<?xml version="1.0" encoding="utf-8"?>
<rss version="2.0">
   <channel>
      <title>四谷建築</title>
      <link>http://ofda.jp/column/</link>
      <description>O.F.D.A.　associates リレーコラム</description>
      <language>ja</language>
      <copyright>Copyright 2012</copyright>
      <lastBuildDate>Sat, 31 Mar 2012 17:12:02 +0900</lastBuildDate>
      <generator>http://www.sixapart.com/movabletype/?v=3.32-ja</generator>
      <docs>http://blogs.law.harvard.edu/tech/rss</docs> 

            <item>
         <title>杉本博司展とメグロアドレス</title>
         <description><![CDATA[<a href="http://ofda.jp/column/uploads/surusinotyoukoku%E5%86%99%E7%9C%9F.html" onclick="window.open('http://ofda.jp/column/uploads/surusinotyoukoku%E5%86%99%E7%9C%9F.html','popup','width=387,height=518,scrollbars=no,resizable=no,toolbar=no,directories=no,location=no,menubar=no,status=no,left=0,top=0'); return false"><img src="http://ofda.jp/column/uploads/surusinotyoukoku%E5%86%99%E7%9C%9F-thumb.JPG" width="387" height="518" alt="" /></a>
安井智貴　繰り返して春　2012

凄い雨だけれど原美術館に行った。そうしたらかつて見たこともないほど人がいた。杉本博司人気だろうか？杉本博司の写真、所蔵の絵画等を通して「ハダカから被服へ」というテーマを見せるもの。
写真というのはおよそ表現というもののなかで必然的に対象があることを避けられない。昔は絵画だってそうだったけれど今では必然ではない。いや具象の絵画や彫刻だって描かれ、刻まれたものが対象を写し取ったかどうかなど分からない。でも写真はどんなに加工されようがそこに対象があることは不可避である。
しかし杉本博司と言う人は写真から対象を消した写真家ではないかとその昔水平線を撮った写真を見ながら思った。そこにあるのは対象ではなく彼自身ではないかと感じた。
今回の写真はマネキンにシャネルに始まる近代モードを歴史のように着せてカッチリ撮るものである。実にドライである。そこにはモデルもいなければ服の躍動もない。死んだ服だけである。そしてその服は高い解像度で刻銘に写し取られている。一体杉本は服に何を見ているのだろうか？

品川から目黒に移動し目黒美術館で目黒在住の若いアーテイストによる「メグロアドレス」という展覧会を見た。安井智貴の彫刻は漆で仕上げられた少女である。リアルな生の人のようでいてもちろん生きているわけではない。動きだしそうで、語りだしそうでいてでも冷たい。ということにふっと思いが至る時に先程の杉本の写真同様に突如「生の無いこと＝dead」が浮上する。




]]></description>
         <link>http://ofda.jp/column/2012/03/post_153.html</link>
         <guid>http://ofda.jp/column/2012/03/post_153.html</guid>
         <category></category>
         <pubDate>Sat, 31 Mar 2012 17:12:02 +0900</pubDate>
      </item>
            <item>
         <title>野田裕示展</title>
         <description><![CDATA[<a href="http://ofda.jp/column/uploads/%E3%81%AE%E3%81%A01326941173_photo1.html" onclick="window.open('http://ofda.jp/column/uploads/%E3%81%AE%E3%81%A01326941173_photo1.html','popup','width=409,height=307,scrollbars=no,resizable=no,toolbar=no,directories=no,location=no,menubar=no,status=no,left=0,top=0'); return false"><img src="http://ofda.jp/column/uploads/%E3%81%AE%E3%81%A01326941173_photo-thumb.jpg" width="409" height="307" alt="" /></a>
