<?xml version="1.0" encoding="utf-8"?>
<rss version="2.0">
   <channel>
      <title>四谷建築</title>
      <link>http://ofda.jp/column/</link>
      <description>O.F.D.A.　associates リレーコラム</description>
      <language>ja</language>
      <copyright>Copyright 2010</copyright>
      <lastBuildDate>Sun, 25 Jul 2010 14:02:40 +0900</lastBuildDate>
      <generator>http://www.sixapart.com/movabletype/?v=3.32-ja</generator>
      <docs>http://blogs.law.harvard.edu/tech/rss</docs> 

            <item>
         <title>３３３1 ARTS CHIYODA</title>
         <description><![CDATA[<img alt="%E7%94%BB%E5%83%8F-0123.jpg" src="http://ofda.jp/column/%E7%94%BB%E5%83%8F-0123.jpg" width="400" height="300" />
千代田区の練成中学を改修してできた３３３１ARTS　CHIYODAに行って来た。練成がなくなったというのはちょっとさびしい。僕の高校の親友はここの中学からやってきていた。「あの練成が！！」という気持ちである。しかし見事に蘇ってそれはそれで嬉しい。このスペースかなりお金が掛けられているように見える。企画した人と公がキチント仕事をしているということだ。先ず道路に面した校庭が公園になって開かれているところがとても素晴らしい。そしてアプローチの階段が木デッキ。入口は木サッシュの自動ドアに作りかえられている。一階入ったところは広々としたカフェ。その奥に有料のギャラリー。青木さんじゃないけれど、そもそも美術館のために作られていないことのぎこちなさみたいなものが真っ白なペイントと高照度の直付け照明によって強引に隠蔽されている感じが内臓出ちゃったみたいでいいね。2階3階には不思議なギャラリーが並んでいる。ワークショップをやっているところもあるし展示をしているところもある。そう言えば一階には無料スペースにオークションギャラリーがあった。これは面白いね。値札が付いているとアーティストと対話しているような気分になる。「え、これでこの値段？高いでしょう？」逆に「これは安い」と思うもののあった。あれ？よく見ると建築の模型みたいのあるぞ。千葉学というプレート。バルサで作った小さな住宅模型。五〇〇〇円でした。これは実費+搬入料だね。なかなか充実したスペースだと思ってホームページを見ると総合ディレクターは芸大准教授の中村政人さんだった。]]></description>
         <link>http://ofda.jp/column/2010/07/1_arts_chiyoda.html</link>
         <guid>http://ofda.jp/column/2010/07/1_arts_chiyoda.html</guid>
         <category></category>
         <pubDate>Sun, 25 Jul 2010 14:02:40 +0900</pubDate>
      </item>
            <item>
         <title>マン・レイとアンセル・アダムス</title>
         <description><![CDATA[<img alt="manray1.jpg" src="http://ofda.jp/column/manray1.jpg" width="400" height="515" />
無題（ソラリゼーションによるポートレイト）制作年代不詳　ゼラチン・シルバー・プリント

国立新美術館でマン・レイ展が行われている。オルセー展も行われていてこちらはひどく混雑しているが、マン・レイはそれほどでもない。しかしヨーロッパを巡回してきて更に日本用に70点を加えた本展は滅多に見られることのないマン・レイの作品が多くあるようだ。とういのも数年前に読んだ『マン・レイ自伝』文遊社2007に掲載された50の写真が殆ど展示されていた。マン・レイと言えばその写真手法ソラリゼーションが有名である。「白黒写真を現象する時に通常より過度の光が当たることで起こる、白と黒が反転する現象」のことである。昔ソラリゼーションを見た時にレントゲン写真のようだと思った覚えがある。それは部分的なネガフィルムをみるようなものだから当然である
