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第2講 コメント
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1 名前:坂牛 2004/04/21 15:42 ID:wfsxbKSJ
- 今日のテーマは「妖怪○○を自分の身近な表現手段の中に発見しその表現の強度或いは有効性について述べよ」としてみます。
少
し解説すると、ここでは妖怪の反対語は人間。人間は形態のバランスの規範として存在しています。また、そのバランス概念の基本は全体形成立のための全体と
部分の比率です。その比率がある範囲内に入っていることが人間という規範です。さてそれに対して、こうした部分の比率を逸脱することでそのものの様態をド
ラスティックに変更させる行為を妖怪と呼びます。こうした事例を建築以外から探し出し、そうした表現行為が表現の強度を持つか否か考えてみようというの
が、テーマの主旨です。
(しかしここでひとつ注意したいのは(授業では言い忘れたことですが)この比率の逸脱はやたらとやっても効きません。あたりまえだけど、逸脱は原型を示唆できて始めて逸脱です。)
ではコメント楽しみにしています。
- 2 名前:天野(30602C) 2004/04/22 22:46 ID:SVs49y2X
- 自分は「妖怪テキスト」を取り上げたいと思います。
2、3年前に「侍魂」というコラムを中心にしたサイトが一部で流行りました。(内容が低俗なのでリンクは張りませんが、まだ残っているので興味がある方は検索エンジンで探してみてください。)
このサイトが特徴的だったのはコラムの内容が面白かったことはもちろん、そのテキスト構成が従来の紙媒体上のテキストから大きく逸脱していた点でした。
そ
のテキスト構成とは、色文字や拡大、下線による強調、スクロールをうまく活かした段組などが特徴です。当然のことですが、こうしたテキスト構成が発生して
きたのは電子媒体の登場の影響が大きいと思います。もちろん、それ以前も色文字や極端な大きさの文字による強調は広告やマンガなどでは広く用いられていた
と思います。ですが、それらを使ってテキストを構成することは、同一の色と大きさの文字組が基本の紙媒体上のテキストにおいてはほとんどなかったことだと
思います。それが電子媒体に最適化する形で逸脱したテキスト構成が生まれてきたのだと思います。
このサイトが流行った頃、同じようなテキスト構成の亜流コラムが大量増殖していたように思いますが、面白いことに最近はあまり見ないですし、「侍魂」自身も更新はストップしているようです。
理
由はいろいろあると思います。一つは、やはりコラムの面白さは内容に依拠するからと言えるでしょう。もう一つ考えられることは、技術の向上でウェブ上での
表現手段が多様化したことが挙げられると思います。以前は回線が遅かったので、画像や音声をぐりぐり使った表現ができませんでした。そこで、データとして
軽いテキストの装飾が逸脱的に進化したのではないでしょうか。ウェブの技術的な過渡期にあったからこそ起ったテキスト構成の逸脱だったのかもしれません。
次元の違う話になってしまいますが、進化の過程においても逸脱が発生するのは淘汰が発生する以前のある段階からある段階へ移行する過渡期にあると思います。当たり前のことかもしれませんが「妖怪○○」が発生するのは、何かの過渡期に起るような気がしました。
長い上に、低俗な事例ですいません。
- 3 名前:guinness(30611E) 2004/04/23 15:44 ID:Md.RrPFk
- 去年最後の藤田先生のゼミに呼ばれて出たときに、ある生徒の発表で
初めて知ったのですが、世の中には「図形楽譜」というものがあるそうです。
今急いで調べたてほやほやで恐縮なんですが、九州芸術工科大学のウェブによると、↓
(http://www.kyushu-id.ac.jp/〜sn/20century/keyword_1.html)
「五線譜によらず、他の様々な視覚記号によって記される楽譜を図形楽譜と呼ぶ」となっています。
このとき演奏者は五線譜を見るのでなく五線譜の規定に縛られずに描かれた「楽譜」を見ながら演奏するのです。