国立新美術館で野田裕示の個展が開かれている。ずーっと見たいと思っていた作家である。彼の作品は記憶の断片を蘇らせる力がある。絵を見ると人はなにがしか記憶を刺激されるのだが、例えばミケランジェロや、ルーベンスや昔の人の絵を見てもそんな絵の風景や人に僕は現実世界で出会ったことは無いわけでそうなると、彼らの絵を見ても記憶を深く刺激されることはない。それはどんなに立体的に透視図で描かれていても絵に見える。かといって日本人の同時代人が描いた写実画あるいはや写真はどこかで見たという記憶を生むかもしれないが、それはそれで過去の記憶のどこか一点にとどまる。
野田さんの絵は抽象絵画なのだが、キャンバスを重ね合わせたり、合板を張ったりして表面に微妙な襞や目地が作られその上に何重にもアクリル絵の具が塗り重ねられスクレープされ削り取られている。そのテクスチャーと色の重なりが現実のモノの汚れや風化を想起させる。抽象であるが現実のどこかの断片のように見えてくるのである。つまり記憶のどこか一点を刺激するのではなく記憶のどこかの複数の場所に立ち現われてくる。その重層的な刺激（あるいはこちらの記憶の蘇り）がとても脳ミソを刺激する。
久々にズーンとくる絵を見た。
]]></description>
         <link>http://ofda.jp/column/2012/02/post_152.html</link>
         <guid>http://ofda.jp/column/2012/02/post_152.html</guid>
         <category></category>
         <pubDate>Sat, 25 Feb 2012 13:16:20 +0900</pubDate>
      </item>
            <item>
         <title>ジャクソン・ポロック展</title>
         <description><![CDATA[<a href="http://ofda.jp/column/uploads/porokkuporokku1.html" onclick="window.open('http://ofda.jp/column/uploads/porokkuporokku1.html','popup','width=505,height=685,scrollbars=no,resizable=no,toolbar=no,directories=no,location=no,menubar=no,status=no,left=0,top=0'); return false"><img src="http://ofda.jp/column/uploads/porokkuporokku-thumb.jpg" width="400" height="542" alt="" /></a>
国立近代美術館でジャクソン・ポロック展が始まった。ポロックはいろいろな企画展でちょくちょく顔を出すし、世界中の近代美術館にも少しずつある。でもまとまった量を一度に見たのは初めてである。彼の歴史がよく分かった。
かの有名なポーリングを使った制作風景がビデオ上映されていたので全部見た。彼は数時間（恐らく一日中）刷毛を缶に突っ込んでキャンパスの上で、垂らす、叩きつける、曲線状に流すという数種類の動作を延々とやっている。見ている方が飽きてしまう。果たして本人は飽きないのだろうか？
もちろんそうした単調な繰り返しがあの多中心で焦点の定まらない画面を作り上げるわけである。それにしても、この繰り返しの途中で缶のペンキを全部ぶちまけたいというような衝動にかられないのだろうか？
実は抽象的ポーリングの次に彼はブラックポーリングと呼ばれる、黒のみ使って余白も見えるやや具象的な墨絵のような時代を迎える。それはポロックの凋落と呼ばれる作品群だそうだ。しかし今回これがとても素敵に見えた。
抽象に飽きた結果がこれである。モダニズムアーテイストは皆抽象に飽きた時に次への光明を見出すのだと僕は思うのだが。
]]></description>
         <link>http://ofda.jp/column/2012/02/post_151.html</link>
         <guid>http://ofda.jp/column/2012/02/post_151.html</guid>
         <category></category>
         <pubDate>Mon, 13 Feb 2012 08:38:35 +0900</pubDate>
      </item>
            <item>
         <title>ＬＥＥ　ＢＵＬ展</title>
         <description><![CDATA[<a href="http://ofda.jp/column/uploads/97_review1_1123%5B1%5D1.html" onclick="window.open('http://ofda.jp/column/uploads/97_review1_1123%5B1%5D1.html','popup','width=396,height=594,scrollbars=no,resizable=no,toolbar=no,directories=no,location=no,menubar=no,status=no,left=0,top=0'); return false"><img src="http://ofda.jp/column/uploads/97_review1_1123%5B1%5D-thumb.jpg" width="396" height="594" alt="" /></a>
