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第3講 コメント
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1 名前:坂牛 2004/04/27 21:50 ID:0a5h1.lH
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- 2 名前:坂牛 2004/04/28 14:00 ID:b3k9XIwi
- 今日のテーマは「21世紀の母親像を語れ」としましょう。
少
し解説します。授業でも最後にダーティーリアリズム、だとか構造力とかその例を挙げましたが、単なるインクルーシヴネスに人は最早感動しない。例えば、先
日六本木ヒルズで見た、六本木クロッシングという現代アートの展覧会は、インクルーシヴネスオンパレードでオブジェクトではなくエンバイロンメントを作っ
ている。それはそれでいのだが、下手するとこれは高校の文化祭で部屋の飾りつけするのとあまり変わりないワイというところまでフツーしている。これはアー
トという領域の拡張としての意義は認めるが、金を払ってみるものではないのかもしれない。
さて、しかしよくよく見ると、これらの中にも高校の文化
祭から一歩抜け出た作品がいくつか見受けられた。そこには許容力のある母親が何かを主張しているのである。つまり、受け入れながら選別しているのである。
その選別眼に主張があるのだと思う。その選別眼こそが新しい母親像だとぼくは思う。
さてみんなにとってその選別眼は何か、前回同様、自分の得意分野にひきつけてくれても結構。建築に真っ向からぶち当たっても結構。未来像を提示ください。
- 3 名前:米粒(46040) 2004/04/29 13:38 ID:MI4TuZCb
- 先
生は、父親ー内向的、母親ー外向的という対立を立てていたと思うんですが、僕は、父親はむしろ外に向いているものなんじゃないかと思うのです。社会に対し
て身構えていて、その意味で外に向いてる。でも父親が外に向かっているからこそ内側の柔らかい部分を保護できる訳で、その意味では外界に対するバリアであ
り、壁です。
母親はその壁の内側で、内に向いていて、共同体的であり包容的であった訳です。母親の包容力は父親という壁の内側で発揮されていて、両者は相補的であった。
もちろんこのような機能的区別は、性差別的だし、時代遅れだし、乗り越えられなければならないだろう。
し
かし、単純に父親的な壁を排除した、母親的なinclusiveな建築がいいかとゆーと、例えば実際には外からの視線を気にして生活しなければならなかっ
たり、またセキュリティ的な欠陥があったりして、かえって暮らしにくいということもあるに違いない。これは招き入れるというよりむしろ社会の側が家に侵入
してきているのであって、その結果内側の生活が疎外されるということにもなってしまっている。母親的なinclusionにはこのような危険性もあるかも
しれない。
といってただ壁を復活させてしまうのでは、元の木阿弥である。
ではどのような母親(という呼称が適切かどうかはよくわからな
い)が求められるか、というとやはりある種の強さを持っていて、inclusiveでありながら、expansiveなものではないかと思うのです。
excludeするのではなくて、expandするという形で外界に積極的に働きかける。
六本木クロッシング僕も見ましたが、先生と同じく、僕も退屈に感じました。なんというか、受動的なんですね。鑑賞者に開かれている、とか言ってても結局むしろ「鑑賞者まかせ」。フライのミニマリズム批判に近いものがあります。
といってもちろん、作品の自律性を言うつもりはなくて、芸術は鑑賞者を巻き込んで成立するものだと思います。しかし、あくまで「芸術が鑑賞者を巻き込む」かたちでです。
オノヨーコの作品に「青い部屋」というのがありました。真っ白い壁の小さな部屋があって、その壁や天井に小さな紙片が貼ってある。
その紙をみると、小さく几帳面な字でただ一行、文が書きつけてある。
「この部屋は青い」
「この部屋は後ろで点のように小さくなっている」
あるいは天井に「こちらが床」とか
も
ちろん、これは鑑賞者が想像力を使って参加しなければ機能しない作品である。しかしその小さな仕掛けに導かれて想像力を働かせるとき、感覚がずらされるよ
うな、綿のような面圧的な力を受ける。次の瞬間に僕たちは青い部屋の中にいて、作品の力と我々自身の力を気付かされるのだ。
このようなか
たちでの触れ合い、互いに作用する感じ。作品の強度もまた(作品がすでに自立的なものでないのであってみれば)、intensive(強度のある、内部集
中の)という方向だけでなく、かといってその反対にだらっと弛緩extendしてしまうのでもなく、我々を巻き込んで広がるような感じのものであるべきだ
ろう。
でも、これって21世紀の母親像だろうか?
