれてしまった今の社会だから成功したことなのでしょう。
さらに、「無印良品」のなにも“ない”商品には「自分がそこになにかを加えることで“ある”状態にできる」という利点もあります。これはもともと何かが“ある”商品には持てない大きな特徴です。何もかもが揃っている時代で人々はオリジナリティーを求め、その結果自分だけのものを自身で作るようになった。ただし、それは簡単なことではないのですでに出来上がったものになにかを「加える」ことでそれを実行するようになって行きました。そこに大きな役割を果たしたのが「無印良品」だったのではないでしょうか。

04T3088J
村山 文緒

私は、無個性という言葉は今まで聞いたことが無いし、良く分かりません。けれど、無個性とは個性が無いと書きます。だからといって個性が無い=普通ではないと思います。
むしろ私には無印や平皿に個性が無いとは思いません。無個性という言い方に疑問を感じます。物には少なからず個性があります。それは物によって強かったり弱かったりするけれどどんな物にも見られと思います。
例えば、ファンズワース邸はシンプルで住みやすいと思うし、ああいった物を造りたいと思います。ファンズワース邸をチャールズジェンクスと言う先生によってつまらない、ヒラエルキーがないと非難を浴びているが、私はそうは思いません。ファンズワース邸の個性はむしろあの箱にあるのだと思います。トイレなどの水廻りを一つにして他を自分で組み合わせて作っていくというのは一見、作った人の個性が出ていないように思いますが、そうではなく、なかなか考え付かない建築だと思います。ファンズワース邸を初めとする
この無個性と呼ばれるものの個性は、使う人の個性を引き出す事だと思います。ファンズワース邸では、自分で配置を決められ、作り付けの家具が無いことで自分の趣味の家具を置くことが出来、その人の個性あふれる家になるでしょう。だから、個性が無いのではなく、個性を引き出す事が個性なのです。そう思いました。
無印だってそう思います。そのまま使うのも良し、何か組み合わせるのも良いと思います。無印はある一種のブランドであり、〈無印〉印というものであると思います。無印の印とは? と考えたときに出て来たのが、あのシンプルさでした。無印は、何を作るにしてもシンプルさを求めています。使いやすくかつ、シンプル。これが無印の印なのだと思いました。
無個性と言う言葉には抵抗がありますが、あえて使うとすれば個性を引き出すのが無個性である。これが私の結論です。

2年 金 昌秀(キム チャンス)

無個性の個性とは何か。個性とは、人それぞれが持っている特別な性格とか考え方のことを言うのではないかと考えたとき、無個性とは、そういった特別な性格や考え方を持たないものを言うのではないかと思う。つまり、悪く言えば自分の意見や考え方がはっきりしない。よく言えばいろいろなものを取り寄せ、多くの知識などを得れるといったところか。ちょうど授業で習ったゾーンと平皿の関係ではないのだろうか。自分が建物の設計をするとき、ゾーンの場合、この部屋はここに、あの部屋はそこに、といったようにその部屋をどこに配置するかは人それぞれの個性の違いがある。逆に平皿の場合、その建物に住む人の立場からみると、どこで何をするか、という個性が出るが、設計する人の立場から見ると、どこに何を配置するかは、そこに住む人次第で、自分はただ大きな空間を与えただけという無個性的な面がある。また、重箱を考えてみると、あらかじめこの部屋はあそこ、その部屋はここと、もうすでに決まった状態である。だからこれは完全に無個性であり、かといって今回のテーマのような無個性の個性もあるとは思えない。無個性の個性とは、ちょうど平皿のように、ある面では個性的であり、ある面では無個性であるようなそういったあいまいなものの中にだけ無個性の個性とは存在するのではないかと思う。

04T3040D
桜井愛海

何もないところにこそ、「本当の自分」があり想像の世界が広がる。私はそう考えます。何もないところから個性的なものがどんどん生まれ、やがて個性的なものだらけになります。そこで今度は、何もないところへ戻ろうという流れが生まれ、何もないところ、つまり無個性にたどりつきます。そこには飾らない「本当の自分」があり、それこそが無個性といっているものの個性ではないかと思います。「本当の自分」はたった一つしかないものなのです。そこから自由な想像の世界が広がり、新たな個性が生まれていくのです。そして、この流れは繰り返され、私たちは何度も無個性という個性、つまり「本当の自分」に出会うのです。
無印良品の印は、二つあると思います。一つは、「想像の世界を広げ、自分たちの生活を作るもの」です。私は無印良品のグッズには、自分で絵を描いたり写真を貼ったりして、新しい自分だけのものを作ります。こういうことができるのも無印良品ならではのことであり、それが印となっているのではないでしょうか。もう一つは、「本物の気持ち」です。無印良品という名前の通り、印はないけれど良いものを提供していくという思いがあるように思えます。無印良品のグッズには、ブランドにこだわることなく毎日を快適に暮らすために必要な良いものを、多くの人々が選ぶことができるようにという、作り手の思いやり、つまり「本物の気持ち」がこめられていて、それが印なのではないかと思います。
子どもの頃から、個性というのは、誰も考えつかないようなことをすることだと思っていました。間違ってはいないと思いますが、いつも、そうしなければ私には個性がないことになってしまう、というプレッシャーを無意識のうちに感じていたような気がします。いまだに個性というものは何なのかはっきりとはわかりませんが、思いつくままに素直に、そして信念を持って自分を表現できる人になりたいです。

05TA324D 高橋伸幸
坂牛研究室M1の高橋です。今週の課題から参加させていただきます。よろしくお願いします。

「無個性の個性とは何か」
僕は無個性の個性はただ「無」を強調するためだけの付属品だと思います。
例えば、ミースのファンズワース邸だったら空間が均質であること=空間に差が無いこと≒「無」であることが重要である。つまり、「Less is more」の言葉通り、無駄なものを減らしていき「無」に近づけることであの空間ができている。そこで使われる無個性とは個性が無いことではなく、「無」という新しい個性があることを示しているのではないのか。それは、竹の子の皮を剥くように、無駄なもの削っていくと最初のものとは性質も形も味わいも違う洗練されたものが出現することだと思う。
だから、無個性とは個性と言う言葉の反対語なのではなく、個性という分類の中の1つであると考えます。

「無印良品の印とは何か」
逆説的にその答えを探してみることにしました。
無印良品の反対は印良品=印のある良い品物という意味になる。
印がある良い品物とはどんなものか?
すぐに浮かんできたのはシャネルやグッチなどのブランド品だった。ブランド品にはその名の通りブランド(銘柄)があり、それがその品物の意味や価値を判断するひとつの規準になっている。実際、ブランド名だけで品物を買っている人もいる。
つまり、無印とはそういう品物の判断基準を無くすことなのではないのか?
銘柄、装飾、デザイン、サイズ、材料、値段など消費者がその品物を判断する基準はたくさんある。
しかし、選択肢が多いことはその品物の本質を曖昧にしてしまう。
判断する基準を減らし、限定することでその品物の本当に価値が明確になる。
そこで明確になった価値こそ、その品物の本当の価値であり、個性だと思う。
それはまさに「Less is more」という考えである。
無印の「印」とは本当の個性を隠している判断基準だと僕は考えます。

04T3047A 2年 瀬戸洋平
今回の講義で平皿建築というものを学び、ミースのファンズワース邸を代表に無個性という概念を考えたとき、私は無個性が世の中に堂々と存在して良いものだと考えます。人間がつくったものに個性が表れないなど考えられないと思います。そこで私は無個性とはそれぞれに意図があり、あえて個性を封じ込めようとしたものであると考えます。無個性という言葉の意味を考えると矛盾しがちですが、個性をできる限り表現しないこと、と解釈すれば最も適切な言葉だと思います。大げさな位がちょうどいいというか、インパクトがあると思います。ファンズワース邸にもそういったところからインパクトを感じると思いました。たとえ、人がつくったものを真似しようとしても、そこにはなんらかの自分なりのアレンジがあると思うし、なぜ自分がそれを参考にしたのか、自分なりの考えが含まれていると思います。いくら個性を閉じ込めようとしても自分が手を加えたものには人とは違うものが形として現れ、それが個性を象徴しているのだと思います。
私は、無印良品にはとても興味があります。あのシンプルなデザインがなぜこれほど人気なのか。それは機能性に優れていることが関係しているのではないかと思います。無印良品の品物にはまだ完成されていない商品が多々あると思います。特に家具類は、自分にあわせて数や形を選ぶことができ、組み合わせが豊富です。人は他人とは違うものを持ちたがるものです。自分の好きなようにできるのが魅力なのではないでしょうか。つまり、無印良品の印とは、手にした者がつくっていくものであると私は思いました。

04T3018H
奥野耕司
 私は、そもそも無個性というものは存在しないと思います。自然物にしろ、人工物にしろ、この世界のあらゆるものはすべて何らかの意味を持って存在しているのだと考えます。したがって、その意味というのが個性なのであると思うのです。
 例えば、ミースのファンズワース邸はヒエラルキーがなく、装飾もなされていないということで無個性であると評価されていますが、そこにはミースの、今までの建築からの逸脱という思いが込められているのだと思います。ファンズワース邸は、そんなミースの思いを世の中に発信するという意味を持っている。それこそが個性なのではないでしょうか。
 そこで思ったのですが、何も考えずに作られたものは無個性といえるのでしょうか。例えば、授業中にノートの端になんとなく書いた落書きは?私は、これにも個性があると思います。ただなんとなく書いたんだから意味なんてないと思われるかも知れませんが、少なくともそれを書いた本人にとって、その落書きの中には退屈な授業の暇つぶしという意味が存在している。したがって、落書きの中にも個性というものがあると思います。そもそも何も考えなかったら、何も生まれてこないのではないのでしょうか。
 個性は実体のない抽象名詞です。よって、その全体を認識するのは非常に困難なことだと思います。しかし、それは身近なところにたくさんあふれていると思います。そんな個性の中には、作者の考えや思いが詰まっている。個性とは、この社会が成り立っていくのに大切な役割を担っているのだと思います。

04T3001C
赤羽 利哉

私は個性というものは、周りにはない、ある人が何かの考えや新しい発想をもって作ったモノに生まれると思います。その例として今回のテーマである「無印用品の印とはなにか」について書きたいと思います。
 無印商品と特徴は、自然のまま、シンプル、生活に対する合理性だと思います。無印であることで、多様な空間の中で浮くことがなく、その空間に溶け込めることが出来ます。それは一見、自己主張のない無個性のものにも見えます。しかし、無印用品を作るうえで、製作者が何らかのコンセプトを考え、デザインすることで、一見無個性に見えるものも、その製作者と同じ見方(考え)をもってその無印の商品を見た場合、見る人に何か与えるもの(個性の主張)があるように思えます。そういう観点で無印の印を考えた場合、私は無印商品が見る人に与える主張こそが無印の印であるように思えます。
 今現在、ものの個性という中で多くのブランドが自分のコンセプトを示し、それを主張するかのように自社の商品にタグをつけ、いかにも全てがその商品が全てにたような個性を主張しているように思える。無印商品も、もしかしたらすでにそうなっているのかもしれない。
 講義の中で扱ったミース・ファンデル・ローエのファンズワース邸も、もちろん無個性ではなく個性をしっかりもった建築物だと思います。洗濯する場所もない。開閉できる窓は1カ所だけ。夏は暑くて過ごしにくい。そんな建築物であっても人に対して何かを主張している。だからこそこの建物には個性を感じれるのだと思います。この建物をみて無個性と感じる人は、ただ何にもこの建物から感じ取れないから無個性と感じてしまう。タダそれだけだと思う。

04T3002A
阿部裕子

 今回の課題の題材を得てから、まず自分が考えたものは、『個性とは、誰にも無いものを持っている事』と言うことだ。これが根津よく頭に残り、「無個性と言っているものの個性とは何か」と言うものがどうしてもピーンと来ないため、靄がかかったような考えしかまとまらなかったが、これから、自分なりの考えを記していきたい。
授業中出てきた例で少し考えて見たいと思う。無個性とは、つまり、自由空間を主体として考えられた建物は、その当時には考えられなかったのではないだろうか。自由空間として、ワンルーム造りにし、自分なりに遣う。この考えは、誰も思いつかなかった、又は、思いついても行動に移さなかったのではないだろうか。また、無印良品も同様に皆それぞれ無印と言うものに興味を持っていただろうがそれを作り出し販売までこぎつけたのは無印良品と言う会社のみであったのだろう。このように無印つまり、印が一つもない事がその会社の印になっているように思う。つまり、誰でも持っていそうなものがその無印良品の売りであり、印であると考える。このことから、無印であれば買った人々がそれぞれの用途に合わせて手を加えることができるように思う。このことを建物で無個性を表すのならば、始めに設計をした人にとっては、手を加えられてショックな事かもしれない。しかし、私が思うところは、建物を遣いやすく、自分なりにアレンジして、リフォームなどをする事で無個性だったものが個性を出していくのではないかと思う。(また、リフォームなどをする事によって長い年月遣い続ける事が出来るようになるのではないかと安易ながら思ってしまう。) このように手を入れる事は元々個性があったものではなかなか出来ないというよりも、無理であろう。手を加える事ができる、また、自分たちに好き勝手に使い、自分にあっている用途で遣うことが出来る為、無個性が個性を持つ事が出来るのではないだろうかと考えた。