森美術館でＬＥＥ　ＢＵＬ展が始まった。韓国の若手アーティストである。草間彌生に始まり何人かの世界的アーティストの影響も感じられるば作品には迫力がある。コンセプチャル建築模型のような作品もある。学生の卒計でこんなの出てきたらわけも分からず点をいれてしまうかもしれない。]]></description>
         <link>http://ofda.jp/column/2012/02/post_150.html</link>
         <guid>http://ofda.jp/column/2012/02/post_150.html</guid>
         <category></category>
         <pubDate>Sat, 04 Feb 2012 18:23:39 +0900</pubDate>
      </item>
            <item>
         <title>今和次郎展</title>
         <description><![CDATA[<a href="http://ofda.jp/column/uploads/konkonnbillboad2.html" onclick="window.open('http://ofda.jp/column/uploads/konkonnbillboad2.html','popup','width=963,height=301,scrollbars=no,resizable=no,toolbar=no,directories=no,location=no,menubar=no,status=no,left=0,top=0'); return false"><img src="http://ofda.jp/column/uploads/konkonnbillboad2-thumb.jpg" width="400" height="125" alt="" /></a>
新橋の汐留ミュージアムで今和次郎展をやっている。1888年に弘前に生まれたとは知らなかった。青森なんだ。やはり泥臭い人は東北から生まれるのかなあ。と思いながら素敵なスケッチを見る。その昔早稲田に行っていた叔母さんが建築やるならと言って大学に入学した時に今和次郎全集をくれた。今から30年くらい前である。古本屋に売ったらいけないと言われてなんとなくその素敵なスケッチを眺めていた。今日その原図を見られて少々感慨深い。
彼は育つのに20年、絵に10年、農村に10年、衣服に10年、住居に10年、生活学に10年と自ら言うくらい幅広い人だった。建築が幅広い文化の上に載っかっているという僕の認識は少なからず今和次郎から来ている。建築家の中でこれだけ真剣に服飾のことを勉強して本まで書いているのは彼くらいである。改めて驚いている。
]]></description>
         <link>http://ofda.jp/column/2012/01/post_149.html</link>
         <guid>http://ofda.jp/column/2012/01/post_149.html</guid>
         <category></category>
         <pubDate>Sun, 22 Jan 2012 16:08:26 +0900</pubDate>
      </item>
            <item>
         <title>オルジャッティ展</title>
         <description><![CDATA[<a href="http://ofda.jp/column/uploads/1273499191-floor-plan1.html" onclick="window.open('http://ofda.jp/column/uploads/1273499191-floor-plan1.html','popup','width=400,height=261,scrollbars=no,resizable=no,toolbar=no,directories=no,location=no,menubar=no,status=no,left=0,top=0'); return false"><img src="http://ofda.jp/column/uploads/1273499191-floor-plan-thumb.jpg" width="400" height="261" alt="" /></a>
先日東京都現代美術館で「建築アートが作り出す新しい環境」展をみてコラムにこんなことを書いた。
「建築の展覧会はどんなに頑張ったって「そのもの」があるわけではないから・・・
① アーティストとなって建築とはおよそあまり関係ないものを創作する
② 建築創作の思想をそれに代わる詩的言語あるいは造形物で代替する
③ 徹底して本物を彷彿とさせる何か（映像だったり巨大模型だったり）を提示する。
この中で①は本当のアーティストには勝てないのでやめた方がいい②は伝わらないのでやはりあまり得策ではない。だから③をやるのが賢明だ」と
そしたら現在国立近代美術館（竹橋）で行われているヴァレリオ・オルジャッティ展で彼が同じようなことを言っていた。
そこにあったのはプロジェクトごとに①1/33という不思議スケールの模型②詳細ドローイング③スライドショーのボックス④彼が啓発をうけた図像学的自伝と呼ぶ写真である。
このセットを見ると実にその建物がよく分かる。まさに建物の再現努力である。
建築の展覧会はこうあるべきだ。

それにしても彼の建物はとてもいい。大好きだ。建物をこれだけ造りこまずにできたら最高だ。殆ど輪郭線だけでできている。間仕切り壁のある建物なんて殆どない