ところで新国立美術館から歩いて5分のミッドタウンの富士フィルムスクエアではアンセル・アダムス作品展「Portfolio IV」1963年制作』Photographs by Ansel Adams:Portfolio IVが行われている。マン・レイの約10年後に生まれたアンセル・アダムスの作品は白黒のコントラストをめいっぱい効かせて自然を写し取ったものが多い。そのリアリズムはマン・レイのシュール・レアリズムとは対比的である。しかしアンセル・アダムスのリアリズムも一歩間違えるともはや事実そのものとは見えなくなる。この強烈なコントラストはソラリゼーションと紙一重とも言えるのだ。
]]></description>
         <link>http://ofda.jp/column/2010/07/post_127.html</link>
         <guid>http://ofda.jp/column/2010/07/post_127.html</guid>
         <category></category>
         <pubDate>Sun, 18 Jul 2010 19:06:02 +0900</pubDate>
      </item>
            <item>
         <title>David Adjaye</title>
         <description><![CDATA[<img alt="%E3%81%82%E3%81%98%E3%82%83%E3%82%84%E3%81%84.jpg" src="http://ofda.jp/column/%E3%81%82%E3%81%98%E3%82%83%E3%82%84%E3%81%84.jpg" width="590" height="67" />

ギャラ間に来た。ディヴィッド・アジャヤイ展。久しぶりに見たいと思った。アジャィの作品集は二つくらい以前に買って持っていた。タンザニアの黒人建築家というところがミステリアスだし、事務所を開いて10年くらいで世界的な建築家になったと言うのも謎である。その作風は実に簡素である。色々考えた上で一気に抽象化する。これは彼自身言っている。だから形だけみれば妹島さんみたいだ。しかるにその外装はあでやかだ。一目でアジャヤイと分かる。色と目地の付け方が独特だ。鋼板パネルやガラスパネルを馬目地でつけるのがアジャヤィ記号となっている。でも悪くない。着物の柄のようなもの。アジャイ織である。
]]></description>
         <link>http://ofda.jp/column/2010/07/david_adjaye.html</link>
         <guid>http://ofda.jp/column/2010/07/david_adjaye.html</guid>
         <category></category>
         <pubDate>Sat, 10 Jul 2010 13:21:43 +0900</pubDate>
      </item>
            <item>
         <title>荒木対岡本</title>
         <description><![CDATA[<a href="http://ofda.jp/column/RATHOLE%E7%94%BB%E5%83%8F-0098"><img alt="RATHOLE%E7%94%BB%E5%83%8F-0098" src="http://ofda.jp/column/RATHOLE%E7%94%BB%E5%83%8F-0098-thumb" width="400" height="300" /></a>
RAT HOLE GALLERY
青山界隈で二つの写真展を見た。一つはプラダの裏手にあるRAT　HOLE　GALLERYで行われている荒木経惟``センチメンタルな旅　春の旅‘‘あれ？？どこかで聞いたことがあるような？？そう、昔‘‘センチメンタルな旅　冬の旅‘‘という写真集があった。どこかで買った記憶がある。それは最愛の妻ヨーコとの最後を撮ったもの。こちらは冬の旅ではなく春の旅。最愛の猫チロとの最後をとったもの。
写真とは別に、入口すぐのところに映像が流されている。過激なヌードとチロの断続的な映像。荒木って性愛のリアリズムだよなとふと思う。現代のダーティーリアルな情景の中に性愛のリアルが映し出されると懐かしいものを感じさせる。
RAT HOLLE GALLERYから裏を歩いて（このあたりも大分変った）フロムファーストのところから骨董通りへ向かう。その途中に岡本太郎記念館がある。ここでは50～60年代カメラ何台もぶら下げて日本中を撮り続けた岡本を紹介している。題して「岡本太郎の眼」展である。彼の写真の被写体はおよそ彼の眼につくもの全てなのだろうが、やはり縄文に自らの根源を見出す彼の感興を誘ったのは日本の伝統だろう。それはモノであり祭りである。それは時代を超えて現代に刺さる普遍的な力である。荒木の眼が今を見続けたのに対して、岡本の目は時代を超越していた。
]]></description>
         <link>http://ofda.jp/column/2010/06/post_126.html</link>
         <guid>http://ofda.jp/column/2010/06/post_126.html</guid>
         <category></category>