2年 中井大海
この課題に対する自分の考えを提示する前に、まず個性とは何かを自分に問うた。個性とは何なのか?自分は個性というものは人間一人一人が持つ、ありとあらゆる事象に対する無数の選択肢から選び抜いた道のことだと考える。どのように人間は道を進んでいくのか?その根源を求めていくと、結局は自分が生きるためだとかいう欲望のようなものがそこにあり、個性というもの自体が存在しなくなる。だからその人間から生まれてくる建築物にも個性なんてモノは存在しないのだ。という悲しい結果に行き着く。これも自分の中にある個性に対するひとつの解釈。
また自分がその道を選んだ理由が何にせよ、個性は自分の中にある信念のようなものではないかとも考えている。本を読んだりTV、新聞を見たりした時、またある時は人と会話する時などに「こんな人になりたい」とか「こんなことをしたい」とか感じることは多くの人にもあると思う。そんな自分の中の目標地点、つまりそれが人間の信念であり、個性なのだと考える。そしてこの課題に対しても自分の中である程度確立した「個性」というものが他のみんなにもあって、一人一人似ているけど違ったものであって。その違いもまた個性であると思う。
結局のところその人自身がモノを見る視点が影響しているのだ思う。だからファンズワース邸を無個性だとか言われてもおかしくはない。自分は周りの人とは違った視点で建築を見ていて個性があると思うし、何もないという性質がしっかりと存在していて利用する人に自由を与え、その人の個性を表現させたいという信念があったのだと思う。モデルハウスのようなどこにでもあるような建築こそ個性が無いのでは?と思うことがある。しかし視点を変えると、そんなモデルハウスを建てている人にだってより安く、快適な暮らしを提供するといった信念を持っているかもしれない。無印良品にだって何の柄も無く、その商品に塗られた色をより誇張させたいという考えを持っているかもしれない。つまり何かを無くす事で他の何かを引き立たせたりする、それが無個性といっているものの個性だと考えている。

04T3061G 戸堀一真

質問に対する答えは、第三者によって無個性だと評価・批判されたこと自体が、そのものの個性であると考えます。あるいは無印良品の例で言えば、評価・批判されたことが実際に数値となって現れるもの、つまりは、どのくらいの売り上げがあるのか、またはどの世代にどれだけ支持されているかといったものが無印良品の印である。個性あるいは印というものは、常に同じものではなく、時代・風潮などによって時々刻々と変化するものである。だからこそミースの平皿建築が一時は批判されたが、その後は一変して賞賛されたのではないか。
無個性には個性がないというだけではなく、始まりはすべてのものについても個性がない。というのは、個性というものは、他から評価あるいは批判されることで後天的に付加されるものであると考えるためである。先天的なものではないからこそ、時間の経過により、または、評価・批判する人によっても良くも悪くも変化してしまうのである。
ここで、そもそも個性というのは、何であるかと考えてみる。辞書を引けば「その人・物だけにそなわった特有の性格・性質」とある。しかし、自分からしてみれば、自分の性格というものは決して特有ではなく、自分にとってそれが当たり前であるのだ。他人からその人や物を見た場合に、あの人は、またはあれは、個性があるといえるのである。この点から考えても個性というのは第三者によって与えられたものだと言うことができる。
結論は、無個性の個性とは、評価・批判によって生み出されるものである。建築物とその建築家とは同一物であり、第三者の関係にはなりえない。だからこそ作品に自分を投影することはできても、個性や無個性のように他人によって付加されるべきものは、自分ではどうすることもできないものである。

04T3025A
2年 加藤絵梨
 私は今までに「無印」という言葉は聞いたことがあったけど、「無個性」という言葉は初めて聞きました。まず、印とは一般的にはその物体の目立っている部分やチャームポイントのようなものだと思います。その物体を見たら最初にその印に目がいき、印象に残るのも印の部分だと思います。だから、無印良品の印とはその物体自体が印であると私は考えます。特に目立ったものがないということは、その品物自体に自信を持っていると思います。私自身も無印良品を好んで使っています。それは特に印がないため、飽きることなく長く使っていけるからです。
 次に、「無個性」の個性を考えようと思います。そもそも個性とは印のようにその物体の特徴であり、いいところでもあり悪いところでもあるように思います。けど、個性がないからと言って、それが単につまらないものだということではないと思います。字の通り個性がないのが個性だと思います。しかし個性のないものなんてこの世の中に存在しないと思います。いくら個性をなくそうとしても何かしら個性は生まれてきてしまうもののような気がします。人だって、個性がない人なんていないと思うし、みんな何かしらの特徴を持っていると思います。こんなことを言っていますが、私もよく個性的なアイディアが浮かばないと悩んでいます。でも今回、無個性の個性を考えてみて、もっと自分の考えに自信を持とうと思いました。自分の考えを貫いていけばきっと、自分が納得できるものになると思ってがんばっていこうと思います。

04T3074J
藤田真理子


無印良品には、ブランド名が印されているわけでもない。それなのに一目見るとだいたいは無印良品なのだろうということがわかる。それは、その品物に無印なりの個性があるからだと思う。その個性とは、印がないことから始まり、再生紙で作られたベージュのものや、白色の電化製品など、俗に言う無着色な色でできものなのだ。世の中には色んな人がいて、いろいろな個性があるけれど、その面白味のない無印と言う個性は、逆に、人が持っていない個性だったからこそこんなにも無印良品には人気があるのだと思う。また無印でなんにも書かれていないシンプルなものだからこそ、それに人それぞれの個性をあたえてアレンジができる。無印とは時に無個性となって、それに個性をあたえられるものでもある。無印良品には印はないけれど、印がないことこそが無印良品の印であり個性であるのだと思う。
私は無印良品のものがすきでよく購入するし、服などもシンプルな黒や白などで柄ものはあまり着ません。赤や黄色などとカラフルで原色のものなど個性的と呼ばれるものはあまり着ません。けれども自分に個性がないとは思わないし、モノトーンばかりを好むのも自分なりの個性だと思っています。それでは逆に、ほんとの無個性とはなんなのかという結論に到る。無個性と言う個性であるのか、また個性的とよばれるものもみんながしたらそれは無個性になるのではないか。結果的に自分では答えを導くことはできないけれど、それもまた個性なのかもしれない。

04T3072B
2年 平田雪絵
 個性がないとはどういうことなのか、普通ということなのだろうか。個性とは、個人に具わり、他の人とは違う、その個人にしかない性格・性質である。個性が無い人なんていないと思うけど、個性がはじめから無いのではなくて、なくそうとすることで無個性を表現できるのではないかと思う。自分らしさ、自分しかもっていないもの、そういうものは自分ではわかっていないのではないかと思うけど、周りの人たちのことを知ったり、触れ合うことで、だんだん自分の個性や周りの人たちの個性、普通と言うのがわかってくるのではないかと思う。だからといって、無個性であることが普通なのだろうか。普通とは、私の中では、一般的でよくあるもの、と考えている。それが無個性なのかどうかといわれるとよくわからないけれど、個性と言うのが自分しか持っていない表現力だとしたら、普通は、他のものと一致するところが多いと言うことになるのかな、と思う。人はそれぞれ生まれた場所、環境が違くて、育ったところも違うので、考えていること、想像することも、一人ひとり違うのではないかと思う。だから皆それぞれ個性は持っているものだと思う。しかし、それをうまく想像して考えたり表現が難しいので、個性を強くだすことが簡単ではないのだと思う。
 無印良品とは、ぱっと見て、とてもシンプルだとまず感じる。印や模様が無く、形や色使いだけでほしいかほしくないか、を消費者は決める。印が無いのが印、というか、看板であるのだと思う。どこのお店も商品もこれ、といった他には無いようなマークがある。そのような、誰かによって、形作られた、デザインされたもの(印)がないのが無印ではないか。でも、無印良品は、有名になってからはもう、「無印良品」という言葉が売り、というか、印になっている気がする。そして、他のお店や商品に色々工夫された印が取り入れられているからこそ、「無印」と言うものに意味があって、成り立っているのではないか、と思う。無印良品は、印がないけれど、こせいがあるもの。独特の雰囲気がある。目で見える印がないだけで、消費者たちは、他のお店でいわゆる印とされているものの何かをもっているように感じていると思う。

04T3014E
2年 岡崎 友也

 何かモノが存在すれば個性は存在するのであって、無個性なモノは存在しないと考える。人はモノから必ず何らかの影響を受けている。それは色であり、形であり、質感であり、音であり、またそのモノが存在する場所であろう。時には匂いからそのモノを感じ取ることもある。つまり人は五感のいずれかを通して必ずモノを認識し、意識の有無は別にしてそれに対する感情を持つ。
 工業の機械化によってモノの大量生産が当たり前になったが、その生産されたモノを一つ一つ見比べても何の相違点も見当たらないだろう。一見、それぞれが無個性の何百何千ものモノが毎日生み出されるわけだが、これにもやはり個性は存在する。生産されたモノがビッシリと並べられているイメージをして頂きたい。全く同じ色・形・大きさのモノがきれいに列を成している。その中から一つ選び、少しだけずらして置いてみる。するとそれぞれの見た目は全く同じモノなのに、たちまち目立つ存在になる。これはそれぞれのモノが潜在的にもつ立派な個性だと思う。さらにモノが持つ個性はこれだけにとどまらない。先ほどイメージして頂いたビジョンを思い出して頂きたい。モノが並んでいる列から一つ選んで抜き取ってみると、そこにはモノが存在しなくなる。つまりモノの個性はそれ自体が無くなった時にも発せられる。それではきれいに並んでいる時にはモノは無個性状態にあるのかどうかであるが、それも違うと思う。並べられたモノ全体の雰囲気から、人は直線的、緊張感などの感情を持つだろう。これは各々のモノの個性ではないが、全体の個性を作り上げているという意味で、それぞれが紛れもなく等価の個性を出し合っている。このことからモノは個性を持っているのだと考える。
 ミースのファンズワース邸のどこが無個性だというのだろうか。実際に住んでみるとそれぞれの面に風景の違いがあり、万華鏡のように移り変わる木漏れ日を受けるだろう。それがファンズワース邸のすばらしい個性の一つであろう。
本当に無個性なモノなんて存在しない。

04T3081A       2年 三浦 淳史  私は無個性にも個性があるとは思う。というより無個性という個性と言ったほうが分かりやすいかもしれない。だけど、本当に無個性がその人の個性なのかと問いただすと答えはうまく見つからない。無個性でも種類が一つしかないことは決してありえないと思うし、10個の無個性が集まったら、10個すべて同じ物が出来上がるといったら、これもありえない話である。実際はどうか分からないけど、私はこのように考えています。決して否定しているわけではありません。私は無個性派でもなく、個性はでもないのです。時と場合によっては無個性が生きてくる場面があるかもしれないし、この場面では個性を十分に発揮したほうがよい場面もあります。私は、十数年間サッカーをしてきましたが、中村俊介のように個性で満ち溢れた選手がいますが、彼はいつも個性だけでサッカーをしているわけではないと思う。彼なりに、自分を抑えている場面もあるのです。なぜなら、チームが勝たなければ意味がないからです。自陣のゴール前で個性など要らなく、一刻も早くピンチを脱出しなければならないのです。点を取られていては、負けに繋がってしまいます。一方、敵陣ゴール前では個性を十分出して、相手を翻弄し、観客を沸かせることが出来れば、最高なんじゃないかなあと思います。まあ、点が取れなかったら勝てないが。そんな中村俊介のように個性と無個性をうまく使い分けられればいいと思います。というより、それを目標にしていきたいです。ですから、私の中では、ベルサイユ宮殿も見方によっては魅力あるものに見えます。また、ミース・ファン・デル・ローエのファーンズワース邸もシンプル過ぎるかと思われるところもありますが、とても考えさせられる建築の一つと思います。

04T3093E
山田 卓矢
 無印良品やファンズワース邸は人間で言えば好き嫌いがない人みたいなものだと思います。好き嫌いがない人とは一緒に盛り上がることや愚痴を言い合うことが出来なくてつまらないかもしれないが、逆に言えば誰とでも話せるすばらしい個性だと思います。
こう思った理由を次に述べていきます。はじめに無印良品に対して僕が思っていることを述べます。無印良品はとにかくシンプルであることが思い浮かびます。特別な装飾もなければ模様もありません。でもそれゆえに多くの人が使いやすいデザインであるのだと思います。無印良品が多くの顧客に受けいれられたのは誰もが使いやすいものだったから、大げさに言えば無印良品の商品が顧客を選ばなかったからだからと思います。これから無印良品はどんなスタイルにでも合わせることの出来るモノだと考えられます。シンプルなモノだからほかのモノに溶け込みやすい。だから無印の商品は自分の色に溶け込ますことが出来るモノだと僕は考えます。 
次にミース・ファン・デル・ローエのファンズワース邸について考えてみました。あのガラス張りで、フラットな建築物はとてもシンプルで無印良品と同じような印象を与えられます。静かな自然の中に囲まれた敷地に立つ別荘として絵になると僕は感じています。確かにその土地に最適な建築なのかといわれると疑問も感じますが、けっして合わないとは思いません。この建物は用途を変えてみればいろんな場所に使えると思います。たとえ人ごみの多いところでもカフェとして使えるのではないかと僕は思います。ファンズワース邸もどこに立地するか、どんな目的で使われるのかでその表情が変わると思います。
ここで僕なりの見解を述べてみると無印良品の「印」とは特別であること。そして無個性の中にある個性とは主張が無い、シンプルさゆえの適応力だと思います.どちらも他のモノの色に染まることによって普遍的なものから特別なものに生まれ変わるのではないかと僕は思います。