しかしこれらの建物がこれだけシンプルなのは建物用途がシンプルだからだと言う気もする。一体かれが複雑機能の建物を作るとどうなるのだろうか？そんな仕事来たら断るのだろうか？それともやはりざくっと作っちゃえるんだろうか？
]]></description>
         <link>http://ofda.jp/column/2011/12/post_148.html</link>
         <guid>http://ofda.jp/column/2011/12/post_148.html</guid>
         <category></category>
         <pubDate>Sun, 18 Dec 2011 17:05:26 +0900</pubDate>
      </item>
            <item>
         <title>アーヴィン・ペンと一生三宅展</title>
         <description><![CDATA[<a href="http://ofda.jp/column/uploads/miyaeikko_poster.html" onclick="window.open('http://ofda.jp/column/uploads/miyaeikko_poster.html','popup','width=498,height=704,scrollbars=no,resizable=no,toolbar=no,directories=no,location=no,menubar=no,status=no,left=0,top=0'); return false"><img src="http://ofda.jp/column/uploads/miyaeikko_poster-thumb.jpg" width="400" height="565" alt="" /></a>

ミッドタウンの２１２１ではアーヴィンペンと三宅一生展をやっている。ペンの写真は先日ポーラ美術館で最も素敵だと感じ印象に残っていた。一生をどんなふうに撮ったのだろう？という思いで見にきた。しかしこれは80年代の僕らが学生時代、一生と言えばこの写真と言うあれだった。西武やパルコにはこの写真が溢れていた。とにかく度肝を抜かれた記憶がある。
]]></description>
         <link>http://ofda.jp/column/2011/12/post_147.html</link>
         <guid>http://ofda.jp/column/2011/12/post_147.html</guid>
         <category></category>
         <pubDate>Sun, 04 Dec 2011 17:30:01 +0900</pubDate>
      </item>
            <item>
         <title>モダン・アート、アメリカン</title>
         <description><![CDATA[<a href="http://ofda.jp/sakaushi/diary/uploads/pc_Hopper-Sunday.html" onclick="window.open('http://ofda.jp/sakaushi/diary/uploads/pc_Hopper-Sunday.html','popup','width=200,height=171,scrollbars=no,resizable=no,toolbar=no,directories=no,location=no,menubar=no,status=no,left=0,top=0'); return false"><img src="http://ofda.jp/sakaushi/diary/uploads/pc_Hopper-Sunday-thumb.jpg" width="200" height="171" alt="" /></a>
エドワード・ホッパー　日曜日　1926
国立新美術館でモダン・アート、アメリカン展が行われている。モダンアメリカと言えば戦後の抽象表現主義がすぐに頭に思い浮かぶが、向こうのその手の本を見れば19世紀末から話が始まるのは常識。
と言うわけでここでも19世紀末のリアリズム絵画から始まる。そしてヨーロッパから印象派を習い、それが抽象化されるのは２０年代である。その代表選手は何と言ってもジョージア・オキーフ。草間弥生が憧れた当時の数少ない女流美術家である。そしてオキーフを持って初めてアメリカがアメリカオリジナルの絵を生みだし始めたと感じられる。一方オキーフと同時代にアメリカの都会を主題としてリアリズムを確立していったのがエドワード・ホッパー。これはこれでとてもアメリカらしい。
ところがその後キュビズムが入ってくるとまたヨーロッパの弟子のような姿になるのだが、戦後になって抽象表現主義と呼ばれるアメリカオリジナルのモダニズム絵画が花開く。
僕がUCLAに留学していた80年代はポストモダニズム絶頂期で建築が歴史主義でグレコローマンを具象的に模倣していたのだが、絵画でも抽象化の波は終わり具象が元気だった。大学ではアメリカンアートという授業があり担当教授のチャールズジェンクスは絵画もポストモダニズムの時代であると元気にリアリズム絵画を紹介していた。
この展覧会はその時代の前で終わってしまって少々残念だが、オキーフやホッパーを見るだけでも見る価値はある。
]]></description>
         <link>http://ofda.jp/column/2011/12/post_146.html</link>