         <pubDate>Sun, 20 Jun 2010 14:16:27 +0900</pubDate>
      </item>
            <item>
         <title>猪熊弦一郎展</title>
         <description><![CDATA[<img alt="image02_thum%5B1%5D.jpg" src="http://ofda.jp/column/image02_thum%5B1%5D.jpg" width="195" height="314" />

オペラシティのアートギャラリ―で猪熊弦一郎展が行われている。三越の包装紙の人くらいしか知らず観たのだが、いやはや予想以上に素敵な絵だった。よくよく見れば三越の包装紙もかなりポップなデザインなのだが彼の絵もある時期から大きくポップに変化していく。１９０２年生まれの芸大生だからその時代の芸大色に染まった絵を描いていたわけだが、パリに数年、ニューヨークで２０年、そしてハワイでに移り住み。色も線も変化していく。無駄の無い瞬間芸のような線の中に選び抜かれた綺麗な色が散りばめられている。伴侶が他界した後は集中的に顔を描くのだがこの顔がまたいい。大きなキャンパスに数十個の顔。瞬間的な線（書の線のような）の集まりだがどの線にも無駄が無い。そしてどの顔にも表情がある。動物シリーズも見事である。田中一光のアートディレクションで糸井重里のコピー猪熊が絵を描いた西武のポスターは見た記憶があったが、言葉が絵に乗り移ったような一体感である。久しぶりに日本人の画家の気持ち良い絵を見る機会だった。
]]></description>
         <link>http://ofda.jp/column/2010/05/post_125.html</link>
         <guid>http://ofda.jp/column/2010/05/post_125.html</guid>
         <category></category>
         <pubDate>Sat, 08 May 2010 18:12:38 +0900</pubDate>
      </item>
            <item>
         <title>「建築はどこにあるの」+「六本木クロッシング２０１０展」</title>
         <description><![CDATA[<a href="http://ofda.jp/column/exhb_180ito.jpg"><img alt="exhb_180ito.jpg" src="http://ofda.jp/column/exhb_180ito-thumb.jpg" width="300" height="225" /></a>
国立近代美術館で「建築はどこにあるの」展をやっている。伊東豊雄、鈴木了二、内藤廣、アトリエワン、菊池宏、中山英之、中村竜治の7人のインスタレーションが展示されている。閉館まで10分だったので駆け抜けた。中村竜治の針金細工の精度には恐れ入った。こういうのは芸大生じゃないとできないな。でも芸大生だと思うと、出来て普通？伊東さんのは分かっちゃいるけれど魅せる。モルフェだけ。でもそこがいい。内藤さんのはアートとしては面白かった。大分遊んだ。でも内藤さんがやることでもないだろう。アトリエワンの作品は巨大キッチュ。先日彼らの本を読んでついに文化人類学者になったと思ったが、これはその調査の際に土産物屋で売っていた竹細工を10倍に拡大したものだ。建築でもアートでもないものを作ろうという姿勢はすごく共感するが、、、
<a href="http://ofda.jp/column/pic_01teruya.jpg"><img alt="pic_01teruya.jpg" src="http://ofda.jp/column/pic_01teruya-thumb.jpg" width="300" height="225" /></a>
皇居の周りを時計の針と逆回転して六本木森美術館へ。ここでは六本木クロッシング2010展が行われている。ゲストキュレーター二人と近藤健一森美術館キュレーターによる企画を読んでいると思い出すものがあった。思想地図の佐藤俊樹の言葉：売れるサブカルと最先端のサブカルは異なる。同様に売れる社会学と最先端の社会学も異なる。である。というのも本企画は市場価値で見えにくくなったアート本来の価値を問おうというもの。つまりとんでもなく高値のつく日本のアートが最先端のアートではないだろう？と言う批判が読みとれる。下手すると建築においてもそうなのかもしれないが、経済バブルの後に訪れた、文化バブルへの一つの反省がアート、哲学、社会学などに垣間見える。ただ今回の人選や内容がキュレーターの意図を十分に伝えられているのかと言うと疑問も残る。少なくとも僕にはよく分からない。まあキュレーターのコンセプトはどうあれ、今日見た中では照屋勇賢の作品が気に入った。色々な市販の袋の一面を丁寧に切り紙細工するもの。身近であって、技を感じ、楽しい。
]]></description>
         <link>http://ofda.jp/column/2010/05/post_124.html</link>