04T3086B
2年 村上亜衣

個性とはいったいどういったものなのかを考えた。個性というのはその人の特徴であって、その人特有のものであると考える。では、無個性とは個性が無いと書くが、そのままの意味なのか。わたしは個性が無いということが個性であると思った。あえて独特なものをもたせないことがそのものの個性であり、個性的であるといえるのではないだろうかと思った。
無印良品。これには個性的な印は示されていない。無装飾で、ブランドを示すデザインは無くとてもシンプルなのだ。しかし、私たちの頭の中には無印良品というものがわかっている。印があるわけでもないのに、その商品を見ると無印良品であるということが分かるのだ。それは、無印良品独特な個性を持っているからだといえるのではないのだろうか。私は無印良品が好きです。なんとなく店頭に並んでいるものを見ているし、なんでも揃えて買いたいと思います。無印良品は人気のブランドです。無印良品の商品を持っている人は決して少なくないです。しかし、同じものを持っていても持っている人それぞれの色が出ていると思います。私たち個人の個性を最もひきだしてくれるものかもしれません。シンプルだからこそ持つ人、使う人独特のものをあらわせてくれるのだ。無印良品というのはそういった個性を持っていると感じました。
私は昔から自分には個性が無いなあと感じることがありました。オーラや、インパクトのある、独特なものを持った子に憧れていました。何かを作ってもパッとしないものばかりのような気がします。これもここで言う個性のある無個性だと思えればいいのですが、やはりそれは違うように感じます。無個性というものにはやはりそれなりの意味がある、魅力的なもののように思えました。わたしもシンプルなものが好きですが、シンプルだけどどこか個性がある、個性をひきだすことができるといったものを考えていきたいと思いました。

04T3084F
2年 宮尾真紗美

 無個性といっているものの個性とは何か。まず考えるのは「無個性」といっていること自体「個性的」だということ。個性的な帽子、個性的な性格、個性的な服、個性的な家・・・それらの中に「無個性」というものが入れば「無個性」という個性を持ったものになりうる。ミースのガラスの箱のような建築が建てられたときも、無個性という名の個性であった。しかし、ガラスの箱のような建築が増え、都市のいたるところで見かけるようになった今では、一つ一つを見ると設計者のこだわり、個性が見えるが、全体でまとめてみるとどれも同じようで無個性の集団になる。無印良品でいえば、色鮮やかな模様、凝ったデザインのペンケースと白い箱のようなペンケース。さまざまな曲線をふんだんに使ってデザインされたベッドの隣に並ぶ真っ白い四角形のベッド。これらは対照的なものなどと並べて、一つ一つみると、個性的に見える。しかし、無印良品の売り場に足を踏み入れれば、どれも白や茶色、黒などの落ち着いた色でシンプルな形をしていて、それらは個性など見えてこない無個性の集団になる。凝った形や鮮やかな色、さまざまな模様やイラスト、写真などが載せられているものがたくさん出回っていたこれまでの世の中に無個性といっているものが出たときには、それは無個性とは言うものの、個性的であった。無個性といっているものを無個性の集団から脱させて個性的な社会に置いたときに初めてその個性が見える。つまり、無個性の個性とは、その集団としてみると無個性を表現するが、それらを一つ一つ見たりまわり全体を見回して初めて無個性の個性を表す。

 無個性の個性とは私たちが引き出すもの。私たち消費者が無個性といっているものをどう置くか、どう使うかによって、そのものが無個性になったり個性的になったりする。しかし、そこはもうそのもの自体の個性ではなく、その人の個性の領域になる。けれども、消費者とそれらを引き離して考えることは不可能であると思う。結局、無個性、個性を判断するのは私たちであって、人間が入るとそのもの自体の無個性、個性は見えにくくなるのかもしれない。

04T3004H
石川裕之

無個性とはなにか考えてみることにするが、その前に個性について考えてみる。辞書を参考にすると、個人や固体の持つ特有の性質などとある。建築で言うと、今までになかった斬新なデザインやその建築家の個性の具現化したものなどがそうなのではないかと思う。それでは、無個性といっているものの個性とはなんだろうか。僕はやはり、それもまた個性だと考える。個性のない個性。取り方によれば色々あると思うがコールハウスの言っている無個性とは、ミースなどの建築を良しとすることから、シンプルなものや機能を追及したデザインを無個性といっているように思われる。無印良品にしても、機能性だけを追及し、装飾などをすべて取り払っているデザインだ。そうなると、「シンプルなデザイン」、「機能性を追求したデザイン」という個性ではないかと思う。と言うことは「無個性」という言葉は、パッとしないものを見たときや、特徴を捉えにくいものを見たときなど、その時のニュアンスでさまざまな場面で存在すると思うのだが、「無個性」というそのものは存在しないのではないだろうか。無印良品は印の無いことを売りにしている。売りにしているということは、つまり他のデザインとは一線を引き、他とは違う、という個性をだしているのではないであろうか。ミースだってそうだ。ミースの考えるデザインは他にはない個性である。以上のことを考えると、無個性といっている個性とは個性が無個性なのではなく、「無個性」という名の個性なのではないかと思う。

04T3098F
2年 横島由佳 

 今回は、「無個性といっているものの個性とは何か?」というお題だが、私はこれを見たときなかなかすぐに書けませんでした。どうして書けないのかを逆に考えてみました。‘無個性’というものは個性がないものということを意味している言葉なので、その個性のない物の個性については書けないのではないのかと私は思いました。しかし、あえて個性というものについて書こうとすれば、先生も書かれているように個性がないということが個性であると思います。
 だから、私はコールハースという建築家が『ミースのファンズワース邸をつまらないくらい無個性なところが良い』と表現しているが、ここで無個性という言葉の表現は間違っているのではないかと思いました。ファンズワース邸はミースが機能で考えいくのをやめて平皿といわれる建築の究極的なものであり、あえてシンプルなデザインにしただけでそのデザインに個性がないとは言い切れないと思います。そのシンプルさがファンズワース邸の個性だと思います。

 次に「無印良品の印とは?」ということだが、私は無印良品の印は、名前の通り無印でロゴやマークがなく、デザインのシンプルさが印になっていると思います。他のブランドだとロゴやマークがあってそれを見ればすぐにわかるようになっています。しかし、無印良品のものはあえてロゴやマークがなく色や形がシンプルなデザインになっていて、その品物自体を見ただけで無印良品のものであることがわかります。無印良品のものは統一感のあるデザインになっているので、品物自体が無印良品の印になっているともいえるのではないかと思いました。
 先に書いたことに関連付ければこの無印良品のシンプルなデザインもひとつの個性だと思います。シンプルなデザインのものが個性がないというのではなく、どんなデザインにもそれなりに個性が表されていると思います。

04T3071D 日比野温子

 ミースの建築、20世紀の建築は、「Less is more」という言葉に代表されるのですが、この言葉でミースは何を伝えたかったのかを考えてみました。私が思うに、彼は「less」の善を主張したかったのではなく、「more」に対して彼が出した答えというのが「less」であったのだと思います。それまでの多くの建築物が、古典的なモチーフを付けるなどして、いわば足し算という手法によって装飾的に象徴されていたのに対し、ミースは引き算という逆の手法を用いて建築物を無駄のない透明なものにしたのだと思います。建築物に対して足し算を行えば行うほど、そこには視覚的にも機能的にも「制約」というものが生み出され、空間の可能性というものは逆に負の方向へ向かっていってしまいます。ミースは、「more」というものを追求していった結果、「less」という直接的でシンプルな表現にたどり着き、限られた材料で線と面を構成し、空間における最大の自由を得たのだと思います。
 同様に、個性を究極に求めた末行き着く先にあるものが、無個性という個性であるのだと思います。個性に様々な色があるとしたら、無個性のもつ色は無色という色なのでしょう。無色は、目で見ることは出来ません。目で見ることができないのに、色として存在しています。どうして私たちは無色という色を知っているのでしょう。その存在がくもりなく明らかであるがゆえに、目には映らないのだと思います。これが無色という色を持つ無個性の個性であり、個性の究極なかたちであるのだと思います。
 無印良品は、商品における無個性をもっているのだと思います。商品をダイレクトでシンプルに表現しているのです。そこに見られる均質で、非限定的なユニバーサル・デザインともいえる美学が、今の時代で受けているのだと思います。無印という印ほど、単純で明快な印象を与えるものはないのではないかと思います。分かり易すぎて、ほとんどの人が否定できない、嫌いじゃないというだけなのかもしれません。

03T3038J 崔志宏
 最初に課題を見て、すぐ「無印良品」という店が思い出しました。無印良品の商品は単に色から見れば、本当につまらない、無個性です。けれども、特別なデザイン、応用の価値で、世界中にすごい人気を持っています。それはなぜでじょうか?もちろん無印良品は個性を持っていると感じました。「無個性」というものは存在しないのではないだろうか、あるいは無個性という個性は存在しているでしょう?それは多分先生でも説明しにくいと思います。個性がないと言って、それが単純につまらないものだということではないと思います。
 個性と無個性の区別はただ判断の方法や見る角度が違うと思います。同じな洋服、Aさんが着たら、無個性ですが、B さんが着たら、多分個性かもしれません。建築もそうですが、いくら素晴らしい建物があっても、それひとつだけ見れば、個性と認めますが、その周りの建物と合わないと、その総体は無個性です。そのため、今日本の大学はシッビクデザインに向かって、教育を実施しています。人々または自分の意図が分かると、個性だと思うけど,逆には無個性です。物事の個性を引き出して、無個性のことを個性に認めあるいは進めるのが一番大切だと思います。ですから、その意図がわかるように、われわれも反省しなければなりません。

 私はこの講義で初めて「個性」と「無個性」について考えました。私はずっと自分には個性がないと思ってきました。その理由は特別人と比べて優れているところもなく、また『自分』というものをよく分かっていないから。人から「個性的だね。」と言われたこともなければそれを不思議に思うこともありませんでした。そうすると私は無個性なのか…?私には自分の好きなところもあれば大嫌いなところもあり、自分らしいなと思える瞬間もちゃんともっています。この講義で「無個性」という言葉に出会うまで、きっと私は「個性」をすごく特別なものだととらえていました。いつも人と違って、人と違う考えをもっていて、何よりも目立っていて…。個性とはそういったものだと思ってきたし、シンプルなものは個性的ではないととらえてきました。だとすると無個性とは『何もかも人と同じ』ということになります。でもそれはありえないし、私は自分のことを無個性だとは思いません。個性的とは言えなくても自分らしいなと思える瞬間や、自分というものを考え一つでも答えを見つけられた時、そこにはちゃんと私の個性があるはずです。
 そう考えると誰にでも、なんにでも個性はある、ただその表現方法が違うだけなんだという考えにたどり着きました。例に挙げられた無印良品もきっとそのひとつだとおもいます。形が複雑で柄も派手でゴテゴテしていて…、そんな物が溢れている中で無印良品は他とは違った主張をもっていて、そこにはしっかりした個性があります。
 無個性という言葉を考えた今、もう私は『シンプルな物に個性はない。』とは思えません。シンプルだからこそ、決められたブランドがないからこそ感じられる主張があるはずです。と同時に自分にも今まで気づけなかった個性がもっとあるのではないかと探してみたくなりました。

04T3057J
2年 塚田裕太

一個目のお題は「無個性といっているものの個性とは何か」ですが、個性について調べて見ると、個人に具わり、他の人とは違う、その個人にしかない性格・性質と書かれている。私は個性持たない人なんてこの世の中にはいないと考えます。物造り、性格、行動、ファッションなどどんなことにもそれぞれ自分の個性と言うものが存在するのだと思います。逆を言えば、個性のない人などこの世にはいないのだと私は考えます。今回の講義で、平皿建築と言うキーワードがでてきました。平皿建築を実際に作った人は、ミースで、その代表的なものにファンズワース邸と言うものがあります。私は、この建物を個性的な建物と考えるのだが、建築家のコールハースは無個性な建物だと言っている。私はこの意見は違うのではないかと思う。なぜなら、この建物は、周りをガラスに覆われ、中心に水周りのコア部分しか残していない。これほどシンプルで、独創的な建物は他にはないと思うからだ。これこそ個性が現れているものだと思います。
二個目のお題は、「無印良品の印とは」ですが、無印良品は私も愛用しているしみんなに人気のある商品だと思う。無印は、ブランド物と違い字も書かれていなければロゴも書かれていないまったくと言えるほど間逆なものだ。このような物の「印」と言うものを考えるのは難しいがあえて私は無印の印を何もないと考えます。ちょっとわかりにくい表現ですが簡単に言えば、印というのは、無印良品を愛用している人それぞれが自分色の物へと変えていくことだと思うのです。無印良品店からすれば、自分色に変えほしいと言う願いがあって印をつけていないのだと思います。この自分色へと変えていくことも個性の一つではないかと私は思いました。