         <guid>http://ofda.jp/column/2011/12/post_146.html</guid>
         <category></category>
         <pubDate>Sun, 04 Dec 2011 17:10:22 +0900</pubDate>
      </item>
            <item>
         <title>建築、アートがつくりだす新しい環境</title>
         <description><![CDATA[<a href="http://ofda.jp/column/uploads/ni-da-maiya-%20%E5%86%99%E7%9C%9F.html" onclick="window.open('http://ofda.jp/column/uploads/ni-da-maiya-%20%E5%86%99%E7%9C%9F.html','popup','width=388,height=195,scrollbars=no,resizable=no,toolbar=no,directories=no,location=no,menubar=no,status=no,left=0,top=0'); return false"><img src="http://ofda.jp/column/uploads/ni-da-maiya-%20%E5%86%99%E7%9C%9F-thumb.JPG" width="388" height="195" alt="" /></a>
東京都現代美術館で「0年代のベルリン」展と「建築アートが作り出す新しい環境」展をやっている。ここまで来たので両方見た。ベルリン展もそれなりだけれどとりあえず後者の感想。
建築の展覧会はどんなに頑張ったって「そのもの」があるわけではないから美術館でやる展覧会としてはちょっと他のアートとは違う。彫刻家がその写真とコンセプトだけを展示するようなものである。だから建築家は次のどれかをするしかない。
①	アーティストとなって建築とはおよそあまり関係ないものを創作する
②	建築創作の思想をそれに代わる詩的言語あるいは造形物で代替する
③	徹底して本物を彷彿とさせる何か（映像だったり巨大模型だったり）を提示する。
さてそうやってみると①を選択した人は悪いけれど建築家が本物のアーティストにかなうわけないのだからやめた方がいい。なんだか全く迫力が無い。②を選択した人は残念ながら伝わらない。その本物の脇にそうした思想の根源が置かれているならまだしも、美術館に置いて見る側にそれを想像しろと言っても無理がある。だから結局③をとるのが賢明だと僕には思える。その意味で今回の展示物で最も素敵だったのはヴィム・ヴェンダースの≪ロレックスラーニングセンター≫の３D映像である。近未来映画のようなシーンはフィクションとノンフィクションのボーダーに見る者を誘う。

p.s.ニーダーマイヤはポスターにもなっていて凄く見たかったのだが何処にも展示されていないのはどうして？]]></description>
         <link>http://ofda.jp/column/2011/11/post_145.html</link>
         <guid>http://ofda.jp/column/2011/11/post_145.html</guid>
         <category></category>
         <pubDate>Sun, 20 Nov 2011 15:19:07 +0900</pubDate>
      </item>
            <item>
         <title>感じる服考える服展</title>
         <description><![CDATA[<a href="http://ofda.jp/column/uploads/kannjiruhukuk%E5%86%99%E7%9C%9F1.html" onclick="window.open('http://ofda.jp/column/uploads/kannjiruhukuk%E5%86%99%E7%9C%9F1.html','popup','width=320,height=426,scrollbars=no,resizable=no,toolbar=no,directories=no,location=no,menubar=no,status=no,left=0,top=0'); return false"><img src="http://ofda.jp/column/uploads/kannjiruhukuk%E5%86%99%E7%9C%9F-thumb.JPG" width="320" height="426" alt="" /></a>
オペラシティのアートギャラリ―で感じる服、考える服―東京ファッションの現在展覧会が行われている。この展覧会、10人のデザイナーの展示それ自体も気分が和らぐ楽しいものが多いのだが、それにも増して中村竜二の会場構成にちょっと驚く。だって目線の高さにずーっと梁がかけられていて先が見えないのだから。いい悪いは別にして展示物より存在感がある。カタログに会場構成の考え方が4ページにわたって載っているのも会場構成の存在をアピールしている。それによれば服は人体あっての服なのだから、展示も場所あっての展示でよいのでは、という発想のもをとに会場を20に区切ることを考えたと言う。それはいろいろな方法があるがその中からこの梁をかけ渡すやり方を選んだそうだ。
これは中村竜二の繊細な技からはかけ離れた無骨でなんのヘンテツモ無い、本当にただの白い梁なのである。ただそれが高さ1メートル50センチのあたりにあるのだ。
