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第五講お題

本日はグローバリズムとローカリズムのお話。社会は20世紀前半そして後半二つのグローバル化の波をかぶりました。そして現在まさに進行中。それに対応し建築も前半はインターナショナルスタイル、後半はミニマルかデコンという二つのグローバルスタンダードのようなものができました。一方そうしたグローバル化への反発も様々な形で登場。民族主義、建築家なしの建築、批判的地域主義、ダーティーリアリズム、スローフード、lohasなどなど。しかし気をつけなければいけないのは地域主義は世界的規模で見るとオリエンタリズムに回収されやすい。
ところで、現代は個性を尊重し、一律化を嫌う時代だと思われるのだけれど、日本では、特にデザイン的な部分では、前回の授業でもあったようにグローバルスタンダードが好まれます。そのいい例がブランドファッション。

さてあなたはこうした状況をどう批判しますか?あなたの価値観を提示しながらこうした状況について論じてみてください。

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コメント

私は正直なところ、ブランドの良さというのがあまりよく分かりません。何だかどれも同じような茶色や黒っぽい色彩で、これが高級感なのかあ、と街で見かけるたびにぼんやりと思います。あまりにもよく目にするので、感覚が麻痺してしまったのでしょうか。実際に使ってみると、やはり違うものなのでしょうか。
ファッションにせよ建築にせよ、広く受け入れられるようになった様式は社会の一部になるので、身を寄せていて安心感があります。グローバリズムはその究極ともいえるもので、世界中どこへいっても遍く通じるものとは、馴染みやすい分特別な愛着は湧きにくいような気がします。
反対に、ある一定の地方でしか通じない様式は『これは自分たちのもの』という認識が強くあるので、特殊な発展を遂げやすく、かえって周囲の注目を集めることになるのだと思います。

現代社会の個性の尊重はやはり企業による大衆操作の一端でしかないと思います。とくにファッションがそうですが、個性的なブランドやアーティストメイドの洋服、さらにはオーダーメイド感覚で楽しめる服飾が増えています。そのでどれを選択するのも個人、個人ですが結局は企業の作った枠内での選択しかできていないということになります。当然現代で自分の洋服は1からすべて自分で作るというようなことは非常に難しいですが一方でおしゃれなセレクトショップで見つけた珍しいデザインの服であっても結局は大量生産されたデザインの一つにすぎないということです。
どこで選択の枠を決めるかというのは難しいですが資本主義社会の中で真の意味での個性を追求するのは非常に難しいと感じます。

授業では地域主義がオリエンタリズムに回収されやすい、ということに興味を持ちました。「~的」「~風」デザインというのは暗黙のうちに私たち消費者が敏感に感じることだからです。消費社会において、新しいデザインはいつでも所属を強いられます。
これは、デザインにおいてグローバル化の流れがまだ初期で未熟なことを示していると思います。いまは世界(実際は資本主義競争の市場に限られる)にデザインが外側から提案されている状態。デザインが内側から生み出されている状態ではない。だからこそデザインはそのルーツからさまざまな分類が余儀なくされ、市場の中心にあるブランド(シャネル等)がグローバルスタンダードの王道であり続けているのだと思います。
こうした状態において、デザイナー側がグローバル化を素早く展開させるべきという意見を持ちます。市場だけがグローバル化を成長させていては現状は変わりません。具体的には、手始めにさまざまな背景をもつデザイナーのチームを作る試みで一度地域主義を打破してみるのはどうかと考えました。
私はブランド志向自体は批判しません。ルーツのないデザインが生みだされることで、グローバルスタンダードの進化が期待できると思います。