         <guid>http://ofda.jp/column/2010/05/post_124.html</guid>
         <category></category>
         <pubDate>Sat, 01 May 2010 18:14:39 +0900</pubDate>
      </item>
            <item>
         <title>アーティストファイル2010・日本のデザイン2010</title>
         <description><![CDATA[<a href="http://ofda.jp/column/fukudanaoyo.jpg"><img alt="fukudanaoyo.jpg" src="http://ofda.jp/column/fukudanaoyo-thumb.jpg" width="400 " height="326" /></a>
新国立美術館で「アーティスト・ファイル2010」をやっている。今年で3回目。僕の記憶が正確ならば、今年の作品は比較的静かなものが多い。日本の作家6名と海外から1名。陶器をボルトで連結した彫刻（南野馨）。油彩（桑久保徹）水彩とそれの映像化（石田尚志）。油彩（O・JUN）。泡の写真や映像（斉藤ちさと）。メディアインタレーション(Aernout MIK)そして文庫本を素材とした彫刻（と言っていいのか？）（福田尚代）である。
中でも目を惹いたのは福田の文庫本だった。文庫本を切断しながら部分的に粉をかけたり、古い文庫本の表紙の印刷がしみ込んだようなパラフィン紙を本からとって並べたり、背表紙だけを切断して棒状にして平面に並べるなどである。身近なモノを切り刻み多少の加工をするだけで全然別のものに姿を変えていく様にはっとさせられた。
新国立から歩いてミッドタウンへ。あまり知られていないがここには安藤さんの美術館やサントリー美術館以外にもデザイン・ハブという小さなギャラリーがある。ここでは今「日本のデザイン2010」という企画点が行われている。黒崎 輝男(デザインプロデューサー)：「食と学びのデザイン」。柴田 文江(インダストリアルデザイナー)：「デザインの湿度」。曽我部 昌史(建築家)：「地域とデザイン」。八谷 和彦(メディアアーティスト)：「日本の飛行機とデザイン」。廣村 正彰(アートディレクター)：「恋愛とデザイン黒崎 輝男(デザインプロデューサー)：「食と学びのデザイン」。柴田 文江(インダストリアルデザイナー)：「デザインの湿度」という内容である。曽我部氏から案内を頂いたので覗いてみた。
曽我部氏の展示は「日本の都市の未来は、地方の小さな町の変人（！。ここだけの呼び方ですが。もちろんいい意味で、です） 首長が描いている」という仮説にたって、４市町の首長の話をレポートすると言うもの（北海道東川町、兵庫県加西市、徳島県上勝町、大分県竹田市）。今八潮で町づくりをやっているが、やはり独創的な町づくりにはカリスマ的リーダーの強引なまでのヴィジョンが必要と痛感する。
]]></description>
         <link>http://ofda.jp/column/2010/04/20102010.html</link>
         <guid>http://ofda.jp/column/2010/04/20102010.html</guid>
         <category></category>
         <pubDate>Sun, 11 Apr 2010 12:47:26 +0900</pubDate>
      </item>
            <item>
         <title>VOCA</title>
         <description><![CDATA[<a href="http://ofda.jp/column/v_mn_01%E4%B8%AD%E8%B0%B7.jpg"><img alt="v_mn_01%E4%B8%AD%E8%B0%B7.jpg" src="http://ofda.jp/column/v_mn_01%E4%B8%AD%E8%B0%B7-thumb.jpg" width="200" height="203" /></a>

<img alt="v_mn_02%E4%B8%AD%E8%B0%B72.jpg" src="http://ofda.jp/column/v_mn_02%E4%B8%AD%E8%B0%B72.jpg" width="200" height="258" />