04T3068D
2年 羽田 和彦

 『無個性』とは、『個性』をもったものが存在するからこそ存在しえる、『無個性』という名の『個性』であると思います。地球で例えると、現在、自然の多い土地、美しい森や草原などは観光の対象として多くの人に求められています。しかし、大昔は地球全体がすべて自然でした。そこでは人はわざわざ自然を求めることはしなかったでしょう。そのときは、自然は『無個性』であったのでしょう。技術が発展して、様々な建物、道路といった『個性』を持ったものが溢れだした現在、残された『無個性』である自然は、特別視され、いつの間にか『個性』に変わったのだと思います。そう考えてみると、『無個性』は、何かの土台なのではないでしょうか。地球で言うならば自然、色ならば白。それに何かを加えることで『個性』が生まれる。そのための土台。言い方を変えると、いろいろな『個性』を持たせることができる可能性を『無個性』はもっているのだと思います。
同じように、『無個性』は何かの土台だと考えると、無印良品の商品は、そのものの土台、つまり、原型であると思います。ボールペンがボールペン、ノートがノートであるための最低のラインでできていると思います。自分でなにか手を加えて『個性』を持たせるものよし、手を加えずそのままで『無個性』という『個性』を楽しむのもよし。そういった柔軟性をもった原型の形こそ、他のものにはない無印良品の印ではないでしょうか。

04T3043J 篠澤朋宏
「無個性」と表現される事も確かに「個性」であるが、それは「個性が無い」と言われるのと少しニュアンスが違うと考える。他人の真似事をしたものであるなら、それは「個性が無い」と判断されるが、自分のコンセプトやメッセージが込められたものには必ず「個性」が存在する。ファンズ・ワース邸が、ミースが考えに考え抜いた末にたどり着いた一つの答えならば、それは一つの個性であると思う。ミースの作品をチャールズジェンクスが「無個性である」と言ったのは、いかに綺麗な装飾を付けるかが重要視されていた時代の建築に比べて表情の乏しさが如実に感じられたからだと思う。チャールズジェンクスの言わんとした事は「無個性」ではなく、きっと「無表情」だったのではないだろうか。不必要な要素を極限まで排除したミースの建築は、表情の変化(建物が持つ感情の起伏)が少ない分、周りからは「面白みが無い」、「無味乾燥だ」と捉えられるのかもしれない。
しかし僕は、ミースの作品を“建築の本質のみが残った状態”だと考えている。余計なものが一切無い彼の作品はとても純粋で、見る度に考えさせられる良い教科書のようなものだ。着飾る事は本質を見失う事と同値であると考え、それは建築にも人間にも言えることであると思う。
 無印良品の印についても同様のことが言えると思う。あらゆるデザインが飛び交うこの時代に「simple is best」がもう一度提唱された。コールハースの出現と全く同じ流れである。デザインする事に疲れていた社会にとって、この発想は最先端に思えたのだろう。
誰が作ったかのかが判らないものが本当の意味での「無印」なのだと思うが、「無印良品」と謳ってしまっては、それは「無印」ではなく一つのブランドと相違ないのだ。現に「無印」と言っていたもの自身が完全に一つのブランド化(=印)していて、「無印」という発想の原点が崩壊しつつあるように感じている。

04T3087A
村瀬 涼介

「無個性といっているものの個性とは何かあるいは無印良品の印とは」。まず、こんなことを考えたこともないし今とっさに考えても全然答えが浮かばない。しかし僕が生きてきた中で(といってもたかが20年だが)平皿建築と言われるようなものはたくさん出会ってきている。それらはやはり僕の建築に対する考えや思想がないために、自分にでも作れそう、だとかなんでこんな建築が周りの人たちの拍手を浴びているのか、と思う。いいかえれば今回の講義を聞く前までは、無個性なもの、シンプルなものはつまらないし個性的である建築物こそが有名になっていると思っていた。でも今は違う。けどうまくその理由が説明できない。無個性といっているものの個性、それをこの課題が出された間ずっと考えてみた。これは答えというものは存在しないと思う。各自が考えたこと、それが答えであり、逆に人それぞれ一緒であってはならないと思う。僕は次のように解釈した。個性的なものばかりが世の中に現れ始め、それとともに個性的なものが注目されていった。まわりが個性的な建築ばかりになったときに、ふと一つ、全くシンプルで無個性なものを現れさせてみる。この状況ではありふれた個性的なものがいわゆる『普通なもの』(無個性というわけではないが)になり、ふと現れた一つの無個性なものが目立ち、この中で浮き、そして特別なものと解釈される。ここで個性的なものの持つ特徴というのを考えると、個性的なものは、やはり目立っていて、浮いていて、注目を浴びることができるといったことが挙げられと思う。この特徴と同じことがこの状況で言えたとき、その無個性なものが注目されたのだ。無個性の持つ個性というのはそこにあるのだと、僕は思う。無印良品も同じだ。オシャレでかっこいいものが世に出回っている現在、いたってシンプルで特徴のないものが現れた。それは多くのオシャレでかっこいいものに囲まれている中で浮いていたので、注目を浴びた。先に述べた原理と全く同じだ。無印のもつ印や無個性の持つ個性とは『オンリーワンや、それに近い存在』 が得るような意見と同じ意見を得ると僕は思う。すなわち無印、無個性こそが『オンリーワンや、それに近いもの』を意味している。

04T3070F 人見祐策
 今回のお題は「無個性といっているものの個性とは何か?」ということですが、まず無個性の意味について考えてみました。無個性という言葉は言葉どおりでは「個性が無い」ということであるが、はたして個性が存在しないものなんてありえるのだろうか?個性とは「もの」の特徴を決めるものであって、もし個性が存在しないなら「もの」の存在価値が無くなってしまうと思います。今現在、社会に普及している「もの」は、違ったデザインをもち、機能も微妙に異なるので私達はそこから「もの」の個性を判断し、互いに比較することができるのです。つまり「もの」の性能やデザインの違いがあるからこそ、私達は個性があると感じることが出来るのだと思います。逆に社会にあるものに違いがなかったならどんなに個性的なものであってもそれを個性があるとは感じることが出来ないと思います。無個性と呼ばれるものもそれを無個性と認識している時点ですでに、個性が存在しているのだと思います。言い換えれば、無個性も立派な個性だと思います。
 ブランドが多く普及している社会に無印良品が普及し始めたときその斬新さには驚きました。たくさんの印(ものの象徴)が広く普及している中に、あえて印の無いものを登場させたのは一種の主張があると思います。このことは個性の事と似ていて無印というもの自体が印なんだと思います。私は無印良品を少し愛用していましたが、他の印のあるものと較べてみるとやはりどこか無印というところに魅力を感じてしまう自分がいる気がします。

04t3083h 
2年 峯村亮佑

無個性というものは無いと思います。個性的でないのもまた個性だと思うからです。無個性といっているものの個性とは。無個性にもどのように無個性なのか、それにはまた種類がある。その時点で個々の性質が生まれてくると思うのです。無印良品は印や柄がない分既存の空間の中に溶け込みやすいと思います。無印良品は飾りが無くて誰にでも買って使ってもらえるそんな個性を持っていると思います。ミース・ファンデル・ローエのファンズワース邸も無個性ではなく個性がある建物だと思います。それはコアがある事も個性だし、ガラスでかなりヴォイドな空間ができているのも個性の一つ。空間を自由に使うことができるのも個性。世の中の物は全て何か性質がありそれが個性なのだと感じました。

04T3009J
内堀優磨
Less is more やsimple is the bestという言葉があるように不要なものをできる限りなくした単純なものほど美しいという考えがある。物事が多方向に変化し複雑化されていく中で、より単純なものが求められるようになったからではないかと思う。
 さて無個性といっているものの個性だが、無個性とはいっても個性がないのではないと思う。それだけをみたら個性がないと思われる。だが他と比べれば、そのものにしかない個性が見えてくるだろう。分かりやすく人の髪型を例にとってみる。髪が黒い人がいるとする。何十年か前ならば、それは個性とはいえないかもしれない。しかし今は多くの人が色を変えている。周りが変化することによって黒い髪が個性となっていると思う。つまり、無個性とは周りが変化していく中その変化とは逆に、より単純化された個性であると思う。ミースのファンズワース邸は重箱ではなく平皿建築である。それだけで十分個性であると思う。そして無駄を排除したシンプルな建築であれほど印象に残るものは数少ないと思う。
 無印良品の印とはなんだろうか。「それどこの?」などという会話がよくある。商品にはロゴがついていることが普通である。商品を買うとき、そのもの自体と同時にブランド名を買っていると思う。しかし無印良品にはロゴがついていない。無印良品は商品のみを売っていると思う。無駄な装飾を省いたシンプルなデザイン、これこそが無印良品の印であり個性であると思います。さらに無駄を省いたシンプルなデザインであるからこそ、使う側に溶け込みやすくいっそう個性的になると思う。こう考えてみると無個性といわれているものの方が実際は個性にあふれていると思います。

04T3035H 2年 久保田敏史

 「無個性」という言葉は個性が無いということを表す。一般に考えられる個性というのは、よりよい付加価値を付け加えるために特別な形や機能をつまりは変わったこと持たせることであると思う。つまり、プリントや装飾、めずらしい形などであると私は思う。機能開発がさかんで、新しい機能を考えるのに躍起になっていた時代は、機能の向上が重視されプリントや装飾などよりも最も重要な個性として表されていたと思う。ここで今現在の製品を見てみると、機能の違いはほとんど落ち着いているが、メーカーによって様々な違いがある。これがプリントや装飾による個性つまり製品のデザイン化であると考える。
 今はほとんどの製品が様々にデザイン化されていて、あらゆることに対応できるような機能を求められている。このような時代に大ブレークした無印良品は一見、無個性であるといわれがちである。無印良品の製品はみんなの目を引くデザインかがされているわけでもないし、機能を求めるあまりに起こるデザイン化もほとんど見られない。しかし、単に機能重視といっても、一見変わった機能を持っているということだけが個性を表すのではない。機能のあり方も、便利さに限るという人もいれば多少の負荷はあったほうがいいと考えている人もいる。だから、その変わっている機能がどちらにあるにせよ個性として認識してよいだろう。また、デザイン化にしても、シンプルなものがすきなひともあれば何か複雑な意図のあるものがいいという人もいる。今の世の中では機能は便利さを追求するほうに、デザイン化にしてみれば何か深い意味の感じられるものが評価を得ている。しかし、評価されるのと個性があるというのは別物である。ここでいう「無」個性というのは私が述べた、今の世の中に受け入れられやすいものの対極にある個性が出てきたからそう呼んでいるだけなのである。つまり、「無」個性の個性とは「無個性」といういかにも仰々しい名前がついてはいるが基本的には普通に言われる個性というものの方向の違うベクトルなのである。

04T3101K 和田隼人
 そもそも個性とは何なのか、定義は「個物または固体に特有な特徴あるいは性格。」となっている。唯一のもの、他に類を見ないもの、ということであるが、そもそもそういったものはなかなか存在しないのではないだろうか。人間を例にとってみれば個性を持っている、個性的な人ということは聞くことがあるかもしれないが、外見だけではなかなか判断が難しい。それぞれこだわりを持っているのではあると思うが、外見、服装を例にとって見るならばどこかで見たことがあるというものがほとんどである。とはいえ、中には本当に見たこともないような格好をしている人がいて目を魅かれることもある。しかしそのひとに対する周りの人たちの評価はどうだろう。白い目で見たり、その人のことを何も知らないのに色眼鏡で見てはいないだろうか。そもそも万人に理解される個性と言うものは存在しないと私は考える。批判されることも当然多いことだろう。ミースもしかりである。しかし逆に考えるならば何の面白みも無い建築とジェンクスに非難されたミースの建築は個性の塊だったわけである。無印良品の持つ印とはこういうことではないだろうか。シンプルな形、色、素材。一見何の個性も主張もない、無駄の無いフォルムであるが、実は個性の塊。その個性に惹かれるものがあるからこそ多くの人々に認められたのではないのだろうか。もちろんその個性を好まない人も多くいるであろうがそんなことはどうでもいいことなのかもしれない。個性を持った無個性。本末転倒ではあるかもしれないが無個性とは個性を持つもののことをいうときに使われる言葉のひとつであり、個性の中にひっくるめられてしまうものなのではないかと思う。個性の無いものというものの呼び名は「擬似的な安心感」で無個性の中にもそれは存在しない。無個性には主張があり、思想があり、攻撃性さえもある。それが無個性の個性であると私は考える。

04T3052H 高柳翔太
 私の考える個性とは独創性(originality)であり、無個性とは普遍性(universality)である。独創性とは、あるものを創造した人の生まれた環境や、周囲の人々、そしてこれまでの人生における様々な経験などが大きく反映するものであり、いわばその人、もしくはその人の感性に近い人に感銘を与えるものである。一方普遍性とは、すべてのものに通じる性質、つまり、それまでの生い立ちや性別などを超えて人々に受け入れられると言うことである。
 無印良品のように落ち着きすぎているとも思えるものに人気があることから、さらに普遍性という言葉は、有用性という言葉を持つ。落ち着いたシンプルな外見から、様々な用途、場合に使用でき、そこにあると目立つことはほとんど無いが邪魔になることもほとんど無いはずである。
 個性という字と無個性という字は、ひとつの「無」という字によって区別されているが、この「無」という文字は、単に個性と無個性が性質的に正反対であるということをあらわしているものではない。物事には、一見正反対に感じられる独創性と普遍性が同時に存在する場合がある。例えば、音楽は、今まで耳にしたことのないメロディやアレンジなどで人を魅了する。アイディア商品なども同じで、誰も考えたことのないものを作り出し、その有用性によって価値が生まれる。このような場合、独創性と普遍性は同時に存在することになる。
 以上のことから、個性と無個性は、漢字一文字違いではあるが、それぞれにしか持ちえないものがある。個性というものは独創性が大きく関係し、無個性であるということの個性というものは誰にでも受け入れられることができることであり、それぞれに大きな違った意味を持っている。