むしろ20世紀の"mother"かな。うーむ
- 4 名前:坂牛 2004/04/30 10:41 ID:Upqw3wmp
- オノヨーコのその作品は東現美に展示されてますか?あの展覧会はもともとニューヨークのジャパンソサエティでスタートしたそうでJSで働く知り合いがレコメンドしておりましたが、見に行かれた(のであるなら)カンソウをひとことお願いします。
- 5 名前:水川40615J 2004/05/01 00:24 ID:j.jRH7OB
- 米
粒さんの、父親はむしろ外に向いている、そしてそのように外に、つまりは社会に己をどっしと身構えることによってこそ、一つの「個」として多分に閉じてい
る、という指摘は僕がふと考えていたこととかなり似ています。少しばかり付け足すならばそのような父親像は(昔からあったにせよ)特に二十世紀の社会状況
によって強化されたものだということができます。アドルノの指摘を暴力的に単純化して述べるならそれまでは前近代的な「家」による(主に農業の)自営・自
足生活の「主人」であった父親が産業革命、資本主義、つまりは近代化による雇用情勢の急激な変化によって、企業や工場の「労働者」として都市に流入、つま
り社会の中へと内在化する。いわゆる資本主義下の家庭内における父親の失権です。(驚くことですが前資本主義下では例えば己の無精のせいで貧乏な小作人の
家庭すら父親の専制です。現在では考えにくいですが。ドストエフスキー参照)もちろんそれまでの「家」にしても社会との関わりがあったでしょうが、その価
値基準や共同体としての意味作用はいわゆる「社会」からかなり自律的に、まさに父親を過剰に権威づけるように機能していたでしょう。しかしそんな父親に
とって、その身体がそれまでの「家」という権威の外套なく、ほとんど「裸」同然の状態で社会に開かれることは、大変なことです。つまりはその己の「裸」に
着せる精神的な衣服が(国家主義にしろ社会主義にしろなんでもよいですが)、「個人」の「主義」「主張」と言った近代的自我を語るときに引き合いによくで
るものだったと仮定することができます。
ややずれた話を今回のテーマに強引に戻すなら「家」を半ば喪失した父親(作品)はどこで、どのようにオブ
ジェクト足りうるかということを考えてみたいということです。個々の「家」が自律的に社会に対して父親を父親たらたらしめていたように、オブジェクトを自
己言及的にオブジェクト足らしめる「力」(いわゆるアウラに近いかな)、かつては「宗教」とか「神」とか「国家」とか「王」が自然と、社会に対して担って
やっていたであろう機能(崇拝等)の喪失が父親の失権とパラレルに進んでいないでしょうか。「作品」が「社会」に「裸」で投げ込まれるとき、それが「(社
会の)エンバロメント」を越える何かへと飛翔すること(あるいは飛翔しているように我々に見えること)は困難にならないでしょうか。私には二十世紀に進ん
だ「作品の概念化」(コンセプチュアル・アート)が上記の労働者の自意識の発芽とパラレルに見えてきます。かなり乱暴ですが。
この平行線を辿ると
均整のとれた篠原一男の建築はまさに「全国民サラリーマン時代」のダンディズム。慌しい「外」との付き合いの中でも己を見失わないため、べらべらと上司へ
のお世辞や仲間と無駄口を叩くよりも、無口で不器用な振る舞いしかしない、家に帰って妻や娘に話し掛けても面倒くさがられるだけ、馬鹿にされるだけだから
むしろ黙る、「黙る」ことで逆説的に概念化された父性。黙ること、すなわち閉じること。己の職分(国家を支える、神を崇める)によって自律的に閉じていた
かつての「作品」、かつての父親(一家の主)とは異なっている。
それならば逆に二十世紀の母性像とは(外と)話すことと定義したい。それは現実に
女性の好む電話による「不自然な」コミュニケーションを思わせる。「不自然」なフォルム、「不自然」材質を介すことではじめて「自然(現実)」へと話し掛
ける建築。しかし美術館の中のインクルーシブネスは「不自然」がむしろかなり歪曲した「自然」を「捏造」しているだけのように見えることもあります。
では本題の二十一世紀の母性像とは、歌うこと。子守唄。オブジェクトとして、主張、個を歌いながら周囲を己の中に包んでいく。あるいは聞くこと。これは先生のおっしゃる、受け入れながら選ぶことに近いかもしれません。
- 6 名前:森20615H 2004/05/01 13:53 ID:Gq4d.zPi
- 「21世紀の」という点が迷いますね。
そもそも時代を経ても変わらない、安心させてくれる所に「母親性」があるような気もしますが。
まぁ最近は「子供を抱きしめてみてください」ってなCMが流れるくらいだから、21世紀の母親像には「完全には安心させてくれない」って要素も含まれてくるんだろうか?
それこそ先生の仰る「選別眼」みたいなものがあるんでしょうかね。
あんたは出来が悪いから私の子じゃない!!みたいな。
子供もつらいわ。
でもそんな建築ができたら面白いでしょうね。
「親父性」から叱られるのにビクビクしながら住むのでもなく、かといって完全に安心して住めるわけでもない。
落ち着くんだけど、「嫌われちゃいけない」っていう、ちょっとした緊張感の中での生活。
でもそういった「母ちゃん怒ったら怖いからな〜」ってな母親像って別に21世紀特有のもんでもないですね。
うーむ。
- 7 名前:須田(43016) 2004/05/02 00:09 ID:A5BmrOl8
- これまでの母親像というのは、時には厳しいことも言うけれど、常に内を包み込んでいる、見守っているというイメージでしょうか。娘から見た母親というのは年をとっても確固とした母親性を備えた存在であって、絶対に超えられないというか。
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世紀の母親像として私が考えるのは、脆さも兼ね備えた存在です。私も母親は内を向いている、というイメージがありました。これからの母親は外にも目を向け
る、内ばかり見ていられない、だからそこに脆さが生まれるのではないか。母親は包み込むと同時に、内から守られるべき存在でもあるのではないかと思いま
す。
- 8 名前:坂牛 2004/05/02 07:49 ID:grUsX./c
- 須田さん
http://www.granta.com/shop/product?usca_p=t&product_id=248このページを見てください。授業で言ったダーティーリアリズムが最初に使われた雑誌granta8号で、Bill Bufordの序文にDIRTY REAL の意味が語られていると思うのですが。この雑誌図書館にありませんか??
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