上野の森美術館でVOCA2010展をやっている。VOCAはVISION OF CONTEMPORARY ARTの略である。1994年から行われており40歳以下の平面の作家を対象に35名の推薦委員が選んだ作家35名が出品する。推薦委員は全国のキュレーター、ジャーナリスト、研究者等。松井みどりや山下裕二の名前も見られる。そして集められた35作品を今度は審査委員が審査し、5名に賞を与える。審査委員の顔ぶれは、高階秀爾、酒井忠康、建畠哲、本江邦夫、荒木夏実、光田由里、南嶌　宏である。今までこんな展覧会は知らなかったが、この美術館の小ささは好きだし、平面にこだわり、35名の推薦者が勝手に選ぶというコンセプトレスなやり方もわざとらしくなくて面白い。審査員の中には昨今のアートが自閉症的で社会との接点が見られないと言う人もいるのだがもはやそれを云々しても仕方がない。いやむしろ一見自閉症的に見える表層の裏に外に出る意志を感じとれるものもある。また本江邦夫氏が現代社会の表面性と作品の表面性を類比的に語っていたが、確かに現代社会は表層に見え隠れする微妙な世界であり、今日の作品もそう簡単に解読できない表層が特徴的であった。当然表面に対して各作家の異常なテクニカルなこだわりがある。そしてその内実は見ただけでは分からない。カタログの解説を読んでやっと理解できるものも多い。写真の表面に刺繍を施し、再度それを写真に撮ってまた刺繍したものとか、写真の上に絵を描くとか。ここに載せたのはVOCA奨励賞を受賞した中谷ミチコさんの作品である。凹型のレリーフのへこんだところに透明のアクリルを流し込み表面を平らに仕上げている。本物を見ないとこの奥行き感は分からない。最も好きな作品であった。
]]></description>
         <link>http://ofda.jp/column/2010/03/voca.html</link>
         <guid>http://ofda.jp/column/2010/03/voca.html</guid>
         <category></category>
         <pubDate>Sat, 20 Mar 2010 19:41:05 +0900</pubDate>
      </item>
            <item>
         <title>柳澤潤氏の集合住宅</title>
         <description><![CDATA[<img alt="R0021959yanagisawa.jpg" src="http://ofda.jp/column/R0021959yanagisawa.jpg" width="400" height="600" />
柳澤潤氏の成城の集合住宅を見に行った。塩尻の図書館同様、壁柱で９世帯を構成している。すべての世帯が地下一階地上二階、芝生の屋上つきである。一昨年信大のレクチャで見せてもらい、去年は一緒にゲストで行った富山でのレクチャで聞いた。というわけでプランや構成はよく知っていたので実際の壁柱の有効性をじっくりと見せてもらう。先ず壁が内部空間と、外部空間の分量をほぼ半分くらいずつに分けて建てこまれているせいか、内外が等価に見えてくる。つまり内部と外部の空間の密度感が近く、窓越しの外部も内部に感じられてくる。これは密度の問題であり、壁柱の力とはあまり関係ないのかもしれないが、２層分がまっすぐに立ちあがるからそういう風に感ずる部分もある。また壁柱は２層分一度に認知されないと壁柱と気がつかないから、外部からの方がその構成が認知されやすい。中庭は壁柱のデザインがよく見える。また壁柱とすることで、１階と２階が同じ開口率になるのだが、明らかに二階の方が光は入りやすいから二階は少し暑そうである。でもこの暑そうで異様に明るい２階と、涼しそうでちょっと暗がりだけどドライエリアの風が気持ちよさそうな地下のコントラストがこの建物ポイントのように感じた。つまり一つの世帯の中に（集合住宅にもかかわらず）色々な場所があることが楽しい家なのである。]]></description>
         <link>http://ofda.jp/column/2010/03/post_123.html</link>
         <guid>http://ofda.jp/column/2010/03/post_123.html</guid>
         <category></category>
         <pubDate>Sun, 14 Mar 2010 16:55:11 +0900</pubDate>
      </item>
            <item>
         <title>等伯</title>
         <description><![CDATA[<a href="http://ofda.jp/column/201002tohaku02.jpg"><img alt="201002tohaku02.jpg" src="http://ofda.jp/column/201002tohaku02-thumb.jpg" width="400" height="127" /></a>
長谷川等伯展が国博で行われている。大変混雑しているとの噂なので平日の午前中をねらって行ってみた。しかし皆そう考えるからやはり大変混んでいた。等伯の作品は色々な場所で断片的に見てきた。どこかの寺の特別公開で真っ暗な塔の一階に案内され、懐中電灯で壁の絵を見た。先日は金地院で猿を見た。だいぶ前に国博で松林図屏風も見た。しかしこうして若い時代から一連の作品を通してみたのは初めてである。結構期待して見に行ったのだが、期待が大き過ぎた。加えて横で「これは等伯ではない」としきりに呟く人がいて「そう言えばそうかなあ」と洗脳され、どうも批判的に見る状況に陥ってしまった。「このカラスとあのカラスが同一人物の筆遣いとは思えない」とか「このだるまとあのだるまの品格が違う」などなど。