図形楽譜には三つ種類があるらしく、上記のウェブでは
1、「個々の記号が作曲者によって明確に意味付けされたもの」
2、「個々の記号の解釈が演奏者に委ねられるもの」
3、「『見る楽譜』。これは、音楽を想起させるような図や記号が「絵画」として書かれた楽譜」
となっています。僕も音楽をやっているので思うのですが、1についてはまあ何とか対処できそうですが、2や3については非常に「妖怪的」でお手上げと言った感じです。
図形楽譜が「妖怪楽譜」なら、ここで人間を規定している比率に当たるものは何なのかと言われれば、それは恐らく階音の比率と言えるものでしょう。おそらく皆さんご存知のように音楽の中で「全音」や「半音」は一定の波長の長さの違いによって規定されます。
で、図形楽譜にはその規定が見られない。
演奏者が演奏する際に出す音が比率によって規定される事は当然ありえますが、楽譜上にはそれはない。
その場合この有効性がどの程度のものなのかについて非常に個人的な意見ですが、図形楽譜はおそらく「演奏者の演奏すべき可能性」というものを広げるために生まれたのではないか、と思われます。
あ
る一定の音を示してしまえばその時点で演奏を制約してしまう、それならその音を指定しなければ良い、という考えはその発生の当初どこかにあっただろうと思
われます。しかしその場合に生じてくる問題は、「新たな演奏の可能性」を喚起するための図形なら、わざわざそれを「楽譜」と位置づける必要はないのではな
いかということです。詩や絵画や写真や映像を見ながら演奏したっていいわけです。
上記1または2のように「作曲者」によってその図形や記号が意味
付けされる、またはヒントとなっている場合は作曲者の音楽的意図が現れているのでその楽譜も「楽譜」たり得ます。しかし3の場合に楽譜と呼べるかどうかは
個人的には疑問を感じます。「絵画」として描かれたものが、例え制作者の音楽的意図が入っていたとしても「楽譜」たり得るのか。それはやはりあり得ないの
ではないかと思います。
僕はこういう考え方は実は好きですし、議論とは関係ないですが音楽と映像のマッチングは今やあたかも必然であるかのように、無くてはならないものになりつつあります。
- 4 名前:米粒(46040) 2004/04/23 18:19 ID:Md.RrPFk
- よーかい、ってゆーと、例えば、あのゴスロリみたいなやつが思い浮かびます。
と、この例だとあまりにストレート過ぎますね。例はまた考えてみよう。
「均整を欠く」というのはやはりある種の「醜」だと思うんですが、
グロテスク、もまた「美的(と既に呼ぶべきでないかもしれませんが、)範疇」に入るものだとは思います。現代芸術の多くのものがそのような効果を狙っています。そしてその攻撃性の度合いによって「グロテスク」は「滑稽」と隣り合っています。
会
田誠とか現代美術である種グロイものを作る人がいますが、とりわけ、美術の世界でグロイものが先鋭化され足りもてはやされたりするというのは、前回の差異
の論理から言って当然なのかもしれません。美しいものをつくるという美術のフィールドだからこそ、批判的な力を持ち得る。
「醜」は感情的
な度合いとしては「美」よりはるかに強烈なものを引き起こすと思われます。「美」はあるところまでは安定的だからです。それゆえ、「醜」はある種の強度と
取り違えられることもあると思います。しかし、ただインパクトがあるというのと、強度がある、というのは違うと思います。
「美」が安定的傾向を持つものだとするとそれの異化作用としての「妖怪」も確かに、というか当然、あるべきでしょう。しかし、そのような異化は新しい、もしくは次元はちがえど、ある種の「美」を生み出すものであってこそ、強度を有しうるのだと私は思います。
- 5 名前:坂牛 2004/04/23 22:51 ID:qzQwPQMK
- 天野さん
最近は紙媒体でも(特に建築関係書では)おっしゃるようなデザインの書物は激増してます。
GUINESSさん
面
白い話。僕も音楽やっている(た)からことの内容は分かります。ただし、この話は、規範の逸脱というよりか、解釈の問題のような気もします。つまり、幾何