04T3046C 杉山文野
無個性の個性とは、他のものと比べた、相対的な個性だと私は考えます。そもそも個性というものは、そのもの「らしさ」を指すのであり、つまりそれは他との違いから生じるわけで、個性自体が相対的であります。しかし、ここで私が考える「相対的」というのはそうではなくて、無個性なものはその他の個性あるものによって個性が位置づけられるという意味で、相対的であると考えたのです。無個性とは、数字でいえば0のようなものだと思います。1は1だけで存在しますが、0は1や2がなければ存在しません。言い換えれば、無個性の個性とは、他が生み出す個性というわけです。
また、無印良品の印も同じだと考えます。例えばノート一つとってみても、無印良品のノートが1冊しかなければ、それはただの無地の個性のないノートに過ぎません。しかし、Campasノートや幾何学模様のノートと一緒に置いてあると、無印良品のノートには「無地」という個性が生まれてきます。つまり、極端なことを言うと、無印良品の印とはずばり他の製品であると考えました。やはりこれも他が生み出した個性であるからです。
チャールズジェンクスは、ファンズワース邸そのものを見て「つまらない」と言い、コールハースは他の多くの個性的な建築物をバックグラウンドに置きファンズワース邸を見て、「しびれる」と言ったのではないでしょうか。これらは結果的には逆の主張ですが、どちらも、理にかなった意見だと思いました。

03T3102D
山内一矢
 まず無個性とは何かということを考える前に「個性」とは何かということを考えたい。「個性」とは、個人・個物を他の人・物から区別しうるような、固有の特性。パーソナリティー。(goo辞書参考)つまり他とは違っている何かが存在するということ。
「出る杭は打たれる」などにもみられるように日本では昔から「無個性」に価値観を見出していたのではないかと思われる。同じ格好、化粧をした女子高生が巷に溢れかえったりetc。それでも、近年日本では欧米の影響か個性を尊重しようと考えも一般的になってきたようにも思われる。
日本人は無印良品を無個性として受け止めた。そうなると無個性を受け入れる基盤の整った日本では無印良品が爆発的にヒットした。しかし、無印=無個性ではなく、デザインより機能、低価格を追及し、良い品を提供するということであろう。無印良品が立派な個性を持っていると気づき、人々の興味が薄れていき以前のような人気は失ってしまったと考えられないだろうか?確かに無印良品はデザイン的なシンボルはない。そのシンボルはもっと深いところに存在するのだ。(ここまで人気が出ると十分デザイン的にも確立した一つのシンボルを得られる気もするが…)
「無個性」というのは誰もが皆、同じ感情を抱ける事象ではないだろうか。簡単なことのように思われるが、実際には大変難しいことであり、人にはそれぞれ好き、嫌いがあるだろうし、考え方だって違う。ミースのファンズワース邸にしても、自分としてはとても無個性と捕らえがたい。内部空間においては無個性を発揮しているのかもしれないが、あの様相は完全に他とは隔絶した個性をはなっていると思う。

t033053b 武智靖博
 今回から講義を受けさせていただきます3年の武智靖博です。よろしくお願いします。

無個性とは成立し得ない言葉である。個性とは、固体に特有な特徴あるいは個体の持つキャラクターである。だから個性のない個物は存在しないのである。第一、無個性なんて言葉自体僕は嫌いだ。その対象に対してデリカシーがなさ過ぎるし、無個性だなんておかしな烙印を押された側になったら、甚だ迷惑な話だし、そういった評価の仕方は間違っている。個性はどんなものにも絶対的に存在しているのだから。
 ではなぜ、無個性という言葉が一般に用いられ、無個性と呼ばれるものの中に確たる個性を見出せないのか。一つの固体は多数の固体によって評価、判断されて、「個性的だ」「無個性だ」と決定される。もちろん判断するのは人とするが、対象は人間を含め、多岐にわたる。その中で無個性といわれれるのは個性的と感じられないということである。個性的と考えられなくする因子として、自分と似たもの、想像の範囲のもの、普段見慣れたもの三つがあるだろう。特に最後の因子は客観的視点を見失いがちになり、客観的立場に立とうにも徐々に主観が幅を利かせ、知らず知らずのうちに客観的判断が出来なくなる評価基準の変動が起こり、その固体を正当に評価できなくなる。つまり、行き過ぎた主観が「無個性」を生んだのである。ここでは個性が消し去られるという非常事態が起きているわけであるが、なぜ消されたのか。そうではなく、見えなくなったと言ったほうが正しい。見えなくなった理由は明白である。其れが美しさ、派手さなどといった要素とは無関係なほど弱い個性なのである。言い換えると、類似的多数派の個性ということになる。これが無個性の個性の正体ではないだろうか。
 次に、無印良品の印を考える際には上で述べたことを考慮しなければならない。お題の中の「印」は「個性」と読みかえることが出来る。すると、無印良品の印は、客観的に評価される要素をストイックに削ぎ落としたものである。

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中尾友之

はじめまして。今回の課題から参加させていただく中尾友之です。ちなみに宮崎出身の九州男児です。よろしくお願いいたします。

「無個性の個性とは何か(無印の印とは)」
無個性なのに個性があるっていうのは論理的に矛盾している(AではないがAであるってことはおかしなことなので)。しかし“もの”として存在する限り、全てのものは意味を表象し、評価の対象になる。この時相対的に見て無個性なものであっても、“ある質”が生まれ、この質こそここで無個性の個性(無印の印)といっているものである。
ではその“ある質”とは何なのか、またなぜ今その質がうけるのか。それらを考える上で以下のような個人的な体験を挙げたいと思う。
・「(洋服を買う際に)ジャケットにださいワンポイントのマークなんかが付いていること。」
・「(試験前に)全然勉強してないよ~って言って、やる気のない振りを装うこと。(本当に勉強してなかったらそんなこと言っている場合ではないのでは??)」
前者にはワンポイントのマークが邪魔である思いが、後者には勉強してないって言っておいた方が楽だなという思いがあると思われる。さらに前者にはなぜ今無印なことが良いことなのか、後者には無個性(無印)を装うことの意味が見え隠れしているように思われる。
まずなぜ無個性(無印)なことが良いことなのか。私たちは時代時代で異なる視覚的に良いと思うSTYLEを持っている。現在ではたまたまそれが真っ白で平坦なもの([less is more]的なもの)で、それは相対的に見て無個性であるといわれているわけである。だから無印が良品であるいってもだれもクレームをつけないわけである。
次に無個性(無印)を装うことの意味はなんなのか。九州出身である私には方言という隠し切れない個性があるため、この無個性を装うことは感覚的にわかる。妙に標準的な言葉を使ったり、クールで格好良く装うことは、安心感を与える。それは試験前に勉強してない振りをした方が楽な感覚に似ている。つまり現在には目立つことを良しとしない視覚的なSTYLEが存在し、それが自分を枠付けているといえる。
現在私たちが視覚的に良いと思うSTYLEは無個性でいわゆるフラットなものかもしれない。それは視覚的に良いと思うSTYLEの変遷の一部分である。

無個性が個性であることは感覚的にはわかることである。しかし、論理的に説明しようとすることは難しかったのですが、僕なりの考えを述べたいと思います。
個性とは他のものから区別しうるような物や人であることが、逆に無個性を個性づけているのだと思う。
元来、個性とは無個性の集団の中に現れたものであり、そのときに初めて個性だと認識される。例えば、無装飾の物の中に装飾されたものが現れたら人々は新しいと思うだろう。
しかし、今日の個性があふれている世の中において、個性が上述したような他のものから区別しうるものではなくなっているのである。(装飾品があふれかえっている中で、新しい装飾が現れてもそこに新しさはあまりない)
そこで「個性」という世界観の中に突如として無個性が現れたなら、その無個性は他のものから区別しうるものになるのだから、無個性は個性として認識されるのである。(装飾品の中に無装飾品が現れたら、人々は「逆に新しい」などといった反応を示すはずだ)
これを建築に置き換えてみるとミースの「less is more」は今までの装飾建築に対して個性を発揮するための無個性であるし、ロバート・ベンチューリは無装飾(≒無個性)が個性である近代建築の蔓延にたいして、「less is bore」と発せざるを得なくなっているほど、無個性がほんとうに無個性になってしまったのではないだろうか。
結論としては、無個性という個性とは個性とのバランス感覚によって現れる個性なのではないだろうか。

学籍番号書き忘れました。03T3041J 清水右一朗です。

 “無個性といっているもの“には、無個性だ!といっているものと、埋没して見えなくなってしまっているようなものがあって、しかも個性は双方に有り得るのではないだろうか。 
 無個性礼賛、平皿礼賛の潮流の背景に、時代性と感情移入の中に見出してみたいと思う。私たちはたかだか二十数年間しか時間を過ごしてきていないけど、我々が生まれたころの時代は、ポストモダニズム真っ盛り、表面がのっぺりしたお豆腐みたいな箱みたいな建築を抜けだし、ヴェンチューリがいうように建築に多様性が認められていたのではないだろうか。その結果、街には看板やサインがあふれ出し、コンテクストと銘打たれたような、建築家の非常に恣意的な表現もあふれた。その時代に、我々はどのように暮らしてきたのだろうか。非常に主観的に述べると、私の前に並べられたモノは、飽きられやすいモノにあふれていたのではないだろうか。現に、今まで振り返って、とっても大切だったモノって、とドライに思い返しても、あんまり出てこないのだから。十数年前、中学生の頃、(ポケット)ベルなんてはやってたっけ。あと、Gショックとか。お、ナイキのスニーカーとかも!そんなその時個性的なモノを持っているとその時代ではステータスというか、流行にのってる感を味わえたのではないだろうか(あくまで主観的)。ちょうどそのころからではないだろうか。私の時代感覚では、無印良品は十年くらい前から際立って目の前に登場した。そのころコールハースは『s,m,l,xl』のなかで、「generic city」を発表した。そのなかで、挿絵に同じビルの屋上から、少しだけずらして街をとった二枚の写真を掲載している。(文は読んでいないけれど)それを見ながら思ったことは、ポストモダニズム、そのなかで個性を出そうとデザインされた建築、そして華美にデザインされ、使用用途や対象者が極度に限定されたモノ。しかし、それらは次第に飽きられていった。モノは次々と姿を消していき、建築は出た時の鮮烈なデビューとは裏腹に、飽きられて都市に埋没していった。しかし、そのなかで、無印良品は、買って持ち帰ったらすぐ日常に埋没することを意図してデザインしたことで、飽きるということをできなくしたのではないだろうか。無印良品の印は、実在するけど透明で見えなくなるものである。それは持続性を生むのではないだろうか。それも個性だろう。建築では、人が自由になれるような平皿建築が再評価されている。しかし、匿名性を狙ったような平板建築には、非常につよい個性が生じるのではないか。それは、日常に埋没しえないようなその時代との強い差異が生じてしまっているからである。普通って奥が深い。

04T3067F 野原麻衣子

小学生のときに買った無印良品の白いニットをいまだに着ることがあります。先日衣替えをしたのですが、今年も着ようと思い、そのニットも他の冬服と一緒に並べました。シンプルで他の服と合わせやすいので、ついつい着てしまうのです。こういうところが無印の長所だと思います。また、中学の頃、ほとんどの人が無印のなんらかの文房具を使っていました。無印のベージュのノートにポスカで字や絵を書いたり、シールを張ったりするのがはやっていました。今思うと無印の良さをかき消しているようにも思えるし、個性を表していたのですが、やっていることには個性がなかったように思います。
余談から入ってしまいましたが、まず無印良品の印とは何かを考えてみます。印が無いと書かれてメーカーの名前になっているわけです。しかし白やベージュなどの商品が中心で、できるだけ色を使わないようにしているところや、すべての無駄を省いてできるだけシンプルな形にする、というコンセプト自体が他にはなく、それが浮き立って買い手の目に留まったのだと思うのです。他のものとの境界線が自然と無印良品の印となったのだと思うのです。無個性といっているものの個性も、無個性というコンセプト自体が他のものから浮き出ていて、その境界線が個性と呼ばれるものにつながっているのではないでしょうか。
しかし、ファンズワース邸の場合は考えをすこし改めたいと思います。コールハースがミースのファンズワース邸のどこを指して無個性といっているのかがあまり理解できなかったので、ファンズワース邸の空間に仕切りがなくて空間が無個性であるという意味であると自分なりに解釈して話を進めていきます。使い方が指定されていない無個性の空間は、使い手が自由にその空間をどのようなものにするか決めることができます。最初の無印のノートの話と少し重なりますが、この無個性の空間が使い手の個性を生むと思うのです。つまりミースのファンズワース邸においては、無個性は個性の母だと思うのです。