確かに横の呟きが無くとも、初期の入念な仏教画のタッチと時たま現れる酷く雑なタッチと松林図の墨を裏からぼかし塗りした濃淡の緻密な技法とがどうも一連のものに見えてこない。まあ、同一人物じゃやなくてもいいモノはいいとも言えるのだが、等伯と言ってしまえば価値が出るみたいな所があるのかと思うとちょっと醒めてくる。狩野派に対抗して描いた金色原色も結構面白いのだが、また横から「全然良くない」と呟きが聞こえてくる。今度は一人で来ようかな？先日読んだ本に印象派が爆発的に売れた陰には有名な画商が作成した写真入りの目録があったからだと書かれていた。日本のアートには落款はあってもサインが少ない。印の文化とサインの文化の差と言えばそうのだが、そのおかげで一体これが本物かどうかの判断材料が少ないような？それに多くの作品に制作年代がはいってない。これもその作品の来歴がはっきりしないことを物語っている（のでは）？？？？洗脳されて疑心暗鬼になった展覧会だった。]]></description>
         <link>http://ofda.jp/column/2010/03/post_122.html</link>
         <guid>http://ofda.jp/column/2010/03/post_122.html</guid>
         <category></category>
         <pubDate>Thu, 11 Mar 2010 20:06:20 +0900</pubDate>
      </item>
            <item>
         <title>オープンハウス2題</title>
         <description><![CDATA[<img alt="%E7%94%BB%E5%83%8F%20014%E5%B1%B1%E4%B8%AD%E6%B9%96.jpg" src="http://ofda.jp/column/%E7%94%BB%E5%83%8F%20014%E5%B1%B1%E4%B8%AD%E6%B9%96.jpg" width="400" height="600" />
山中湖畔に木島千嘉さんの設計した別荘が竣工した。この別荘は敷地内にあるもう一つの古い別荘と双子のような関係なので双子座荘と命名された。クライアントはとある美術館の館長さん。専門は古代ローマということもあり、建物内は美術館のごとし。ソーン邸と言えば言い過ぎだが、家具、調度品、絨毯、テキスタイル、照明、壁紙、カーテンに至るまで、クライアントとの合作という感じである。こういう感覚の建物は今まで見たことが無かったが、なかなか面白いものである。明るい階段室をめぐる視線の抜けは前作と同様な手法のように見受けられる。しっとりとした大人の設計である。
<img alt="%E7%94%BB%E5%83%8F%20058hasegawa.jpg" src="http://ofda.jp/column/%E7%94%BB%E5%83%8F%20058hasegawa.jpg" width="400" height="600" />
午後バスで東京に戻り、江古田に出来た長谷川豪さんの設計した集合住宅を見に行った。打ち放しの7階建て、千㎡程度の中に22戸がはいる。それらはほとんどがフラットだが、メゾネット、が数個入っている。外観は四角い開口部がランダムに配置されていて昨今のデフォルトなエレベーション。明るい内部が印象的である。それは、水回りを透明にして一般の部屋とプロポーションを揃え、一般の部屋と同様な配置をしていること。加えてテラス的な部分もそのように扱っていること。つまり外部も、水回りも、部屋も配置やプロポーションにヒエラルキーを与えず同質に扱うことで、空間の抑揚を消去し、同質で明るい空間に作り上げている。コンベンショナルな生活から見ればかなり乱暴なところもあるかもしれないが、こういう空間を好む人はいるだろうし、狭い都心の集合住宅であれば一つの楽しい解放だと思う。
]]></description>
         <link>http://ofda.jp/column/2010/03/2.html</link>
         <guid>http://ofda.jp/column/2010/03/2.html</guid>
         <category></category>
         <pubDate>Sun, 07 Mar 2010 16:36:28 +0900</pubDate>
      </item>
            <item>
         <title>dogu</title>
         <description><![CDATA[<img alt="doguupowwer.jpg" src="http://ofda.jp/column/doguupowwer.jpg" width="400" height="1068" />