学楽譜(?)を見たとき既に、演奏者にとっては規範が存在していないのでは?だから例えば音楽ならぼくはこんなことを想像します。話を演奏者に絞り(僕は
バイオリンを弾いていたので)4弦使って普通なら(規範的には)弾くべき曲をとある1弦だけを使って弾くなんていうこと。(GUINESSさんの発言に触
発された単なる思い付きですが)
米粒さんは逸脱をグロテスクに持って行きましたね。しかし僕のイメージはそこに無く、テーマの提示のところにも最
後に注意で記しましたがここでの逸脱は規範が示唆されるような微妙な逸脱です。美術史が規範(古典)とそれに対する逸脱(バロック)の歴史。と言われるよ
うな文脈での、規範と逸脱ではありません。抽象的に言うと字数がかかるので、また例を挙げるなら、例えば豆腐は四角く切るものだという規範が(慣習と言っ
てもいいかもしれない)あるけれどそれを少し逸脱して四角錐に切ってみる。それを10メートル離れてみるとこれは石かプラスティックでできていると思う。
徐々に近づき、これが豆腐に変わる瞬間この豆腐の表現の強度はかなり発揮されたことになる。なんていうイメージです。
- 6 名前:水川 2004/04/23 23:54 ID:g57V9CNG
- 全
体と部分の比率の大幅な逸脱から畸形としての妖怪が生じているとするとき、それは大きく分けて二つの自体にわけることができるように思えます。それは「過
剰」と「欠如」にです。過剰に関していえば目が何十個、何百個とある人間は妖怪といえるでしょうし、反対に欠如を考えてみれば目がない人間も妖怪と言える
でしょう。しかし仮に目や手が一つしかない場合を考える時、たしかによく知られた一つ目小僧という妖怪がすぐに頭に浮かんできますが、例えば地雷を踏んだ
ため足が一本しかない障害者も考えられます。が、それを見て妖怪と思うことがないのは「損失」と(絶対的な)「欠如」の間にかなり大きなギャップがあるか
らに思えます。(少なくとも人間にとって)「損失」は知的な想像能力によって頭の中で補われるため、その「怪しさ」の強度はあっさりと減速してしまうだろ
うからです。反対に巨大な一つ目が顔の中心で不気味に黙っている一つ目小僧は、どこにも目を補いようがない、絶対的な欠如です。
しかしながら、原
広司の『ヤマトインターナショナル』や今日たまたま帰りがけの散歩のおりに見てきた不忍池に面す『HOTEL COSIMA(菊竹清訓)』などは、全体の
調和に対して個々の部分部分はぼこぼこと、まるで湿気の多い時期のキノコの増殖の如く歯止めのきかない不気味な過剰ですが、一方で視点を少し変えると建築
は妙にぺたんと平たく見えてきて、凹凸の全くない顔のような別の種類の不気味さも感じました。過剰と欠如が上手く歯車をあわせることで、もちろんそれはた
しかに「人間」からかけ離れてはいるけれど全体としては有機的な、つまりは「そうはいっても人間のように血が流れている妖怪」に見えました。
私は
個人的には1950年代前後の「最後の良きアメリカ」の物物に惹かれる傾向があり後期マティスの切り絵、セロ二アス・モンクのピアノなどの挑発的であると
同時に不気味である「欠如」に惹かれます。あるいは過剰に関していうならばスープの缶を無数に複製するウォーホル、同時にサックスを三本口にくわえて吹く
ローランドカーク等でしょうか。人間が「妖怪」を生み出す場合は、人間が「人間(均整のとれた作品)」を生み出すときに比べ、作品が作者を離れてそれ自身
一人歩きし、作者の当初の意図を超えたレベルの畸形へと自然と駆け抜けてしまう傾向がある気がします。もちろんそれは「妖怪」の「魅力」です。
そ
してそれらの妖怪は、普段我々が何らかのものを均整が取れて美しいと感じているのはもしかしたら単なる惰性に過ぎないのではないのかと、我々の意識の根底
を揺さぶりもするように思えます。だから天野くんの言うようにある変化の前兆、契機の一つとして突然変異としての「妖怪」が生じるのかもという指摘は大い
に支持します。
あと余談ですが佐藤雅彦の「毎月新聞」のコマまで全て手書きのマンガ「ケロパキ(カエルの名前です)」あるいは「ピタゴラスイッ
チ」もデジタル、CGが横行する昨今、その超アナログ性がゆえある意味妖怪かもしれません。一方でデジタル妖怪「フレーミー」を作ってしまうところにもま