03T3020F
岡 悠志

 「無個性といっているものの個性とは何かあるいは無印良品の印とは」との問いに自分なりの答えを出してみようと思う。
   個性が有るということと無個性ということの違いとはなにか。
「個性」「無個性」と漢字で見れば意味の違いは明らかであるように思うが、実際はそうでもない。「個性的」な・・・といえば他に同じようなものがないことを表していると思う。そして、普通「無個性」といえば代わり映えのない何の特徴もないことをさすように思う。では「個性的」な何かが増えればその何かは「無個性」になるのか。例えば、紙に絵を描く。そのオリジナルをコピー機で100枚にして、最初の絵とコピーした100枚を混ぜる。紙質が一緒でインクの違いがわからないとすれば「個性」を持っていたオリジナルはたちまちに「無個性」となる。ただこの話は今回の「平皿建築」=「無個性」と少し違う気がする。それは平皿建築自体が無個性といわれたからである。つまりオリジナル自体が「無個性」と認識されたのはオリジナルがオリジナルのないコピーであると認識されたということか。
   Tシャツの文字が英語であることと平皿建築
ここで少し話を変えるが、日本では圧倒的に日本語がプリントされた服よりアルファベットが入った服のほうが多い。服に書いている英語をいちいち読もうとはしないし、その存在すら曖昧に無いものとしているように思う。服の文字が日本語ならすぐに意味がわかるのでそれに目がいくしその服の印象はその文字に固定されてしまうであろう。英語ならば服全体を一つとしてみるのに日本語なら文字から受ける影響が服全体へと広がる。「個性」「無個性」で分類すると「個性的」=「日本語の服」、「無個性」=「英語の服」となり、最初に述べた無個性の意味とは違ってくる。ここでの「無個性」はまさに平皿建築の全体として一つであることと同じ意味になる。これは部分的な意味が薄く全体として一つとしか見れないということで、オリジナルがコピーを繰り返したり、オリジナルのないコピーと認識されることとはまったく違う意味であろう。
   無印良品が印として認知できるのはなぜか
 以上の考えをもとに「無印良品」を考えると、「無個性」=「英字がプリントされた服」=「無印良品」となろう。部分的な意味が弱く、全体が一つのマークとなることがここでいうところの「無個性」である。そして、それはまさに「平皿建築」の特徴と同じである。
 無個性が個性となるには
最後に平皿建築が「無個性」と批判される対象から、「無個性という個性」として評価された理由としては評価する側の目が時代と共に変化していったからであると思う。

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野崎慎吾

「無個性といっているものの個性とは」
本来、無個性というものは存在しない。最近の若者に見られるような(みんなと一緒でなくてはいやだ)ということの中にも少なかれ個々の個性があり個性がないということはありえない。そこで無個性という個性はなんなのか?現代でいえばそれは一見個性がないと見られるだけの強烈な個性であると思う。その他のもの(建築、商品、などの作品etc…)が時代とともに個性的になっているが、(無個性にならないように)という気持ちがそれぞれに現れ、逆に<個性というものの無個性>といったものが生まれていると思う。その分無個性とよばれるものが強烈な個性を生むようになってしまったのだと思う。その例が無印である。
「無印良品の印とは」
無印はけっして印がないのではない。そう見せているだけだ。一見シンプルにみえる(見せている)商品にはものすごいデザイナーがかかわっている。田中一光はじめ、原研哉、深澤直人、サム・ヘクト、、、、まだまだ沢山いるのだがここにあげた方たちだけでも現代でいったら強烈な個性を持っている人達である。しかしその人達がデザインしないデザイナーとして集結し個性や流行を追ったような商品は作らない、個性が出ないようにデザイナーの名前はださない、などをし、個性が一人歩きしている世の中に落とし込むことによって印(個性)がないという強烈な個性を生み出しているのだと思う。

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鈴木俊祐

世界にあるもので無個性と言われているものは全て過去には個性的なものであったといえるだろう。
そう考えると個性と無個性の関係は、個性的なものが多くの人に受け入れられるといずれ無個性と認知されるようになる。ただそれだけのことである。
たとえば、Tシャツで考えれば今無地の白いTシャツは無個性と言えるが、過去Tシャツと言うもの自体が生まれた時にはたとえ無地の白いTシャツであろうと個性的であった。したがって、無個性の個性とはその独創性を受け入れ、やがて受け入れたことすら忘れ、当たり前と感じているもの全てのことである。
また、無個性と言う言葉自体がおかしくて、僕たちが無個性といっているのはいわゆるプロトタイプのことである。したがって個性的といっているのはプロトタイプの変化形である。個性は無個性に包括されているものなのである。つまりプロトタイプ(無個性)の中から個性が生まれる。しかし、そのように考えてしまうと、ここで言う個性とは所詮プロトタイプ(無個性)から生まれたもののことになってしまうので、本当の意味での個性ではなくなってしまう。
そこで本当の個性とは時間とともにそれ自体が新たなプロトタイプ(無個性)に変化していくもののことである。この真の個性を目指すためには人々が当たり前と感じ、忘れ去られているもの自体(無個性の個性)に注目し直し自分なりの新たな回答を見つけ出そうとすることが必要であると思う。

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三森 翔

第2回目から授業に参加したので、1回目のレポートを出していないのでちょっと自己紹介させてください。
建築を志したのは中学生のときです。漠然と建物を作るのは楽しそうだなぁと思い建築の道を選びました。結果いま楽しくて仕方ありません。今私が思っていることは、人にとって建築は切っても切り離せなくて、建築は建築に触れる人に感動を与えられる仕事で、これから先人に感動を与えられるようになって行きたいなと思っています。私はずっとデザインを学びたいと思っていたので、今年から坂牛先生が信大にいらしてくれたので、ホントうれしかったです。大好きです。ありがとうございます。これからよろしくお願いします。
 今回の課題として「無個性といっているものの個性とは何かあるいは無印良品の印とは」というお題ですが、いざ書こうとしてもなかなか論理的に述べることができなかったので思っていることから述べていきたいと思います。私が思うに無印良品が好まれる理由としてシンプルで飽きの来ない色とデザインでムダがないところにあると思います。シンプルであるということは、そこにいくらでも付け足すことができ、自分のライフスタイルにあったものにカスタムできる。そこが無印良品の“印”であり無個性の中の個性であると思います。これをミースのファンズワース邸に置き換えてみて考えてみました。これまで装飾され機能的に作られていたものこそがすばらしいものであると考えられていた中で、ミースは必要個室だけを造り残りは自由に配置できるように考えられています。シンプルなプラン、それゆえ中身が薄く感じられ、チャールズジェンクスがつまらないといったのだと思います。逆にコールハースはそのシンプルさゆえに自由な発想で空間をデザインできることに気づきしびれると賞賛したのだと思います。まとめてみると無個性といっているものの個性とは、個性を押し殺しているように見せかけていて、本当は無個性の中に自分と言うものを映し出しているということではないかと思います。

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波多野貴壽

 この課題を受けて、まず考えるのは個性とは何かという事である。個性とは、個人に具わり、他の人とはちがう、その個人にしかない性格・性質であると考えると、ここでいう無個性といっているものの個性がみえてくる。コールハースが賞賛した、ファンズワース邸のつまらない無個性とは、建物の平面を全体として考えるならば、ヒエラルキーがない平面はその空間内で他と違う箇所、他の部屋とは違う、その部屋にしかない性格・性質が無いために本当の意味での無個性といえるのではないかと思う。しかし、ファンズワース邸の無個性を他の建築物を含んだ建築全体として考えるならば、そこには十分な他の建物とは違う、その建物にしかない性格・性質がみえてくる。ファンズワース邸が建てられた当時の平面計画は、しっかりとしたヒエラルキーがあるというのが当たり前で、そこに無個性というものが生じていたと思うが、ヒエラルキーがない平面というのは、他の建物の平面計画とちがう、その建築物にしかない性格・性質なので個性がしっかりあると思う。課題で言われている無個性といっているものの個性とは、ファンズワース邸の建築全体として考えた時に出てくる他の建物とは違う個性のことだと思う。
 無印良品の印も、無個性といっているものの個性と同じで、1つの商品の中だけで考えるならば、印が無く同じ色で統一されたデザインであることは本当の意味での無印、個性がない事だと思う。しかし、その商品を他の商品を含めたすべての商品で考えた時には、他とはちがう、その商品にしかない性格・性質があるので、立派な印があると思う。無印良品の印とは、一つの商品というものの中だけで考えられた時は、余計な装飾などが無く印がないといえるが、商品全体で考えられた時には他とは違う目立った印が出てくるので、そこが売りとなって、今どこの都市に行っても見かけないことはないというほど売れているのだと思う。

無個性の個性は何か?そもそも無個性ってなんだろう。「無」個性?個性がない?個性は後から見いだされるもので、最初から意図して個性を排除してもそのこと自体が個性になりえる。設計者が無個性をめざして計画しても後世の人がそれを個性的だと評価することだってあるだろう。私からしたらミースのファンズワース邸だってとても個性的に見える。あんなに住む人の生活を考えていない住宅(別荘)も珍しい。今ある建物は、デザインの優劣や景観に対する配慮などこそあれ、どれにも少なからず個性は存在するのではないか。やはり、当時無個性と思って計画しても、かならず個性はついてくる。個性というものは見えなくても最初からその中に存在している。それが、時とともに流れ出し、後になると滲み出してくるものに思える。
私はこの無個性や個性といった話の中で、古くからある民家も同じじゃないだろうか、と思う。民家は同じ地方では驚くほど似た建物が多い。松本平には本棟造りが多いし、農家だって田の字型の平面配置が基本となっていて、そこにそれといった個性は存在しないように思える。民家だけを見たらその地方ごとで驚くほど同じような民家が並んでいる。松本には松本の民家の特徴があるし、また諏訪にも違った民家の特徴がある。格式の高い上座敷やおえ、玄関の間、土間など平面配置もほとんど同じだ。しかし、当時は無個性だったと思われる民家も今の現代においては強烈な個性を出している。松本平にある本棟造りも、基本は一緒だけれどもそれぞれの民家ごとに大きな特徴があるように思う。それは梁の太さだったり、改築などの歴史変遷だったりする。今の無個性な近代建築が民家のように保存されたりしていくことはないのかもしれないが、今後そういった建物が残っていく過程で、個性は様々に変容していくのではないかと思う。

03t3087g 松岡澄生

個性とは何か?無個性は何か?と考えたときその事には違いが私には見つけられない。個性と無個性という言葉はその時代の風潮、文化、流行によって個性と呼ばれたり、個性がないと思われるのではないかと思う。個性という言葉を頭の中で思い描いたときまず私の連想できるものは人である。人を見てこの人は個性がある、ないはどこで判断するだろう?顔、髪型、体型、性格、癖をみてこの人は個性がある、ないと判断し、人によって捉え方がまるで違う。
ではなぜ無印良品の製品が人気になったのか?様々な物があふれるこの世に見た目何も印のない無印の製品が爆発的な人気となった。今までなかった斬新なデザインに人はこれを個性と捉えたのではないだろうか。だが無印もこの世にあふれ当たり前のものとなってしまった今人はそれを個性と思っていないような気がする。新しいもの、人が持っていないものを個性と呼び、そうじゃないものを無個性と呼ぶのかもしれない。
では無印良品の印はどこにあるのだろう。人によってはそのブランドに見えない印がついていると考えたり、そのプロダクト自体を印と考える人もいるかもしれない。私はそのデザインに無印良品の印を感じる。無個性という個性を身にまといそれは無駄な装飾を省きその素材をいかし、万人が持っていても違和感がないところに無印の印と考える。
ミースはその時代ごとに様々な批判を受けたがただちょっと他の人の考えることの先に視点を置いていたのであろう。

個性と無個性。個性は主張するものがあると容易に考え付くが、はたして無個性は主張するものが無いのだろうか。私はそうは考えません。無個性が主張するものが無いのなら、無印というブランドがこれほど世の中に受け入られることはないのではないだろうと考えるからです。無印良品のようにシンプルなものは一見個性が無く、ありきたりなもののように思えますが、よく周りを見ると逆にシンプルであるものの方が少ないことに気がつくのではないだろうか。世の中のさまざまな個性が主張している中にあって、無個性のようなシンプルなものがあったら、それはとてもはっきりとした主張となって我々に訴えかけるだろう
04t3015c岡野瑛貴

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松田龍一

 無個性の個性についてなんですけど、僕はなぜか分からないのですが、この夏に無地の服ばかり買っていました。Tシャツやポロシャツも何もプリントされていなくて、ボーダーやストライプのような柄もないような物ばかりです。僕は「無個性の個性」というのはこれに似ていると思うのです。同じサイズの同じ白の無地Tシャツも丈が短めだったり、首元が広く開いていたり、体にぴったりフィットするものだったり様々な物があります。「plainなのにかなり個性が出とるやん!」と思ったのですよ。ミースの作品も、妹島和世の作品も必ずどこかで個性というのが出ていると思うのです。僕が感じるミースのファーンズワース邸の個性は、トイレと風呂以外のplanが1面になっているところだと思います。何もないけど、今まで誰もしてないことじゃないですか。妹島和世の作品で1番気に入っている「梅林の家」の僕が感じる個性は、各階のplanだ。クライアントがワンルームの家を注文してきたが、完成した住宅はたくさん部屋のあるものになっている。「どういうことや?」と思ったけど写真を見ていたら、「なんだ、ワンルームみたいやん」とすぐ解釈できました。浴室と祖母の部屋以外に扉がなく、間仕切り壁にも開口部があり全体的に緩やかにつながっていてワンルームみたい。でも外観は白で窓が開いているだけですけど。
 このように僕は、たとえ外観が何もファザードのなくてつまらないものだとしてもどこかに建築家の個性があるはずだと思います。それが平面だったり、庭だったり、構造だったりする。そこに無個性の個性を感じます。