わたしが思うに、現代人は基本的には個性を求めているのだと思います。いい例えが建築、子供の名前などが挙げられます。
しかしなぜ同じデザインのブランド品が好まれるのか。わたしは、流行が特に強く反映される日本文化が深く関係していると思います。
他の人と持ち物がかぶるとわかっていても流行のものを持ってしまう理由として、ひとつに「流行を捉えているというアピールになる」ということです。建築に関しても、インターナショナルスタイルの方が今っぽくておしゃれだというイメージがあります。自分は流行に敏感に反応しているとアピールすることが、自分がおしゃれだという表現になっているのではないでしょうか。
ふたつに、ブランド品を持つことで地位の高さをアピールしているのだと思います。口でいうより、ブランド品を持ち歩く方がストレートに階級の高さを人に伝えることができます。
個性を追い求めつつも他の人と同じものを持ってしまうこのジレンマは、個性がなくなるマイナスより、自分の地位のアピールするプラスを重視した結果だと思います。

現代は確かに個性を尊重して、こうでないとダメだとかこうあるべきだと縛ることは批判されます.
でもその一方でデザインにおいてグローバルスタンダードが好まれるというのはまた違うことのような気がします.ブランドファッションのグローバルスタンダードと言う世界で知られている共通の記号を持つことで自分がどんなに意味のあるものを持っているか、流行を知っているか、認めてもらうことができると感じるから多くの人が好んで持つのではないかと思います.私はブランドデザインによってそういうことを求めるのは物に自分の価値を置いているように思えます.これも大衆消費社会と関係あるのかもしれません.
個性を出すと言っても結局は大きく周りからそれられないし、私たちは周囲との比較の中で生きていると思うので比較の基準となるものの存在が必要かもしれませんがもっと違うところに価値をおくべきだと思います。

個性が求められている社会の中でファッションに関しては個性的だと浮いてしまうのが現状です。特に女性はブランド物に目がなく海外に行ったら免税店で買い物というイメージが世間一般ではあるように感じます。山田さんの意見に私は賛成でブランド物を持つ=ステータスを感じているのではないでしょうか。ただ私としては個人の価値観だと思うのでグローバルスタンダートを批判するつもりはありませんが、=人としての価値なんていう一種の固定観念がこの先生まれて「個人」というものの価値が忘れられたらどうなってしまうのでしょうか。少々オーバーな例えになってしまいましたがほどほどにしてもらいたいと思います。

私は日本人のブランド志向には、日本人の国民性のようなものが反映されているのではないかと考えます。私はファッションではなく、食べ物の例をとって考えてみたいと思います。
今日本では有機栽培が流行っていますが、日本人はそれらを盲目的に信じている傾向があると思います。また有機栽培だけではなく、今日本には○○産、国内産というものがある種のブランドのように作用している現状があります。本来ならそういったブランド品だから、少し値段が高いから、といって万人がおいしいと感じるわけではないはずです。日本人は「目に見える価値」「周囲が作り上げた価値」に頼りすぎ、こだわりすぎる傾向があるのではないでしょうか。それが日本人のブランド志向には反映されていると考えます。

私は「個性を求める」というのはどこか言い訳めいた使われ方が多い気がして、「個性」というものに少し疑問を抱いています。他の一切となんら関係を持たずに存在しているものはこの世にあり得るわけが無く、そういう意味で「個性」は非個性の集合体ではないかと考えるからです。つまり、様々な潮流・要素から取捨選択したり、いろんな割合で混ぜ合わせているうちに、なにか既存の潮流・概念では括りきれないものが生まれ、それが「個性」ではないかと思うのです。
だとすれば、「個性を求める」時代というのは、どこかにある完全無欠な「個性」を求めるばかりで、個性を生み出そうという主体的な動きを喪失している時代なのではないでしょうか。

現在、世界では一人一人の個性や価値観が尊重されています。そんな中で、日本だけはあまり個性、個性と言わない気がします。原宿や渋谷になると話は別ですが、日本人は基本的に「人と同じ行動をしていると安心する」国民性を持っていると言われています。それは、人と違う行動をして共同体との距離を感じるのを恐れているからです。確かに思い当たる節がある気がします。
大勢で攻めていく方が大きな力にもなるし、「流行にのれている」という感覚が、積極的すぎない日本人の自信へと繋がっていっているのだと思います。それに加え、大量消費社会という背景が更に今の状態に拍車をかけているのだと思います。
私はブランド志向が悪いとは思いません。むしろ良いと思います。「人との差をつける」というと少し言い方が悪いですが、これだけ多くのものが出回っているこんな社会さからこそ、一つの王道、「これさえ持っていればとりあえず大丈夫」という安心感と満足感を味わせてくれるブランドものがあってもいいと思います。ブランドものを持つことで日本人はある一種の自己表現をしているのだと思います。