すます彼の天才がある気がしますし、いつまでたっても三角形の秘密を教えてくれない「ポリンキー」、だれでも思いつくようで誰も思いつかなかった「だんご
三兄弟」もその超時代錯誤性ゆえにもちろん妖怪です。へんに堅苦しい「美」に囚われないですむ広告業界こそある意味「妖怪」製造のメッカかもしれない
(『アミノ式』等)。
反対に大学が「妖怪」を産んだ例はあまり思い当たりません。残念。
- 7 名前:森(20615) 2004/04/24 05:05 ID:gBGxdtZq
- たしかに規範がなければ妖怪の逸脱っぷりも成り立たないし、逸脱表現はその規範と照らし合わせれば、その逸脱している要素を説明できるんだけれども、それぞれの要素からは決して作品全体の説明がきっちりとできないってところが妖怪表現なんだと思います。
「妖怪」という言葉には、やはり理解できないものというニュアンスが付纏う。
その気味悪さが表現に強度を持たせるのであって、説明できる妖怪表現なんて結局パワーを持たないつまらん作品に過ぎないんじゃないか。
Beatles
の“Tomorrow Never
Knows”は典型的な妖怪音楽じゃないかと思うんです。確かにあの曲はリズムがワンパターンだったり、ワンコードだったり、カモメの鳴き声を逆回転させ
た音が挿入されたりと、規範のポピュラー音楽を逸脱している要素としては説明がつくんだけれども、あの曲はそんな要素じゃ説明がつかないパワーを持ってい
る。そして、ただ逸脱するんじゃなくて、その逸脱要素を上手く組み合わせてパワーのある曲を創りだす所にビートルズの凄さはあるんじゃなかろうか、と僕は
思うのです。
規範を逸脱しているけれども、その魅力は逸脱の要素だけでは説明がつかず、その総合体が不気味にオーラを放っている。そこに
妖怪表現のおもしろさがあるのでしょう。坂牛先生の豆腐の例でも、僕は「豆腐=四角の規範を逸脱している」っていう説明できる部分ではなくて、「なんで豆
腐なのよ!?」っていう所に魅力を感じます。(昔ジャンプでやってた「マサルさん」にも通じる部分がありますね。理不尽ギャグも妖怪表現なのか?)不気味
さは「何故規範を逸脱するのかが解らない」といった「Why?」の部分にある気もします。
美学的に「必然性」という言葉で考えてみると、
「作品の必然性を説明できない」というのは一つの妖怪表現の特徴なのかもしれません。この時点で「美とは必然である」という古典的なの美の定義からは外れ
ますね。「醜」や「崇高」は当てはまるとしても、「美」は妖怪表現とは共立できないような気がします。
そしてまた、妖怪表現はコピー不可能なものだと思います。ただ逸脱要素を抽出してコピーしてもパワーのない模造品しかできない。逸脱した要素の絡まり具合で、理解不能の気味悪さを演出できてこそ「妖怪」たりうるし、それ無しには表現の強度は生まれないと思います。
- 8 名前:須田(43016) 2004/04/24 18:29 ID:id7hxURl
- 英
文学を勉強していて、まさに妖怪だと感じるのはJames Joyceの“Finnegans
Wake”です。Joyceはアイルランド出身の作家なので英文学で扱われるわけですが、この作品はアルファベットは使っていますが、もはや英語とはいえ
ない、様々な言語が混ざったような未知の言語で書かれています。どの言語でもないのですから、誰も知らない文法、つづりを持っているわけです。それぞれの
単語の意味は、人によって異なる捉え方をされる可能性を持っています。未知の言語なのに、読者はどうやって意味を捉えるのか?やはり「人間」としての英語
(または別の言語)があり、それを規範とすることで多くの人がこの作品を読み進めるでしょう。通常の文学作品であっても読者によって捉え方は様々ですが、
Finnegans Wakeは「妖怪」言語を作り出すことで読者の積極的な関わりを求めたといえます。
…と書いている私もきちんとこの
作品を読んでいません。すみません。そもそも「読む」という言葉を使っていいのかも疑問です。Joyceは「批評家たちを300年間多忙にするために書い
た」と言ったそうですが、今も多くの英文学者たちが彼の思惑通りに研究を続けているのです。この作品は「妖怪」言語を使っているがために「読めない」わけ