03t3089c松田大作
無印の印とは、印がないことが印であると思う。現在の商品すべては印がある。ここでいう商品の印はロゴ、トレードマーク等である。それは、他のものと区別し差別化をし、自分たちの商品をアピールするために存在する。しかし、無印はそういった方法でマーケットにアピールしていない。無印の基本的なアピールとしては、いかに商品自体を純化し、商品自体に価値をもたせ、生活にアピールできるかということである(これが無印の個性)。このことを本当に第一に考えるならば、無印の印(個性)は、企画上必要ない。しかし、個性は必要ないと書いたが本当にそんなことはないと思う。ここでは、個性は必要ないのではなく、無印の商品の裏側に隠されているというイメージが強い。本当に消費者のことを考えるならば、デザインなんていらないもかもしれないと思う。企画としては消費者のことを優先順位第一位にかんがえ、無印の個性は第二位以下になって、必然的に無印の個性というものは隠されてしまっていると思う。以上にことから、無印の個性とは、無個性であることではなく、個性は存在しているが、その個性は隠されているため、無個性に見えてしまうということだと思う。
もう一つ、無印についての考察。無印は逆説的に印がないことが印になると直感的に感じたため、そういった切り口から考えてみる。ここで、集合論で考えるならば、全集合が今現在に存在する商品、Aという集合がデザインされた商品であるとすると、そのAの余事象が無印のようないわゆる無個性の集合だと考えられる(これは個性、無個性の二極化)。これだと、個性のある、なしで分けられ、無印に個性を感じる私としては納得がいかなかった。

無個性の個性とはなんなのか、それは個性がないことによっていろいろなものに調和できることと、吸収できることだと思います。個性がないということは色で表すと白だと思うのです。そうだといろんな色に染まることもできるし、またそれ自体も強い色だからです。
しかし、上に述べたこととは矛盾するのですが、無個性のものなんてないと思うのです。それは、人にも個性のない人なんて一人もいないと思うし、建物にも個性のある人が作るのだから何らかの個性が出てくると思うのです。白という色だって無個性なのではなく白という大きな個性だと思うのです。だから今回の課題のような無個性の個性というのは、どのようにしても説明できないと思います。
次に、無印良品の印とはあまり買うことがないのでよくわからないのですが、無印良品というくらいだから、印はないと思うのですが、よく記憶をたどってみると無印良品の筆記用具などには、無印良品と記載されていたと思うのです。だから無印良品の印は無印良品だと思います。

03T3100H 望月翔太

 今回初めて講義を受けさせてもらいました望月です。講義が非常に魅力的なものだったので次回からも出席させてくださいお願いします。

 「無個性といっているものの個性とは何か」むずかしいですね。感覚ではなんとなく分かっていることを文字に具現化する。どことなく建築設計に似ていますね。私はどちらかというと口下手なほうです。しかしこれから仕事をしていくにあたり口下手というのは欠点になりかねません。だからがんばります。
 人間で言えば、個性のない人間なんていないのだよ、などという言葉をよく耳にします。確かに同じ人間は2人いません。しかし人と違うということを嫌う人がよくいます。だから個性がないなどと言われたりします。その人たちは無個性なのかもしれません。その集合の中で人と違うことをする人がいたらもしかしたらそれがその人の個性になるのかもしれません。ではその人と違うことをする人たちの集合の中に、先ほど申したそうでない人つまり無個性の人がいたら、そうしたらそれがその人の個性になるのではないのでしょうか。分かりにくい文章ですいません。
 昔、文房具のアンケートにこんなことが書いてありました。「注)無印良品もメーカーです。」ああ、そうだなあとやけに納得した記憶があります。無印良品はその名のとおり「PILOTやSTAEDTLER」のような印がありません。だから印がないものは無印良品のものだと分かるのかもしれません。しかし印がないだけのものは他にもあるはずです。でもそれとは違う「あっこれ無印良品だ」と言わせるだけの何かがあるはずです。一見単純に見えて、その中に実はとても洗練されたデザインがある、それが無印良品の印なのだと思います。ファーンズワース邸もあの単純なプランの中に非常に洗練されたデザインが見える、そういうことなのだと思います。

今回の課題から参加させていただこうと思います。M2の中根雄一です。よろしくお願いします。

04TA338A 中根雄一

はじめて「Less is more」をきいたときは、あまりその意味が理解できなかった。それこそ、シンプルできれいくらいにしか思っていなかった。いろんなものを省いていったとき(もちろん洗練されつつ)、その何かが減っていった分だけ、それらに埋もれて今まで見えていなかった何かが、新たに見えてくるのではないか。そう思うようになったときに、この言葉を少しは理解できたような気がした。
某テレビ番組で、あるインテリアデザイン好きのタレントがデザインを求めてヨーロッパを旅する、という番組があった。その中で、ファンズワース邸に行ったときのそのタレントの一言が、とても印象的だった。「ここにいると何だか自分の内面が表れてくるように思える」確かそんなニュアンスの言葉であった。自分自身、建築を体験してそのように感じたことはまだない。ぜひそんな建築に出会ってみたい。そこで思うことは、もしファンズワース邸が無個性だというのならば、無個性とはいろいろな個性を映し出すことができる、いわば鏡のようなものではないだろうか、ということである。
無印良品の印については馬鹿正直に考えてみた。つまりよく見かける「MUJI」というロゴマークについてである。これは、MUJIRUSIを省略したものとみることができるし、無地を表しているともみることができる。無印という言葉自体が、良品計画という会社の戦略に対してネーミングされたものだと考えられるが、アルファベット4文字でスッキリとした印になっている。そして、商品と同様に、この印自体も、簡潔であるという無印良品のコンセプトにのっとって作られていると理解できる。つまり、この「MUJI」という印こそ、無印良品の商品を代表するものとなっているのである。
しかし、買い物をした際にもらえる紙袋に印刷された「MUJI」の大きなロゴは、結構目立ち、無印良品らしからぬ強調の仕方に思えてしかたがない。

03T3026E 勝 良介


今週から講義に参加させてもらいます、3年の勝です。よろしくお願いします。

少し自己紹介をしますと、私の故郷は岐阜県中津川市というところで、実家は築101年の養蚕室を設けた中二階平入造で、近隣には妻籠宿や馬籠宿があり、以前から町並み保存や古民家の再生に興味を持っていました。将来はまちづくりの仕事をしたいと考えていますので、指定された敷地に建築を設計するよりも、個々の敷地を越えた計画が大切だと感じております。今回、この講義に参加させていただく理由は、自分の例えば「人が歩くまち」を実現させたいという思いを結実するには、きちんとした技術と幅広い知識が必要だと感じているからです。

無印良品の「印」とは、商品を選ぶ際の価値基準だと思う。例えば、ブランドのロゴマーク、色合い、華美な装飾、おまけのような便利な機能、など商品の価値を付加するもの(記号)だと思う。無印良品はそうした商品を飾り立てる「印」を削ぎ落とした潔いデザインであって、商品そのもので勝負しているのだと思う。
無個性(ジェネリック)という「個性」とは、主張しなくてもそこにある個性である。例えば、無印良品は、木やアルミ、鉄、プラスチックといった素材そのものの肌触りや風合いといった素材感を活かしたデザインといえる。こうした匿名性が無印良品を無印良品とするものだと思う。しかし、ただ禁欲的であるのではなくシンプルさの中におもしろさがあると思う。コールハースの賞賛するところは、頑張って奇抜な形をデザインして主張することではなく、潔いデザインの中のおもしろさであったのではないかと思う。

今回から参加させていただく3年の兼子晋といいます。よろしくお願いします。
「個性」「無個性」または「個性がある」「個性がない」などと言う人がいる。正直私には、「個性」というものについてはっきりと理解しているわけではなく、頭ではなんとなくわかっていても実際感覚的にそれらを量ることはできない。しかし実際のところ「個性」というものは存在し、それは人間においても建築においてもそれを垣間見ることができると思う。しかし「無個性」について考えたとき、そこには何が見えるのだろうか。個性があるから良い。と判断したのは誰であろう?今の時代大量生産、大量消費、情報化社会といった様々なものが生みだされる中でどれだけ人の興味を引き、その人達の目を奪い、関心を持たせるか(つまり「個性」というものである)が今の社会の中で残っていくカギでありそんな時代の風潮であると思えるのは私だけだろうか。そんな中無印は人気となった。なぜ?確かに無印には他の商品に見られるロゴや商標といった確立された印がない。そしていたってシンプルなデザインである。そこが人々の心を奪ったのか?「simple is the best」「less is mere」などの言葉にもあるがそれが良かったのか?確かにそうであるかもしれない。しかし私はそうは思わない。無印良品のように印がない、「個性」がない・・・つまり「無個性」ということ。「無個性」という名の「個性」が人々に賞賛されたのだと思う。その個性が行き着いたところがあの何とも言えない洗練されたデザインではないかと思う。あのミースが設計したファーンズワース邸は見事なほどに余分なものを取り払っていて見る人を魅了するくらいの繊細さと美しさがある。以前テレビでファーンズワース邸が紹介されていた時、それはある一人の女性のために作ったと言っていたのを覚えている。たった一人の女性のために今まで自分を否定されてそれでも模索して最終的にたどり着いたものがあの家だとするなら私はそれに限りない感慨を受けた。
うまく説明できなくてすみません。しかし無印はそれに似たものを持っていてそれが今の無印の個性であり印ではないかと思います。

02T3051B 土屋光司

はじめに判っておきたいのだが今回のお題は先の問いと後の問いではまったく言っていることが別物であるということである。それを頭に入れて以下の文章を読んで頂きたい。

まず、先の問いに対して結論から言うと「答えが出せない」ということである。理由は、広辞苑で個性という言葉の意味を調べると“個人に具わり、他の人とはちがう、その個人にしかない性格・性質。”とあり、そもそも個性というもの自体が変動する他との比較によって存在しているから曖昧で不確かだということが言え、個性そのものが変動するものであるということがわかる。そしてその定義のできない個性を使って無個性を述べるのは不可能だからである。ただ言えるのは、無個性はその時代その時代の世の中のメインストリームであるということである。

次に、後の問いに対して結論から言うと「シンプルさ」である。理由は商品を見て同然、余計なものが無くてそこに人々が魅力を感じるからそれを印としたのである。言い換えれば魅力のツボがシンプルさにあるからである。

以上が今回のお題に対しての自分なりの回答である。しかしお題とは少しずれるが補足したい部分があるので次に述べたいと思う。

まず、個人的な解釈だが、無個性=genericではないということである。無個性とは“世の中のメインストリーム”を指し、genericは“無印の、ノーブランドの”を指している。つまりgenericは個性になりえても、無個性は個性にはなりえないのである。

次に、個性についてだが個性は第一人者が個性となりえて、それをただ真似した者は個性にはなりえないということである。つまりオリジナルが個性なのである。

この個性・無個性に関してはそのもの自体がもつ要素も関係していると思うが、受け取る側のもつ要素も大きく関わってくるように思う。同じものを見ても見る人の文化や環境、生活などのバックグラウンドが違えばおのずと受け取り方は変わってくるだろう。

03T3074E 野々村圭介
無個性といっているものの個性とは。
個性とはそこにあることにより印象的なもの、後々思い出し自然と自分も欲しくなったり、逆にあれだけは持ちたくないなどと感じる。そんなことを個性と呼ぶのではないか。
では無個性とは。印象が薄く覚えていないなどの普通といわれるものではないか。
無個性の個性とはそのもの以外のものが印象的なことではないか。

例えばどこにでもある住宅だがある部材の接合部が大変すばらしく印象深い。
例えば服装は普通のものなのに着こなしでなぜかかっこいい。
などそのもの自体ではなくそれを構成する別の要素に個性が現れるとき無個性なのにすばらしいということになるのではないか。

無印良品の印とは。
無印良品の印。それは印がないことである。
今の世の中には当然のごとくロゴなどが入っている。それを入れないから無印良品という名前がついている。では印がない事がなぜ印になるか。多くの人が持っているものにはロゴやマークが入っている。そんな中に急にロゴが入っていないものがあらわれたから注目され印象深かったのではないか。しかし今現在、印のない商品は無印良品でなくてもよく売っていると思う。だから私は今無印良品の商品であるか、そうでないかの判断は以前より難しくなったのではないかと感じる。印がないという個性がいまや当たり前になり無個性になったからであると思う。

無印良品は最初から個性があった。しかし類似品が多くでてきて無個性になった。唯一、素材感という点において無個性の個性と呼ばれるものがあったのかもしれない。だがその素材もいまや飽きや、より素材感のある多くの無名な商品に押され無個性になっている気がする。

今回から授業に参加させていただき、授業の内容に大変面白さを感じました。しかしそれ以上にこの課題が大変楽しかったです。単純に知識を詰め込むのは本を読むことでできるのですが課題を考える時間は自分で自分の考えを否定し、自分自身と討論する時間となりました。日常生活の中で触れている無印良品について深く考える時間を設けられたことが私にとって楽しくよい授業であると感じました。私は建築においてデザインという点が大変おもしろいと感じます。またその建築のデザインひとつでどれだけ人に影響を与えるのかということにも興味を持っています。自分なりにそのことを頭に入れた上でこの授業に望み、何か新しいものを見つけたいと考えています。
自己紹介を含めたので少々長くなってしまったことをお詫びします。よろしくお願いします。