日本人がグローバルスタンダードを好む要因として、日本が島国で他国との接触が少ない点が挙げられると思います。つまり日本人の国民性です。もし内陸国で他国との流通が頻繁だったら、他国と自国の差別化をはかるためにオリジナリティーを求めたと思います。少なくとも現在の日本ほどグローバルスタンダードを好まなかったでしょう。しかしそうでなかったために、衣食住どれをとっても日本はグローバルスタンダードを多く取り入れることで必死に世界基準に合わせようとしているのではないでしょうか。

日本人がブランド志向であると言われる背景には明治以来の西洋化主義があると思います。
日本の文化を西洋に近づけようとするあまりにますます西洋主義になり、西洋のものならどんなものでも取り入れる、といった風潮が浸透していった結果、今の日本がグローバルスタンダードを好むようになったと考えます。
日本では個人主義がしばしば利己主義と捉えられがちで、個人という意識は周りからの自分への評価によるものであり、その評価を上げるために自分というものを作り上げようとするので、これほどまでにブランド志向になる傾向があると思います。

私は、ブランド品ほど個性のないものはないと思います。基本的に、ブランドとは海外では富裕層の人が持つと言うイメージがあります。しかし、日本は違います。高校生がブランドのバックや、財布を持っていることさえあります。多くの日本の女性は、ブランド品を見て「かわいい」と言います。本来、ブランド品はかわいい物になるはずはないのですが、裕福な国であるからこそ、このような状況が生まれているのだと思います。
そして、多くの日本人女性はブランド物を持っているという虚栄心と自己満足に浸ってしまっているのだと思います。

ブランド物を持つ人々の心理を考えてみると、やはりブランドそのものの品質、形、素材などに価値を見出しているのではなく、「ブランドを持っている」という箔が欲しいのだと思います。一律化を嫌う風潮の中、高いお金をかけてブランド品を買うのは、それだけの利点があるからだといえるでしょう。その利点はこの場合大袈裟に言ってしまえば、自分は他の人より勝っているという優越感のようなものなのかもしれません。
グローバルスタンダードが使われ始めたのは、あらゆる技術やシステムの発達、多様化のために世界基準が必要になったからです。それがファッションや建築界にも浸透してきて、一律化を嫌うという現代でもまだ広く使われているのは、それを上回るだけの大きな利点があるからではないでしょうか。

私はブランド物が持つ効果として世界的な規模を持つ会社のものとしての安心感(たとえ高くてもみんなが購入しているからこそ、みんなが認めているからこそ生き残っている)を与えるということをあげたいと思います。もともとモノの値段をつける基準が難しいとは思います。似たような洋服でもブランドの名前がつくだけで桁が違うというのはよくある話ですが、それだけ高いものを購入することができる自分に対しても精神的な満足感を与えていると思います。藤本さんも述べていましたが、日本人は他国に比べて団体でいると安心するという傾向があると思います。実際にヴィトンのバックを持っている大学生を校内でよく見かけます。ヴィトンはバックのつくりも購入後の保証もしっかりしています。それは個人経営のお店では実際に買ってみないとわからない部分です。ブランドというのは目に見えない安心感を与えていると思いますが、それは決して悪いことではないと思います。むしろこの存在があるからこそ反対側にあるような個性的なものの良さも自ずと見えてくるのではないでしょうか。