僕は展示のファッションを見ながらだんだんと違うものを見ていることに気付いた。それは生身の人の着ているファッションである。
普段僕らはしげしげと人の着ている服をみることはできない。素敵だなと思ったってせいぜい2秒である。それ以上見ていると怪しげな輩になってしまう。しかしこのバーがあるとお互いの目は見えないからしげしげと見ている自分が相手には分からないのである。これは結構不思議な感覚である。面と向かって3メートルくらいの位置でその人の服装をじーっと凝視していても大丈夫である。
これこそが今の東京のファッション観察である。展示が無くても十分展覧会の目的が果たせると言う意味ではこの会場構成は凄いものである。
]]></description>
         <link>http://ofda.jp/column/2011/11/post_144.html</link>
         <guid>http://ofda.jp/column/2011/11/post_144.html</guid>
         <category></category>
         <pubDate>Sat, 19 Nov 2011 16:50:39 +0900</pubDate>
      </item>
            <item>
         <title>メタボリズムの未来都市展</title>
         <description><![CDATA[<img alt="metaboism1109.jpg" src="http://ofda.jp/column/uploads/metaboism1109.jpg" width="389" height="290" />
●この頃の建築家は皆スケッチが上手である。磯崎さんの東京計画のパース。

メタボリズムの未来都市展が先週末から行われている。書評を書くために八束はじめ『メタボリズムネクサス』を丹念に読んだので展覧会の内容は既知のもの。しかし様々なオリジナルに触れられるのは展覧会ならではである。もちろん本を読んでいない人にはメタボリズムを1から理解するいいチャンスである。60年代の日本など歴史の１ページであろう今の学生さんはもとより、60年代はまだ小学生だった我々の代までも含めて是非見ておくべき展覧会である。
展覧会場に足を運びこの時代の建築は良くも悪しくも機械時代のそれだと再確認した。代々木の体育館と中銀カプセルタワーの工事中の写真を見ているととても半世紀前のものとは思えない。半世紀先に起こっていることかと錯覚するくらいである。ことほどさように建築はある意味で反機械化している（いや社会が機械時代から脱却しようとしている）。それがいい方向かどうかは今のところよくわからない。
]]></description>
         <link>http://ofda.jp/column/2011/09/post_143.html</link>
         <guid>http://ofda.jp/column/2011/09/post_143.html</guid>
         <category></category>
         <pubDate>Mon, 19 Sep 2011 17:27:59 +0900</pubDate>
      </item>
            <item>
         <title>横浜トリエンナーレ</title>
         <description><![CDATA[<img alt="kabakabaIMG_0816.jpg" src="http://ofda.jp/column/uploads/kabakabaIMG_0816.jpg" width="407" height="544" />
デワール＆ジッケル　無題

横浜トリエンナーレにかみさんと行く。先日関さん（北山夫人）がバンクアートの3階の一番の奥の作品がいいと言っていたのを思い出した。それもその話は総合ディレクターの逢坂さんの勧めでもあるとか。
と言うわけで先ずはバンクアートへ。おっと、一階のカバに先ず驚く。かみさんもこれはいいねと呟く。20トンの陶土を使っている、とプログラムには書いてある。ていうことは4トン車5杯分かい？？すごいね。2階は今一つと言う感じ。3階は作りこみがすごい。一通り見て降りて来て関さんお勧めを見ていないことに気づく。プログラムを買って眺めてみるとお勧め作品はなんとクリスチャン・マークレイのものではないか！！！あわてて3階に戻り彼の部屋に入る。入口が分かりづらく見逃していた。
マークレーの作品は古今東西の映画から時刻が時計などで表示される部分を継ぎはぎした映像。そしてその時計をリアルな時と同期させている。だから映画（recorded）を見ながらそれをライブのように感ずるという不思議な体験を誘うものだった。かみさんはそれが一番面白いと絶賛していた。僕もそう思う。
バンクアートを後にして私立美術館へ。何度来てもこの美術館は建物として最低だな。丹下さんの駄作の一つである。まあ建物はひどいが作品は面白い。一番好きだったのは今村遼佑の作品。8畳くらいのモルタル床のスペースに紙屑が落ちているのだが小さなモーターに糸でつながっており。突如浮く。そして突如落ちる。また部屋の片隅が突如光る。とてもちっぽけなことが世界を違って見せる上手な演出だ。それ以外にも、横尾忠則の三叉路、イン・シウジェンの圧縮された円盤状の服、樫木知子のアクリル画、ミルチャ・カントルの白い映像。など見ごたえがあった。
]]></description>
         <link>http://ofda.jp/column/2011/09/post_142.html</link>