ですから、「人間」言語を使った作品が読む対象であるなら、Finnegans
Wakeは読む対象を逸脱したということになるのでしょうか。当然、「人間」言語ならば翻訳という作業によって共有可能な、異なる母国語を持つ人々の間の
読書体験も存在しないことになります。(実際には翻訳書は出ていますが、それは完全に違う作品である気がします。)森さんが「妖怪表現はコピー不可能なも
の」と書かれていましたが、翻訳の不可能性もそれと通じるものがあるかなと思いました。
- 9 名前:桑(ll36027) 2004/04/26 00:01 ID:Ah2YSaWp
また書き込みが遅くなりました。申し訳ありません。その分、お詫びを籠めて、少々長めに書きます。
≪
球体間接人形展--DOLLS OF
INNOCENCE≫における球体間接人形の妖怪性について書きたいと思います。とはいえ、勇ましく掲げられた劈頭の言葉は、その第一歩を踏み誤りかねま
せん。今回の課題は「妖怪○○」における<逸脱>についてではなかったか?無理矢理に捩じ曲げて表題を課題の表現に押し込めるなら、「妖怪球体間接人形」
という同語反復的な”妖怪用語”が姿を現すのでしょうか。これをより広義に「妖怪人形」と誤魔化そうともこの造語の妖怪性(?)は消えません。そもそも
「人形」という言葉自体が妖怪そのものですらあるような印象さえ残ります。
「妖怪性」を、今回の授業の用語法に倣って<規範からの逸
脱>、それも<規範へのコノテーションを含んだ逸脱>であると定義するならば、その強度、乃至その有効性は、規範と逸脱との緊張関係の内に説明できること
は論を俟たないと思います。また、その緊張関係は正に”緊張”していなければならず、規範という中心の求心力に断固として逆らいつつも、その力学の圏域を
脱することがないという微妙なバランスの内に成り立つことも論を俟たないと思われます。
展示場に展示されていた球体関節人形が、それが
如何にレアリズムを標榜しようとも、人間ではない痕跡を必ずどこかに残している、むしろそれを暗に強調しているという事実を鑑みるならば、それらの人形
が、人間という規範との同一性を前提としつつ、人形であるという逸脱を不断に主張するという先の緊張関係の存在を確認することができます。
し
かし、球体関節人形が、他の一般的な人形に対して特殊な強度を示しているという点を、加えて考える必要があると思います。球体関節人形は、単に人形として
<人間から>逸脱しているのみならず、同時に<人形から>も逸脱している(しかけている)と言えましょう。如何なる展示基準があるのかは不明ですが、この
展覧会に展示されていた球体関節人形は、言うなればすべて、畸形の<人間>であり、同時に畸形の<人形>でもありました。(授業の冒頭で呈示された畸形と
見紛う双子の、正に畸形と化した双子の人形。少女の背部に接続された銅線の数々、腹部から露出する複数の頭部など。)球体関節人形は、人間を逸脱すると当
時に、人形すら逸脱して(しかけて)います。それらの人形は、人間の逸脱であり且つ人形の逸脱でもあるという点において、<二重の逸脱>を生きていると言
い得るのではないでしょうか。このような二重の逸脱が孕む二重の緊張関係が、球体関節人形展に展示された人形の異様なまでの強度を支えていたと考えること
もできると思われます。
また、球体関節人形の強度に関して、逸脱のより詳細な在り方を観察するならば、人形の身体、正確には人間の身体
を考えてみる必要に気がつきます。球体関節人形のうち、あるものは幼児の胴体に中年男性の頭部とその勃起した性器が唐突に接続され、あるものは腰の球体間
接を軸として下半身と下半身とが連続的に接合され、またあるものは幾つかの球体間接を剥奪され、身体をばらばらに所有(?)していました。そこには何か、
分裂症的な人間の身体の露出を見る思いがしました。つまり、個々の感覚が個々の身体の部位に正しく恒常化される以前の身体、言うなれば、感覚の現象が散逸
し、それらが身体の部位に正しくマッピングされる以前の身体、更に言うなれば、感覚の座と身体の座が精神の内に統合される以前の身体という精神分析的な