03t3090g 萬成 恵佐

 私は、「無個性」とは「個性」と言うものに飽食した現代人が生み出した、一つの個性と言うものだと思う。ここで私が言いたいのは、無個性とは決して個性の対極に存在するものではなく、また個性が「無い」事ではないということだ。
 簡単な事例を紹介してみよう。例えば自己を際立たせようとして「髪を染めた」若者がいる。彼の周りの者たちも自分を際立たせようとして髪を染める。そして、それが際限なく続き、髪を染めた若者が圧倒的に多くなってしまう。そして、気付くのだ。「髪を染めない」若者が際立っているという事に。つまり、「髪を染めない」という事が主張となったのだ。
 だが、ここで「髪を染めない」若者に着目してみよう。彼らは最初から主張していたのだろうか。いいや、そんなことは無い。では、彼らの「髪を染めない」という事が主張となったのはいつの段階であろうか。それは「髪を染めた」若者が増え、「髪を染めない」若者が「珍しく」なった段階である。
 即ち、一般に「無個性」と呼ばれるものが生まれるには、それと対比されるだけの「個性」が必要なのだ。髪の場合は何色に「染め」てもいいのがポイントで、それだけ「髪を染めない」事に対比される個性が増えることになる。
 もちろん「髪を染めない」若者にも二通りの若者がいる。それは「髪を染めていないだけ」の若者と、「髪を染めない事を主張とする」若者だ。これは、言い換えれば「「無個性」に「無自覚」なもの」と、「「無個性」を「自覚(主張)」しているもの」である。そして、この「「無個性」を「自覚(主張)」している」ブランドがある。そう、「無印良品」である。
 私は「無印良品」の「印」とは、この「「無個性」を「自覚(主張)」している」点であると思っている。この「印」の特徴は、「個性」あるブランドが溢れている現代においてのみ存在が可能な「(無)印」であること。そして、主張すべき「自己を持たない」点、即ち他人の観測(他と対比されること)によってのみ「(無)印」と認識されている点であると言うことだ。これが私の定義する「無印」である。

02T3018A 4年  片岡 篤史

「無個性の個性」とは言い換えるなら「究極の洗練性の結果」と言えるのではと考えます。

その文字のみを追っかけると、「無個性の個性」という言葉は一見矛盾しているように思われます。確かに、無個性に個性はありません。しかし、ここでの「無個性」は、様々な「個性的」な過程を経て現れたものではないでしょうか。例えば、ミースもはじめからファンズワース邸のような無個性(generic)な建築を作っていない点もその現れではないでしょうか。つまり、様々な視点から自分の個性・表現を追及していく過程で、ひとつの結論に「匿名性」への回帰があったのではと考えます。そういった点で、授業で先生が「一度全てを書き込み、その後必要な部分のみを視覚的に見える形で表現した」というコメントとともに紹介された妹島和世のコンセプト図面は、まさに自分の考える「無個性の個性」のように感じました。つまり、その「無個性(generic)」に至る過程こそ「無個性の個性」であり、それは決して無味乾燥でも粗悪でもなく、冒頭に述べたように「洗練性の結果」と言うことが出来るのではと考えます。

そして現在我々は、工業化され大量生産される「単純な」ものに反し、「個性」や「流行」を意識したり求めたりする傾向にあります。そのような中で、「無印良品」というブランドは決して単純に反発的な視点でシンプルなデザインを追及しているのではなく、「個性」の終着的位置づけとして無個性(アノニマス)なデザインを提示しているように考えます。それこそが、無印良品の「印=シンボル」となっているのではないでしょうか。

とはいっても、これまでの自分も含め、多くの人は単純に「シンプルでカッコいい」として無印良品を利用してるように感じますが・・・。

02T3045H 田中淳
無個性ということばを「個性が無い」ととらえるのではなくあくまで「無個性」としてここでは考えていこうとおもう。それは安易に言ってしまえば「無個性という個性」という安っぽい言葉で表現されうるかもしれないが、しかし今回のお題はそれを説明することである。やはり私も「個性」はそのモノが評価される階層・見方により個性の存在と形は不安定であると思うのでそういったことを含まずに回答したいと思う。

さっそくだが、無個性ということは「主張しないことの主張」であると考える。それはヒエラルキーの撤廃や、シンプルさといったインパクトを確かに持っている。そして、最も印象的に無個性を表しているミースの「less is more」のmoreは「可能性の喚起」であったのかもしれないと感じることがある。そう感じたのは上の「主張しないことの主張」として無個性の魅力を考えていると、それはカスタマイズの可能性、その空間が与えうる印象の多様性といった「あらゆる可能性をもっとも秘めたもの」-安っぽい言葉で恐縮であるが-であると思ったからである。それは東浩紀らが言う「匿名性」よりもむしろ「偶有性」につながるものではないかと考える。


しかし時代は回り今また強烈なモノが台頭してくるような雰囲気を感じることは確かである。それは私なりに考えると「無個性」は結局それだけでは完成せず、完成させるためには受け取る側に何らかの能動的姿勢を要求するからではないかと思う。無個性はある意味しんどいのである。


無印は日本の「わびさび」に代表される「主張しないことの主張」という昔からある日本人の姿勢をうまく具現化できたものである。それが世界の流れと一致し、ここまで膨らんだ。無印の製品はそれぞれはほかのメーカーから90%くらい似たようなモノが販売されていることもある。ほぼ同じである。しかし、それは無印ではない。なぜなら印という表記を用いることで「無印は-シンプルなこれらの製品は-ブランドであり、集合である宣言」をしているように思えて仕方がない。これもまた日本人の多くに欠かせない「大儀名分を必要とする」という思いをうまく包み込むために戦略であったのだろう。

講義の邪魔になってはいけないので「締め切りは金曜日6時です。」を待ってメールしました。

始めまして、松本市で建築設計をしている山田建築設計室@山田と申します。
信州大学も独立行政法人となり、建築科もどの様に変遷していくかと興味を持っていたところ、坂牛助教授のホームページを拝見しました。一線で活躍している方を教師として迎える事、大学が象牙の塔でなく、社会に開かれた場とし存在できることをとても有意義に思います。
私は、信州大学に学籍もありませんし、学費も納めていません。いつか機会を見て講義にもぐりこもうと思いますが…・・。
(この様な者が、この掲示板に書き込んで良いのかは坂牛さんの判断にお任せして、意にそぐわないようでしたら削除してください。)
さて、今回の講義「建築のモノサシ」というテーマは、私にも捨て置けぬテーマで、建築に関わるものとして自分の考えを書き留めて見ました。


「無個性といっているものの個性とは何かあるいは無印良品の印とは」

言葉は難しい。言葉を媒介にすべてのイメージを共有することは至難の技である。ここで重要なのは、言葉の定義のズレにより、議論の本筋を誤らないことだ。
「無個性」を“無「個性」”と読むか、あるいは“無「個」性”と読むかで意味は違う。
コールハウスの“ジェネリック:generic”に対峙するのは明らかに“無「個」性”であろう。
「個性」=characterが無いのではなく、「個」=unityを求める「性(さが)」=習性、が無いのだ。他でもない「匿名的な快感」はこれを意味する。

先読みして申し訳ないが、「建築のモノサシ」の“capacity”と“form”は今回のテーマと密接に関わる。(全てのモノサシは有機的に関係するハズで、勝手な先読みを勘弁願いたい。)
頑固親父の建築は“unity”に由来し、おふくろは“generic”と共存する。
箱は“unity”として存在するが、袋は“generic”に全てを包み込む。

無印良品は、印=“unity”を押印するのを断わった。
そこに、“unity”が無い“character”が生まれた。それが時代に受け入れられた。ソレダケノハナシ。

“generic”に徹すれば、クールでカッコイイ。
建築主の自我・建築家の自我、いずれにしろに“unity”に付き合えば泥臭い。
“generic”と“unity”にどの様に折り合いをつけて行くのか、その振幅の中でどの様に振舞うか? それが「建築のモノサシ」その①。

難しすぎてわかりません

それでタイムオーバーしてしまいました。でもこのままではいけないと思ったので、一応考えの痕跡は書きます。


近代建築の発展とは、新しい物好きが「装飾がない」という突拍子もない発想(それまでなかったから)に飛びついた事が発端ではないでしょうか。そしてコールハースという建築家の一言によって息を吹き返したことも、流行の一部に過ぎないと考えます。流行とはサイクルするものでキッカケがなんであれ、過去何年か前にはやったものが規模の大小はあれどはやる事はよくある話です。

「無印良品」に関しても根本的には同じで、無印は飾らず素材にこだわった「身の回り品の近代建築」といったスタンスにあるように思います。
ところが身の回り品の世界においてあまりに斬新なスタイルであったため一躍流行の最先端となり、一般人に「無印(ノーブランド)」というブランドとして認識されたのではないでしょうか。


「無個性という個性」という言葉は、ある斬新なアイディア(無個性建築・近代建築)が流行として蔓延し、様々な建築家が便乗に便乗を重ねた結果、模造品の横行で無個性なジャンルとみなされてしまった、近代建築の悲しい定めを表しているように思います。

【連絡】
坂牛先生、名簿をアップしておきました。
 今回の課題、締切までの書込は、79名でした。

坂牛

ご苦労様。

力作ぞろいといいたいところだが、もう一息。先生の質問をさらりとかわしながら、質問の本質へ到達するよう頑張って欲しい。
先ず、無個性の個性とは何かという質問はもちろんはなから矛盾しているのである。論理的には。そんな矛盾は知った上での質問であることを先ず分からないといけない。だから質問の意図がどこにあるのかを考えるところが大事である。そこで個性とか無個性という言葉を一生懸命考えていてはその論理矛盾に惑わされるだけである。質問全体の中に他にヒントがないかを探さないといけない。そうするとそこにはgenericというコールハースの言葉に気付く。本当ならここでこのコールハースのsmlxlにあたりgeneric cityに軽く目を通すくらになれるといいのだがここの図書館にはそれがない(今年注文しておいたが)。そこで仕方ないからgenericという言葉を英英辞典で引いてみよう。そうするとそこにはこう書いてある。shared by ,including of typical or a whole group of things.つまり何かものの全体あるいはそのものの典型に含まれているあるいはそれと何かを共有しているということである。原義はそうであることを確認してから、先生はそれを無個性と言っていたのだなと、そう考えるのである。つまり先生の文脈の中では無個性とはそのものの全体グループの中で多くに共有されている性格を共有するという状態であると、そう定義しなおすのである。
さてそこで、次にそのことをもう少し深く考えてみる。あるものがある属性を持っているとして、それは一つだろうか?例えば、人の顔を考えた場合そこには髪型があり鼻の形があり肌の色があり・・・・多くの性質の合計値として属性というものはあるはずである。そしてここからが重要なのだが、それらの属性は確率的に考えて、100%他の多くと共有されることはあり得ない。7割くらいが他と同じ場合にそれは普通に、つまりそのグループの中で(例えば日本人の中で)突出せず周囲と同じに見えてくるものである。もし多くの性質の1から100までが全て標準偏差の真ん中にある場合それはきっとかなり見たことも無いような状態になると想像される。つまり髪型が、目の形が、眉の形が、、、全てが日本人の標準である人間がいたとするとそれはかなり突出したものになると僕は思う。つまりこういうことだ。ものの属性は多くの性質の合計値であり、その個々の性質がgeneric(そのグループの他の多くと同じ)であっても全ての性質がgenericになった時、その全体の合計値としての属性はgenericを止めてspecificに反転するのである。もう少し感覚的に言うと徹底してフツーをするとあるところでフツーじゃや無いところに反転するのである。つまり無個性が徹底されたとき、あるところで個性に反転される原理というのがここにあるのである。
さてそれではmujiはどうか?この原理を使っているのだろうか?あまり徹底してはいないがある程度適度に商品の様々な性質をその商品グループの標準に近づける努力はしたと思うしかし、僕が思うにmujiの戦略の本質は実はそうした標準を自ら作ってしまった部分にある。というのは彼らは日本中のいたるところで一斉に同じものを売り出したのである。自らtypical or a whole group of things(もののグループ全体あるいはその典型)を創りだしてしまったのである。だからmuji以外の標準にあわせるだけではなく、銀と、茶色と、透明を標準と見せかけて、日本中にばら撒き、標準に仕立て上げたのである。そして全ての商品を徹底してその見せかけの標準に同化させることで、(無個性化を徹底させることで)非標準化へ反転させたのである。それは既述の原理を応用したのである。
話はだいぶ長くなってしまった。簡単な用でかなり奥の深い話である。

さて今日の坂牛賞はとりあえず、この反転の原理に気が付いたものに差し上げよう。

ちょっと苦しいけれど、その原理を洗練ということばで表した片岡敦史君、無に注目して無駄を削ぎ落としていった時に最初とは全然違うものになると指摘した高橋伸幸君。この2名とする。

さて、60名以上の文章を完全に読み切ることが実はできていない。いささか斜め読みなところもあり、もし自分の文章が僕の言う反転の原理を主張したものだという人は申告して欲しい。再読して納得できたら、坂牛賞を差し上げよう。

坂牛
付け加えておくが、坂牛賞は単なる名誉賞ではない、当然成績に加算されるので皆張り切って賞を狙ってみよう。

坂牛

言い忘れた、学外から参加された山田さんありがとうございます。大学を外に開く一貫としてのネットオープンレポート講評ですから、学外からの参加は大いに歓迎します。頑張って坂牛賞を獲得してください。

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