         <guid>http://ofda.jp/column/2011/09/post_142.html</guid>
         <category></category>
         <pubDate>Sun, 04 Sep 2011 20:06:15 +0900</pubDate>
      </item>
            <item>
         <title>草間彌生展</title>
         <description><![CDATA[<img alt="chirashi.jpg" src="http://ofda.jp/column/uploads/chirashi.jpg" width="279" height="398" />
ギャラリーワタリで草間彌生の展覧会が行われている。主としてニューヨーク渡航直後の60年代に照準をあわせたものである。両親が不仲の幼少期にノイローゼになった草間に国外行きを勧めたのは信大医学部の先生だったそうだ。草間も言うようにアメリカ行きがなければ今の草間はない。会場にはニューヨークでの最初の個展に展示された「無限の網」が展示されていた。白いキャンバスに白い点が無数に描かれている。このころの実物を見たのは初めてだ。白い斑点に歴史を感じる埃が積もっていた。]]></description>
         <link>http://ofda.jp/column/2011/08/post_141.html</link>
         <guid>http://ofda.jp/column/2011/08/post_141.html</guid>
         <category></category>
         <pubDate>Sat, 13 Aug 2011 17:19:27 +0900</pubDate>
      </item>
            <item>
         <title>パウル・クレー展</title>
         <description><![CDATA[<img alt="%E3%81%8F%E3%82%8C%E3%81%8F%E3%82%8Cexhb_216.jpg" src="http://ofda.jp/column/uploads/%E3%81%8F%E3%82%8C%E3%81%8F%E3%82%8Cexhb_216.jpg" width="398" height="410" />
国立近代美術館でパウル・クレー展を見た。見たと言うのは余り正確ではない。混んでいたので走って通り過ぎた。3つほど気になることがあった。一つはこの間読んだ『半透明の美学』で岡田さんが言っていたクレーのグレーの色使いである。クレーの鮮やかな色はグレーで引き立っているのだが実はグレーはわき役ではなく主役でさえあるという。その言葉が気になってその気で見ていると不思議なものでそう見えてくる。確かに人間の目は鮮やかな色に引きずられるがグレーの面積のほうが大きい絵もある。でもクレーはやはりあの鮮やかな色の方が僕は好きだ。二つ目は二つの特徴的な色遣い。グリッドで区切られた色と拡散する色。これはどちらもいい。3つ目は、西澤くんの会場構成。アトリエごとの個室のようなしつらいとランダムに壁が配置された大空間。ギャラリー風の小空間は好きだが、大空間は散漫だ。]]></description>
         <link>http://ofda.jp/column/2011/07/post_140.html</link>
         <guid>http://ofda.jp/column/2011/07/post_140.html</guid>
         <category></category>
         <pubDate>Sun, 03 Jul 2011 17:43:04 +0900</pubDate>
      </item>
            <item>
         <title>ロバート・フランク展</title>
         <description><![CDATA[<img alt="110602_frank.jpg" src="http://ofda.jp/column/uploads/110602_frank.jpg" width="480" height="360" />
ロバート・フランクoutside my window展がお茶の水のギャラリーバウハウスで行われている。神田明神の横にこんな素敵な写真専用ギャラリーがあるとは知らなかった。
ロバート・フランクは１９２４年スイス生まれ。ニューヨークに移り住みグッゲンハイム奨学金をもらってアメリカを旅し「アメリカ人」（The Americans）と言う有名な写真集を出した人である。
この写真集は家にあり、それを見てから行った。オリジナルプリントの方が何故か粒子が粗い気がした。気のせいかもしれない。でも彼のちょっとぼけたスナップショットには洗い粒子が似合う気がする。多木浩二の写真のように。
]]></description>
         <link>http://ofda.jp/column/2011/06/post_139.html</link>
         <guid>http://ofda.jp/column/2011/06/post_139.html</guid>
         <category></category>
         <pubDate>Sat, 11 Jun 2011 18:07:11 +0900</pubDate>
      </item>
      
   </channel>
</rss>