国立博物館で土偶展が開かれている。大英博物館に出張中だったものが帰国した記念展である。土偶なるものを最初に見たのは何時だったかよく覚えていない。しかし土偶と言うもののを最初に意識したのは多分大阪万博の時である。当時小学生だった自分が、お祭り好きの日本人の一員として万博に行き鮮明に記憶に残っていたものの一つがあの得体の知れぬ太陽の塔である。しかもあの塔の周辺のお祭り広場には丹下健三指揮する建設チームの手により巨大な屋根がかかっていたのだが、なんと太陽の塔はこの屋根を突き破り頭がその屋根の上にはみ出ていた。作者岡本太郎の合言葉「芸術は爆発だ」は当時小学生でも知るほど有名な言葉であり、塔がはみ出したのはきっと爆発だったのだと子供心に理解した。この塔が縄文の土偶に大きなインスピレーションを受けたものだということを聞き、そして多分当時この塔と一緒に土偶が新聞などに載っていたはずである。それが土偶との出会いではないか？
さてこの爆発を見たいと思い出かけたのだが、見て感じたことは爆発がイメージさせる破壊力や粗っぽさとは程遠く、実に繊細なデザインと技法そして、この立像土偶が示すような洗練されたデザインである。土偶は祭祀の道具である、それはその通りなのであろうが、一体これは誰が作ったのであろうか？土偶には男性はいないそうですべては女性。その証拠は乳房が付いているということだそうだが、祭祀に使うものがすべて女性でなければならないということはどういうことか？女性を作るのだから作っていたのは男性だったのだろうか？縄文時代からすでに、女性は描かれる対象であり描く主体にはならなかったのか？それとも土偶は女性しかいないという見方自体がおかしいのか？数千年前の話にどういう解釈をつけようともそれらはすべてが今の人間の楽しい解釈ごっこなのであろうが（考古学を蔑視しているわけではありません）それでも、いろいろな空想が広がっていく。それが古いモノを見る楽しさなのである。
]]></description>
         <link>http://ofda.jp/column/2010/01/dogu.html</link>
         <guid>http://ofda.jp/column/2010/01/dogu.html</guid>
         <category></category>
         <pubDate>Sat, 30 Jan 2010 18:32:38 +0900</pubDate>
      </item>
            <item>
         <title>セシル・バルモント</title>
         <description><![CDATA[<a href="http://ofda.jp/column/main_imagesesirubarumonto.jpg"><img alt="main_imagesesirubarumonto.jpg" src="http://ofda.jp/column/main_imagesesirubarumonto-thumb.jpg" width="400" height="187" /></a>
オペラシティギャラリでセシル・バルモントの展覧会が行われている。オープニングレクチャーには切符を買ったが、センター試験で行けなかった。さて展覧会は3つくらいの部屋があり、最初の部屋は自然の拡大写真と文章が書かれた幅50センチ高さ数メートルのバナーが100本くらい天井からぶら下がっていた。最初はなんだかよくわからない感じで見ていたが、多分ここに彼のコンセプトが凝縮しているように感じた。大きな自然。そしてその拡大。さらにその上からなぞるようなスケッチ。とても面白い。次の部屋も自然の写真の外側にアクリル上にスケッチが広がる。そして最後の部屋にこの写真のヘッジという名の模型が展示されている。この鎖とクロスで出来たモデルは一種手品のようでもある。鎖が重力に抗いながら自立しているかのごとく見えるのである。理屈を考えればそんなに不思議なことではないのだが、一瞬今日を突かれる。入口でもらったチラシにこんな言葉があった「建築とは一見無関係なデザインの源泉へ入り込み、まだ見ぬデザインの可能性を煎じつめることである」バルモントを始め構造表現主義者（と呼んでいいかどうかはやや議論の余地があろうが）の建築への態度を１００％肯定する気にはなれないのだが、この言葉には感ずるところがある。
]]></description>
         <link>http://ofda.jp/column/2010/01/post_121.html</link>
         <guid>http://ofda.jp/column/2010/01/post_121.html</guid>
         <category></category>
         <pubDate>Sun, 24 Jan 2010 14:05:34 +0900</pubDate>
      </item>
            <item>
         <title>医学と芸術展</title>
         <description><![CDATA[<img alt="%E3%83%9F%E3%82%B1%E3%83%A9%E3%83%B3%E3%82%B8%E3%82%A7%E3%83%AD%E8%B6%B3%E3%81%AE%E8%A7%A3%E5%89%96%E5%9B%B3.jpg" src="http://ofda.jp/column/%E3%83%9F%E3%82%B1%E3%83%A9%E3%83%B3%E3%82%B8%E3%82%A7%E3%83%AD%E8%B6%B3%E3%81%AE%E8%A7%A3%E5%89%96%E5%9B%B3.jpg" width="400" height="665" />