(?)<感覚の統一>が成立していない少女の身体というメタファを思い出させる何かがあるように思われました。
右手の人差し指に感じた
痛みが、右手の人差し指で起きた痛みとして認識できる。この、当たり前の事実認識が幼児には不可能であり、彼らの身体は漠とした座標を持たぬ闇の広がりで
あり、刺激や感覚は、その闇に浮遊しつつ瞬く光のようなものだそうです。それが、幾多の経験を経て、感覚とその座が、身体という座標の内に正しくマッピン
グされて初めて感覚の統一と身体の統一、更には精神の統一、個体としての統一が果たされるそうです。このことは、我々が当然と考えているような人間の身体
の統一性が、実は所与のものではなく、むしろ獲得されて初めて可能になるということを示していると考えられるし、更には、人間の身体の統一性、規範として
理想的に考えられてきた身体の調和という範型性が、極めて脆いものになりかけているということを露わにしていると考えられるのかも知れません。事実、幼児
期に限らず、成人の身体も極めて曖昧なものであり、その身体は、恒常的に統一性を保つような理想的な規範とは到底なりえないという事実を改めて考えてみる
必要があります。このような規範の揺らぎを直観させたのは正に球体関節人形であり、逸脱の成せる技でした。
即ち、球体関節人形は、人形
の畸形となることを通じて、更には人間の畸形となり、それが強度をもつという事実において、規範となる人間の畸形性を裏から炙り出したと言えるのかも知れ
ません。逸脱は確固とした中心としての規範を前提としながら、そこからの逸脱において規範の規範性を問い直す試みと言うことができると思われます。ただ
し、その際、規範の(仮初の)強度が前提となることは断るまでもありません。
これらのことを、強引に結論に持ち来たすならば、BBSの
先の書き込みにも幾つか示唆されていたように、逸脱が強度を持つのは、その逸脱が逸脱してきたその規範を、逸脱が脅かすという点にあるということになると
思います。もしくは、中心となる規範などはそもそも存在せず、そこには、中心を取り巻く多くの”規範的なるもの”が、規範という幻想を、その空虚なる中心
に映し出しているに過ぎない、という規範性の空虚を考えて見る必要性を、逸脱という冒険が、発見的に教えてくれるということなのかも知れません。規範がな
いというのではありません。規範は現にあり、逸脱に強度を与えています。しかし、規範から単に演繹的に帰結する形態の内に安住していては見えてこない規範
の新たな側面を、畸形乃至妖怪という”適切な”<逸脱>が照らし出してくれる可能性を、逸脱的な思い切った論理で(?)コノテイトすることは無意味ではな
いと思います。
- 10 名前:米粒46040 2004/04/27 15:44 ID:tBP3fPks
- エーと前回のコメントが坂牛先生の意図と異なっていたようなので、修正。
で、コレまでのコメントを見る限り、皆さんやはり規範との批判的関係として考えており、さらにその上である程度「得体の知れなさ」を込めているみたいですね。
これは「妖怪」という語感にカナリ引っ張られているのでしょうし、単に「逸脱」というお題に比べるとやはりやや「醜」のイメージが入るようです。
僕としては今までの皆さんの意見に概ね賛成であるので、今度はちょっと「妖怪」の方にこだわって考えて見よう。
妖怪は概して逸脱的ですが、いくつか類型があるように思われます。例えばゲゲゲで考えると、
@デフォルメ(手長足長とか)
A物の精化(一反もめんとかぬりかべとか)
Bあいのこ的(猫娘とかねずみ男とか)
じゃぁ、今度はコレに当てはめて考えてみると、例えば
@ロング・リムジン、アポロとかのでかいお菓子
A拳銃型ライターとかすし型ストラップ
B手袋型のバッグとか
製品で考えるとAとBの区別は例が微妙ですが、要は何か別の形態の中に機能を込めるものと形態のミックスを狙うものの違いです。
他もっと上手い例がありそうですが、今チョット思いつきません
ところで昔、省エネスーツってのもありましたね?
アレは完全に失敗だったんでしょうが、やはり安易なものが失敗するんだろうか。失敗するとほとんどギャグですね。
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