日本人は確かに他人にあわせようとする傾向がある一方で、「他の人と同じものは嫌だ」という矛盾した気持ちもあるように思います。そうした気持ちから、大量生産されたものよりも、高級なブランド品を持ち、他人との差別化をはかっているのではないでしょうか。また、日本人は海外ブランドへの憧れがあるように感じます。
 ブランド品は一つ一つ厳選してつくられているので、品質は他のものに比べると良いと思います。しかし、多くの日本人は品質でブランド品を選んでいるわけではなく、ブランド品を持つことだけを重視しています。実際に、一つのものを長く使用するよりも、より最新のものを持とうとする人が多いと思います。日本はその本質を理解することなく、グローバルスタンダードという流れに流されてしまっていると感じます。

ブランドに関する議論になってきたので補足。
1、没個性といわれるブランドだが、我々の個性とはどこにあるのか。私の解釈では、本当の自分・カラーといった言葉が同義だ。ファッションにおける個性は自分の本当の嗜好・誰にも流されない好みのことだろう。しかし「本当の」とは幻のような形容だ。「あの人は根は優しいけど・・」という例がわかりやすい。関係性のなかでしか人間は評価されず、「根は・・」なんていうのは譲歩、甘い呟きでしかない。自分にも他人にも認識されることのない「本当の」性質なんてその存在さえ危ういと思う。ただひとつ現れるとしたら芸術を創作するシーンかなと思う(消費社会におけるデザインの消費の仕組みを考えるとそれさえも危ういが)。
2、「ブランド」というものの定義があいまいなこと。きっとここでは老舗高級ブランドが議論にあげられているのだろう。私たち学生だって気に入った店でショッピングを楽しんで当たり前だが、世界的な高級ブランドは間違いなくその延長線上にある。暗黙のうちに議論のまとになっているようなブランドは、世界の王道、グローバルスタンダードとして毎度コレクションを開催して奇抜(まさに個性的!)ともいえる形式やディテールを新しく指南する。

これらは「表現」という行為がいかに難しく微妙なことかを示している。グローバルスタンダードを取り巻く事情を、簡単な議論で片付けることはできないと考える。

確かにブランド品が日本においてスタンダード化しつつあることは気になっていました。それだけ日本が豊かであることの証拠なのでしょうし、日本人にとってブランド品が他者と同じであるという安心感、そして優越感を得るためのものであるとも思います。というのも高校時代、友人がヴィトンの財布を使っており、「それは本物か」と聞いたら「そんな訳ないだろう」と言われた―つまり彼にとっては本物という存在よりもブランド品をもっている(ように見える)という社会的ステータスの方が重要だった―という経験をしたからです。
ですが、自分はブランド品を持つことが悪いことだとは思わない方の立場です。ファッションだけで出せる個性には限りがあると思いますし、同じ香水をつけていても、時に人によって違う印象を与えるように、ブランドならブランド、グローバルスタンダードならグローバルスタンダードの中で、その人の個性は出せるもの、と考えるからです。

日本でブランドがスタンダード化していることは、個性を出そうとすることと深くかかわっていると思います。ブランド品というのは、誰もが知っている高価な品、というイメージがあり、印象も強いです。そのブランド品を持つことで、人々は自分がある程度の水準を満たしているとでもいうような印象を与えようとしているのではないでしょうか。周囲に認められるような個性を出そうとすることが、ブランドのスタンダード化につながっているのだと思います。これはブランド品に限った話ではなく、大学や企業の名前においても言えることだと思います。名前が有名というだけで認めるのではなく、何においても中身までじっくり見て考えることが何より必要なことだと思います。

何人かの方も書いているようですが、やはり日本人はブランド品のバッグや財布というより、ブランド品を持っている自分を想像することが多いのだと思います。彼らはきっと大衆に溶け込むことによって安心感を得ているのでしょう。つまり、自分の目で自分を客観視するのではなく、大衆的な他人の目で自分を客観視してしまう傾向にあるのだと思います。
この二つの見方に大きなそれほど大きな違いがあるとは思えませんが、やはりこのような傾向には少し退屈さを感じます。