ミケランジェロ　脚の解剖図
森美術館で「医学と芸術」展が行われている。医学は限りなく芸術的であり、芸術は生命を相手にする限りこれも限りなく医学に近い。というのがこの展覧会のコンセプトである。15世紀ダヴィンチに始まる人体への眼差し、解剖学の確立、が芸術分野に大きな影響を与えたのは言うまでもない。一昨年バチカンでミケランジェロを見ながらこのマッチョな筋肉は一体なんだ？と思っていたが彼の解剖学への興味のなせる技である。17世紀心身二元論を訴えたデカルトは人間のメカニズムに迫り、人間論を著した。丸山応挙が白波の上で座禅する骸骨を描いていたのは既に18世紀である。デミアン・ハーストの手術室の油彩は畳２畳ほどの巨大画であり、スーパーレアリズムである。彼の生命への興味は深いものがあったことを知る。ヴァルター・シェルスの５名の老若男女の生前、死後の写真は衝撃的である。生死の訴求力がどれほどのものであるかをよく示している。
アートが人の心を揺さぶり続ける限り、そのテーマの中から命が消えることはなく、そうである限りアートと医学の関係が途絶えることもない。
]]></description>
         <link>http://ofda.jp/column/2009/12/post_120.html</link>
         <guid>http://ofda.jp/column/2009/12/post_120.html</guid>
         <category></category>
         <pubDate>Mon, 28 Dec 2009 22:19:33 +0900</pubDate>
      </item>
            <item>
         <title>オペラシティの展覧会３つ</title>
         <description><![CDATA[<img alt="pantonexhibition.jpg" src="http://ofda.jp/column/pantonexhibition.jpg" width="400" height="97" />
<img alt="coophimbelblauexhibition.jpg" src="http://ofda.jp/column/coophimbelblauexhibition.jpg" width="400" height="151" />
初台オペラシティで行われている3つの展覧会がどれも楽しい。
NTTインターコミュニケーション・センターではコープ・ヒンメル・ブラウの「回帰する未来展」が行われている。展覧会というにはあまりに展示品が少なく入場料も安い。ただ展示されているものが少し刺激的である。風船のような家である。その中に入ると自分の心臓の鼓動が家に響き渡り点滅する。家が肉体の延長であることを示した作品である。文字通り身体化した家である。ヒンメル・ブラウはこういうことを60年代の後半に考えていた。彼らも68年組だとは知らなかった。しかし反体制派の彼らがいつしか体制派（と言ったら言い過ぎだろうか？しかしウィーン最大の設計事務所であるからには少なからずそうだろう）なのだから世の中そういうものなのだろうか？
次は同じICCでオープンスペース2009なるメディアアート展が無料で開かれている。ここに並べられた作品はただで見せるには勿体無いくらい上質である。それになんたって子供が楽しく遊んでいるのがいい。
最後はアートギャラリーで行われている家具デザイナーのパントン（パントンチェアで有名な）の展覧会。あのプラスティック一体成型のパントンチェアは未だに定番イスの座をデザイン界に確保している。展覧会の最初は彼の有名なイスたち。後半は靴を脱いで彼の曲線に包まれた空間を体感するものである。寝転がったり座ったり寄り掛かったりする。これはなんとも気持ちいい。こちらも別の水準で文字通り身体的である。パントンはデンマークの王立アカデミーで建築を学びヤコブセンの事務所で働くのだが初期の作品は解説にも書いてあるが北欧的ではなく、アメリカミッドセンチュリーデザインである。つまりあまり木が使われず、スチールと布である。このイスたちは座れないのだが見るからに座りやすそうなのである。デザインは実に斬新なのだがきっと座りやすいだろうと見て感じるから不思議である。だからこそパントンチェアはすたれないのだと思う。この時代のデザイナーは多分死滅しないだろう。というのも生産性と快適性を同時にまじめに考えているから。
]]></description>
         <link>http://ofda.jp/column/2009/12/post_119.html</link>
         <guid>http://ofda.jp/column/2009/12/post_119.html</guid>
         <category></category>
         <pubDate>Sat, 12 Dec 2009 14:27:40 +0900</pubDate>
      </item>
      
   </channel>
</rss>