日本人は空気が読める人々、相手のことをよく気遣っている人々と世界的にも印象があるようです。しかし、言い換えれば、人の顔色を常に伺っていることになります。このような日本人の国民性がブランド志向に影響を与えていると思います。ブランド品のデザインがいいからではなく、持っている自分を相手がどう見るかに重きを置いています。
グローバル化により、人々の感性もグローバル化されてしまうのではないでしょうか。世界規模で考えことは大事ですが、私は建築においては自分の好みよりも別の価値観を重視してしまうようでグローバル化は必要ないと感じます。

私はいわゆる高級ファッションブランドにはあまり興味がありません。他人とは違う自分でありたいので身に着けるものは高級ブランドのものでなくても「あれみたことある」と思われる特徴的なものは買わないようにしています。ブランドものにはその商品自体の善し悪しの他にもそこのブランドの商品だという価値が大きいものだと思います。周りからみて高級ブランドだとわかってこそ意味があるという人も少なくないのでしょうか。持つことがステータスです。
しかしブランドものを使うことが悪いと言うわけではありません。高級ブランド品にはやはりそれなりの使いやすさがあるのだと思います。他人と同じものを嫌う私でも例えば文房具などは広く使われているものを選びます。価格帯にかかわらずそれぞれのブランドがさまざまなランクのものを自社のブランド品として売り出すことはいいことだと思います。
話はまったく変わりますが、私の高校の野球部ではスポーツメーカーのロゴやマークが入った練習着は禁止だったようです。選手は商品じゃないという理由だそうです。ロゴマークをみて選手が商品だと思う人はそうはいないと思いますが、それだけブランドというものが日常生活の中で影響を持つのだなと考えさせられた出来事でした。同じブランド品をもっていてもその人一人一人はグローバル化され得ない一個人なんですよね。

 確かに日本ではグローバルスタンダードが好まれていると思います。食の分野になりますが、昨年日本でミシュランガイドの東京版が発売されました。ミシュランガイドというものは、世界共通の調査方法、すなわち世界基準によって星による格付けをするわけです。こうしたミシュランガイドが、発売当初大人気となり売れたということは、日本人のグローバルスタンダード、そしてブランド好きな一面が大きく表れていたと感じます。世界基準によって認められたものはそれなりの価値があると思います。しかしながら、それに属さないものにも良いものは多く存在するでしょう。グローバルスタンダードだけが良いのではなく、すべてではないということは言えると思います。

日本人がグローバルスタンダードを志向する背景として、世界で通用する一個人でありたいという願いが大きくあると思います。日本は明治維新以来、西洋の文化についていこう、取り入れようと必死なことは現在でも変わりません。西洋の文化を取り入れていなければ世界では遅れた存在になってしまうという意識が、いつまでたっても日本人にはあるように思われます。日本の伝統的なものを排除するまでではないですが、日本風なものよりはグローバルスタンダードへと志向する気持ちには、日本人の気質である日和見主義、つまり世界で優勢な側につきたいという主義、が強く働いているように思えます。

個性が尊重される時代と言われますが、日本ではまだまだ他人に合わせることが基本となっているところが多くあると思います。私が最近疑問に思ったのは就職活動中の人についてです。なぜ就活する時だけ髪を黒くして、みんな同じようなスーツを着て、同じような靴を履くのでしょう。それがルールだから?そうしないと雇ってもらえないから?どうしてありのままの自分では受け入れてもらえないのでしょうか。面接などかしこまった時にスーツを着るのは礼儀と言えるかもしれませんが、それにしても自己を偽っている部分がかなり多いと思いますし、社会がそれを強要していると思います。

 日本人がブランド品を持つ理由は様々だと思います。単にブランド品を持っている自分、というステータス、優越感、人と同じものを持っている安心感、などなどです。しかし社会的ステータスと、皆も持っているから、というのは相反する答えのように思えます。実際キャンパス内ではブランドバッグをもった学生をたくさん見かけますが、彼らがそこまで強くステータスだったりを意識しているようには思いません。なにせ日本では、ファッションにしろ、食にしろ、生活上のありとあらゆるものが何かしらのブランドで固められているといってもおかしくありません。当然のようにブランド品を選んで使っているというのが現状ではないでしょうか。

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